(3)やさしくなでて

 薬草農園での仕事が休みになったその日、ゼノはミッシュ宅にいた。もちろん、出戻りしてきたわけではなく、もうすぐ孤児院を出る予定の新入り二人を迎え入れる準備をするためである。
 片付けをして彼らの私物を置けるスペースを確保したり、仕舞ってあった食器や寝具を出してきて洗ったり。あとは大掃除だ。
 朝から始めて夕方には何とか終わった。毎度のことながら、新入りが来る前も来た後もせわしない。
 農園で育った薬草を使った、疲労回復に良いブレンド茶を入れて、ミッシュと一息つく。ミッシュは食卓に肘をつき、熱い茶を冷まそうと水面を吹く。
「助かったよ。俺一人じゃ絶対今日中に終わらなかった……」
「結構やることあったよなあ。お疲れ」
「ゼノもね。もう夕暮れ時か。ご飯さ、今日はバロのとこで食べる予定なんだけど、来る?」
「行く。ミッシュのご飯も美味しいけど、バロも料理上手だからな」
「だよねー。でも、ゼノ、俺らとばっかりご飯食べててもいいの?」
「ああ、うん、ナジさん今すごく忙しくて外で済ませてくること多いんだ」
 勢いで始めた同居生活だが、毎日ナジの帰りが遅く、あの家で夕食を共にしたことはなかった。朝ゼノが出かけるころにはまだ寝ているので、朝食も別で、実のところあまり一緒の時間が取れていない。
 考え方を変えてポジティブな表現にすると、「少しは一緒の時間が取れる」。おやすみを言って同じベッドで寝られるし、朝出る前に寝顔を見られるし、別々に暮らしていたら無理なことだ。
 具体的に何の仕事をしているのかは知らないが、きっとレレシーのために必要なことなのだろう。興味はあったけれど、まだまだ遠慮があって聞けずにいた。
 ミッシュはくすっと思い出し笑いをする。
「ゼノってさ、あんまり料理得意じゃなかったよね。なんでだろう。手順や分量に大きな間違いはなくても、ゼノが作ると不思議な味になる」
「あれはナジさんには絶対食べさせられない……。院にいたころは皆我慢して食べてくれたけどさ。ナジさんは一口食べて捨てそう」
「え、捨てるの?」
「捨てられたことはないよ。自分の料理食べさせたことないもん。まずくて捨てられそうだなってだけ」
「いくらなんでも、せっかく作ってくれたやつを捨てるなんてことないでしょ。同居に誘われるくらいラブラブなのに」
「うん、まあね。でも、一緒に住んでても住んでなくてもナジさんはナジさんだから」
「もしかして、家でもあんなに偉そうなの?」
「偉そうっていうっていうか、よく叱られはするかなあ。鈍臭いとか下手くそとか。事実だから仕方ないんだけど」
「えー。家でもそんな扱い? なんだ、仕事の時は厳しくても、二人の時は違うんだと思ってた」
「時々優しくしてくれることもあるよ」
「時々でいいわけ? ゼノはもっと大事にされるべきだよ」
「されてないわけじゃないと思う。うん、だって、この間話したろ。小指に髪の毛巻いてくれて」
「誰にでもやってたりして」
「するわけないじゃん。あんなの一生に一回のことだろ」
「ゼノにとってはね。相手も同じかどうかはわからない」
「……」
 きっと同じだ、ナジにとっても。あの時彼が伝えようとしてくれた気持ちは本物であるはず。彼はゼノのために、思い浮かぶ中で最善のことをしてくれようとした。真心を感じたあの行為が、彼にとって使い古されたもののはずはない。
「ナジさんは物の言い方がきつい上に愛情表現が下手でわかりにくいけど、あの人の精いっぱいを俺は信じたい」
「健気だねえ。そんなに好き?」
「……うん。ああされて嬉しかったのは、そういうことだと」
「ゼノは爆発するぎりぎりまで我慢するタイプだから、俺は心配なんだよ」
