(一)春——求婚

 山での生活は平穏で、外にさえ出なければ安全だ。山暮らしの不便さが、村人の悪意からレンを遠ざけている。
 そう、平穏。日に日に山に緑が増えていく春。少しずつ温かくなっていくことに喜びを感じる、安らかで静かな毎日。
 朝の分の畑仕事を済ませ、腹拵えしてから、レンは出かける支度を始める。外出の前の習慣で、まずは家の横にある空き地へ。
 その狭い空間は、小さな紅紫色の野花で埋めつくされていて、風に合わせて皆愛らしく揺れていた。この山には自生していなかったため、レンが植えて育てた花。母の好きな、好きだった花、蓮華草。
 手作りの花畑の真ん中には、レンの脛半分くらいの高さの石がある。前まで行ってしゃがみ、手を合わせる。
「母さん、行ってくるね」
 今日もどうか見守っていてください。
 祈りを終えると、物置小屋から取ってきた籠を背負い、桶を片手に持って出発する。荷物の中身は畑で取れた野菜と掃除道具、それから釣り道具。結構な量になるが、毎度のことなので慣れている。
 木々の間を身軽に通り抜け、道のない急な斜面を登る。昔使われていた山道は、嵐で倒れた巨木が通せんぼしていて使えない。今はこれが一番の近道なのだ。目指すは川の最上流。この場所には二つの用がある。
 朝ご飯を食べるより短い時間で到着する。周囲に木がなくなると、滝の落ちる音がごうごうと、より力強く聞こえてくる。
 滝壺のすぐ側には、小柄なレンでも屈まねば入れぬほど小さな洞窟が口を開けていて、暗い暗いそこにはひっそりと、人の目から隠れるように古びた祠があった。祠には村の氏神だという龍神様が祀られていているのだと、母から聞いた。
 麓の村人たちがここまで来るのを見たことはない。この祠の場所まで道が険しくて難儀だということで、母の祖父が若い頃、山の麓には立派な社が建ったという。それ以来、彼らからは忘れ去られた場所だ。
 川から水を汲んできて祠を掃除し、空豆をお供えする。龍神様が豆を食べるのかは知らないが、こういうのは気持ちが大事なのである。……多分。最後に手を合わせ、洞窟を出る。
 外の明るさに目を細めながら、滝にも手を合わせる。天に昇る龍に見えて美しい滝。見ていると不思議と心が安らぐ。
 これで一つ目の用は終わり。次は二つ目の用。
 岩場のいつもの定位置に陣取り、川でのんびり釣りを始める。ここでの獲物が今日の晩ご飯になる。
 早々に一匹確保し、二匹目を狙う。川の流れに合わせて揺れ動く釣り糸をぼんやり眺めていると、背後から足音が聞こえる。
「調子はどう、釣り人さん」
 声に振り返ると、そこにいたのは年の離れた唯一の友人だった。
「スイ」
「一日ぶりだね、レン」
 こちらに微笑み、小さく手を振る彼。その結い上げられた長い髪は手入れが行き届いていて、肌は白く長躯、着物は質素に見せながら上等な布を使っていて、明らかに上流階級の人間。だが、元から山育ちのように、山の斜面も濡れた岩場も軽快に歩く。
 レンは傍らの桶を目線で示す。
「悪くないよ。一匹釣れた」
「山女だな。どれ、私も」
「競争する?」
「数比べか、大きさ比べか」
「今日は大きいのを釣った人が勝ち」
「承知した」
 彼もここに来るときはいつも釣り道具を持ってきている。少し間隔を空けて並び、釣り糸を垂らす。
 八年前ぐらいに、このスイという風変わりな男は、当時まだ存命だった母とレンが二人で暮らす家をいきなり訪ねてきた。そして、「うちの奉公人を助けてくれたお礼がしたい」などと言うのである。
 この辺りには滅多に人が来ない。兎や燕や蛇ならあるが、人を助けた記憶はない。人違いとはいえ、こんな山の中まではるばる来たのだし、一緒に夕飯でも、と言って、母は彼に手料理を振る舞った。
 レンは物心が付く前から、母とこの山で暮らしていて、滅多に他者と会わない。母以外の人とご飯を食べるのは初めてのことだった。母子(おやこ)の「特殊な事情」を知らない彼は、麓の村人たちと違い優しくて、とても楽しい時間を過ごした。
 それから、母の手料理が気に入ったという彼は、ときどき山にやって来るようになった。
 こんなふうに一緒に釣りをしたり、畑仕事を手伝ってくれたり、美味しい果物や菓子をくれたり、レンがもっと小さい頃は鬼ごっこをしたり肩車をしてもらったりもした。外に出られない雨の日は、家の中で遠い地に伝わる物語を語り聞かせてくれることもあった。
 「奉公人がいるくらいのお金持ちだから、山暮らしがめずらしいのかしらねえ」と母は不思議そうにしつつも、彼の訪問自体を拒むことはなかった。
 急な病で母が亡くなった後も、彼の訪問は続いている。残されて一人になったレンを哀れに思ってのことなのかもしれない。正直、彼の同情にはとても助けられている。一人は嫌だ。怖いし寂しい。
 魚釣り対決の勝者は、結局スイ。一匹目でいきなり大物を釣り上げた。立て続けに三匹釣って、食べきれぬからとそこで止めてしまった。レンは粘って五匹釣るが、どれもスイより小さい。
「釣りで勝てたことがない。よい餌でも使っているの?」
「いいや」
「じゃあ、なんで?」
「魚の方から寄ってくるのだ。仕方ない」
「動物に好かれる人というのはいるらしいけど、魚に好かれる人なんているのか」