「その点は気をつけるようにする。言いたいこと、ちょっとずつでも言えるように頑張る」
「頑張らなきゃ言いたいことも言えないようじゃなあ……。やっぱり心配。ねえ、ゼノを訪ねる(てい)で家に偵察に行ってもいい?」
「それはやめといた方が……。とにかく大丈夫だから。俺たち結構上手くいってるんだ。悩んでることあったら絶対相談するよ。約束する」
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
 そもそも、行商で訪れた旅先では、宿暮らしとはいえ完全な同居生活だった。寝起きを共にする生活に違和感がないのは、その経験のおかげだろう。
 
 
 バロの家で夕飯をご馳走になったあと帰宅する。浴室で水風呂を済ませて出てくると、ナジが居間にいて、ソファでくつろいでいた。ここ最近はずっと夜更けになってからだったのに。
 尻尾を立ててそわそわと近づいていく。
「今日は早かったんですね」
「やっと一段落ついたからな」
「ご飯は?」
「食った」
「ちょっと待っててくださいね」
 身についた習慣で、ぱたぱた台所まで走って行って、コップに水を入れて持っていく。
「どうぞ」
「ああ」
 ナジはそれを受け取って、ごくごくとほとんど一気に飲んでしまう。
 機嫌は悪くなさそうだ。聞いてみてもいいかな。
「忙しかったのは自警団の仕事の方ですか? ……いや、あの、答えられないことだったらいいんですけど」
「そうだ。ゲオルトの奴隷商人の奴ら、もう一掃したと思ってたんだが、また周辺をうろちょろしてたからな。厳しくお仕置きしてから摘まみ出した」
 ゲオルトの奴隷商人——、親友を攫った憎い敵。近頃はその噂を耳にすることもなくなっていたのに。
「あいつら、まだいるんですか?」
「いる。ここは恐ろしい場所だと徹底的にわからせてやってからは来なくなってたのに、また新しいのが湧いてきやがった。警戒を緩めないでよかったよ」
「……そうですか」
 リタのようにまた誰かが被害に遭ったら、と考えると怖いが、この街には守ってくれる人たちがいる。
「皆のためにありがとうございます」
「やるべきことをしているだけだ」
「疲れたでしょう。お風呂は……」
「水でいい」
「じゃあ足しますね」
「いらん。自分でやった方が早い。手際悪いんだから引っ込んでろ」
「……はい」
 叱られてしまった。この家にはただで置いてもらっているのだから、せめて細かい用事だけでもこなしたいのに。まるで役に立っていない。
 しゅんと肩を落としたゼノを見て、ナジは付け加える。
「あー、これは別に責めてるわけじゃないぞ」
「はあ」
「行ってくる」
 彼はゼノの頭を一撫でしてから出て行く。しまった、まだ風呂上がりのボサボサ頭だった。手入れをしないと。
 寝室で待つことにし、ベッドに座って、柔らかい夜風を浴びながら髪にブラシを掛ける。ゼノも手触りのいい綺麗な毛並みになりたい。
 窓から外に目をやると、屋上ほどではないが、ここからも美しい夜空が見えた。先日の屋上でのやり取りを思い出す。あのとき見せてくれたのが、確かに彼の一面なのだとすれば——。もしかして、さきほどのあれは気を使ってくれたのか? 引っ込んでろ、というのは、気にせず先に休んでいろ、という意味だったのかも。ナジの言葉はストレートなようでわかりづらい。
 物音がして振り返る。ナジが入ってくるところだった。彼はベッドに乗り上がってきて、ごろんと横になる。
「ナジさん、髪ちゃんと拭きました?」
「いや。そのうち乾く」
「駄目ですよ。痛みますって。起きてください」
「めんどくさい」
「俺がやりますから。ほらほら」
 何とか起きて座ってもらい、背後に回って、彼の肩に掛かった布で優しくぽんぽんしながら拭く。頭だけではなく、ふさふさの尻尾もだ。
「ナジさんの毛並みは綺麗なんだから大事にしないと」
「お前はやたら毛並みにこだわるよな」
「昔からね、好きなんです。だって触ってると安心するでしょう。ナジさんのは俺が触った中で一番気持ちいい」
「そうか」
 だいたい乾いてきたので、最後にブラッシングする。ナジは叱るでもなく文句を言うでもなく、おとなしくされるがままになっていた。少なくとも不快ではないのだろう。
「楽しそうだな」
「とっても。ずっとやってみたかったから」
「ブラッシングをか?」
「はい。たくさん触れるし……」
「物好きなやつだ」
「そうですか? 皆やりたがると思うけどなあ」
「なあ、まだか」
「すみません、つい。やり過ぎは禁物ですね。それで……あの」
「なんだ」
 和やかな雰囲気だし、たまには自分からこういうことをしてみてもいいだろうか。
 ブラシを置いて、広い背中にぎゅっと抱きつく。
「嬉しかったです。今日は早く帰ってきてくれて」
「寂しかったのか?」
「少しだけ。遅くなっても外泊せずに毎日帰ってきてくれてるし、ほんとに少しだけですよ」
「半分元の家に戻りたくなってるだろ」
「戻りません。ナジさんが出てけって言うまで。約束したもん」
 背中に顔を押し当てたまま、彼の眼前に左手を突き出して、小指を立てて振る。ナジはその手を握る。
「……ここに嵌まる指輪でも買うか」
「指輪?」
「髪の毛はずっと付けてられないから、指輪にする地域もあるんだそうだ」
「お揃い?」
「ああ」
「いいな。でも、高価なものなんじゃ」
「高いものは物盗りに狙われて危ないから、みすぼらしいくらいでいい。価値は自分たちがわかっていれば」
「そうですね」
 ナジからそんなことを言ってくれるなんて。ほら、「誰にでも」なんかじゃない。
 彼はいつまでも背中にくっついているゼノを離れさせると、向かい合わせになって両手で頬を挟み込む。
「今日はたっぷり時間がある。どうしてほしい?」
「俺もブラッシングしたんです。その、撫でてみてほしいなって」
「そんなことでいいのか」
「はい。……駄目ですか?」
「いや、構わないが」
 頭頂部、耳と耳の間に掌が置かれる。繊細な皮膚の上を指先が滑る感覚が心地良い。
 なでなで、いいな。全身から力が抜けていって、自然と目蓋が下がってくる。眠い。今日も一日よく動いたから。
 ナジはゼノの頭を自分の肩に乗せさせて、撫でるのを続け、満足げに呟く。
「……うちの猫がやっと懐いてきた」
「ん?」
「何でもない」
「俺、下の子の世話ばっかりしてて、自分がこうやって撫でてもらったこと、あんまりなかったなって」
「そうなのか」
「はい。気持ちいいなあ……」
「寝るのか?」
「寝ませんよ。せっかく時間あるのに、もったいない」
「明日早起きするのでもいいぞ」
「じゃあ、そうしようかなあ」
「横になれよ。俺が寝るまでの間だけ撫でててやる」
「なんで今日はそんなにサービスしてくれるんですか?」
「これまでのやり方を変えなきゃ手に入らないものがあるって気づいたからだよ」
「……なんのこと」
「お前は知らなくていい」
 軽く唇を触れさせて、おやすみの挨拶。
 今までと比べて大分大きいベッドで、わざわざぴったりくっついて寝転ぶ。
「ナジさん、だいすき」
「知ってる」
 俺も好きだと聞こえてきてきたのは夢も中だったか。翌朝聞いてみると「言ってない」ということだったから、多分夢。夢だとしたら、いい夢だった。また見られるといいな。
 ミッシュに心配されているこの二人暮らしも、何とか上手くやっていけそうだ。