「魚というか川だな。川がどうぞと差し出してくる」
「あはは。なんだそれは」
 スイは時々おかしなことを言う。彼なりの冗談なのだろうけど、こういう気取らないへんてこなところも、彼の親しみやすさに繋がっているのだと思う。
 無事におかずを獲得したところで、二つの用は達成。片付けして家に戻る。
 魚の入った桶はスイが持ってくれた。重そうな様子は全くない。大人の腕力というのはすごいと思った。
 無事持ち帰った桶は、勝手口から入れてもらう。スイは台所を見渡して問う。
「米はまだあるのか」
「昨日伯父さんのところの人が届けてくれた」
「それはよかった。足りなくなったら言うてくれ。持ってこよう」
「ああ、うん、ありがとう」
 単純に気遣いが嬉しい。
 野菜を作ったり山菜採りをしたり魚釣りをしたりしているが、充分ではない。足りない食料や衣類、薬などは、麓の村に住む母の兄が援助してくれている。他の村人には内密で。
 乳飲み子を抱えた母が、無実の咎で村を追い出されても何とかやっていけたのは、村の有力者である兄がいたからだ。それでも相当な苦労があっただろうが。
 有難いことに母の死後も伯父の援助は続いている。
 晩ご飯の準備にはまだ早い。農作業の続きをすることにした。畑の雑草抜きをスイにも手伝わせる。ゆったりのんびりなので、あまり助けにはならないが、いないよりはいい。作業中はいつも文句は言わずに楽しそうにしている。
 他にも細々とした掃除などを終わらせて、晩ご飯の支度に取りかかる。今日の献立はご飯と山女の塩焼き、山菜汁、漬物。これには手を出させない。よく指を切りそうになったり、器を引っくり返したりするから、危なっかしいったらない。
 代わりに薪割りをしてもらう。これにも文句は出ない。奉公人がいるくらいだから、自分の家ではこんなことをする必要はないだろうに。わざわざ働かされに山奥まで来るなど、酔狂な男だ。
 誰かのために料理をするのは、とても心満たされる行為で、てきぱきと作ってしまい、すぐに夕食。誰かと共に取る温かな食事。母なき今、とても貴重だ。
 山女に齧りつく姿も、汁物を啜る姿も、スイがやるとどこか上品に見えるから不思議だ。
「やはりレンの手料理はよいなあ。母君と変わらぬ腕前になってきたな」
「それはどうも」
「嫁に来てうちで作らぬか」
「またそんなことを……」
 これもまた、へんてこな冗談のはずなのだが、彼は大袈裟に袖で目元を押さえて嘆く。
「つれないことだ。私は真剣に求婚しておるのに」
「麓のおなごに言うてやればいい。男子の身で嫁など、世間知らずの僕でもおかしいとわかる」
 彼はレンの抱える事情を知らないはず。だからこういう受け答えでいい。レンは嫁には行けぬ『男子』。
「私は側に置きたい者を嫁にするのだ。他の者には務まらぬ。嫁となれば苦労はさせぬぞ。欲しいものは何でも与えてやろう」
「はいはい」
「今日も駄目か。まあよい。そなたがもう少し大人になるまで待つとしよう。待つことは得意でな」
 冗談でも何でも、口説かれるのは実は満更でもない。求められる、必要とされることは、自分の存在に価値を与えてくれる。
 スイはどう思うのだろう。レンが山暮らしを余儀なくされている事情を知れば。
 母が初めて産んだ子供は、男児に見えて、女陰も具えたふたなりだった。待望の赤子は奇形の子。妖と契ったと激しく非難され、母は離縁された。
 その後、母は実家に戻ったが、ふしだら女と妖の子は村から追い出せと村人たちから責められた。母の兄も庇いきれなくなり、村外れの山に小さな家を建てて、そこに母子を住まわせることにした。
 村にいられなくなるほどレンの身体ははおかしいのだから、妻として家に上げてもらうなんて、きっと無理だろう。気持ち悪がって、ここに来てさえもらえなくなるかもしれない。
 援助してくれる伯父がいるとはいえ、彼はこの家に来たことはなく、使いも家から離れた指定場所に荷物を置いて帰るだけ。それもいつまで続くかわからない。スイの訪問がなくなれば、レンはこの山で一人きりになる。だから、何としてでも秘密は守り通さねばならないのだ。
 彼は足を崩して立てた膝に肘をつき、レンの心の内を読み取ろうとするように、じっとこちらを見ていた。深い色のその瞳には、見透かせぬものなどないのではないかと、ふとそんなことを考える。
 やめて。そんな目をしないで。全部喋ってしまいそうになる。
「今日はどうしようなあ。泊まっていこうか」
「……どっちでもいいよ」
「では泊まっていこうな」
 山の夜道は危ないから、きっとその方がいい。二人でいると夜もあったかいし。
 交替で風呂に入って、寝支度。二組の布団を並べて敷いて、床に入る。静かになってしばらくし、寝惚けた振りをして彼の布団に潜り込むのが常だった。
 彼が自分とは別の妻を迎える日が来たらどうなるのだろう。もうここには来なくなるのかな。
 出会った頃と変わらず、いつまでも若々しく見えるけれど、彼だってそれなりの年のはずだ。健康な男子がいつまでも独り身でいるはずはない。
 どうか、少しでも長くこの時間が続きますように。眠りに落ちるまで、胸の中で願い事を繰り返した。