(番外編)雨降り

 レンを自分の住処に迎え入れた翌日。彼の家のある山まで、スイは一人でやって来ていた。
 昨日からしとしと降り続く雨。傘など差す必要はない。濡れるに任せる。
 家の隣にある、空き地の墓標の前に立ち、先にすべきことの一つを終わらせてしまう。さきほどから彼女の気配に気づいてはいたが、そこでやっと声をかける。
「……いるのだろう、多江」
『はい』
 魂だけの存在となったレンの母がいた。
「あちらでの生活はどうだ」
『とてもよいものでございますよ。皆が笑い、歌い、労りあい、皆が皆の幸せを願っています』
「そうか。気に入っているならよかった」
 死しても息子の側を離れられなかった彼女を、あるべき場所に導いたのはスイだ。あちらに行ってからも、ときどき息子の様子を見に来ることを許されて、折に触れて覗きに来ているのは知っていた。
「レンが私の住処にいるときには会いに来れぬだろう。我々がまたこちらに来るときは知らせよう」
『ありがとうございます』
「通訳をしてやるから話もすればいい」
『それはいけません。あの子にもう母親は必要ない。見守れるだけで充分すぎるほど。前にも申し上げましたが、あなた様も、私があの子を見に来ているということは黙っておいていただきたいのです』
「そなたたち母子は本当に欲のない」
『子供の幸せを望むのは、とても大きな欲ですよ』
「私は私欲のことを言うておるのだ。他者のための願いは美しい」
 死とは残酷なものだ。見に来られるとはいえ、彼女は愛しい者に声をかけることも触れることもできない。残された生者は触れることはおろか、姿を見ることさえできなくなる。完全に世界が別たれてしまう。
 スイは見ることも話すこともできるが、肉体を持たぬ者には触れられない。包み込んで運ぶことはできるものの、それは肉体的な接触とは別個のものだ。
 側に置いて共に生きることを望むのなら、死は一番の障害だった。
『かつてご加護をお願いしましたが、まさか嫁入りさせていただけるなど』
「そなたに頼まれたからというわけではない。完全に私の私欲だ。永遠に手元に置いておきたかったのだ。そのために自分の巣に持ち帰り、縛りつけようとしている。私はそなたに謝らねばならんのかもしれんな」
『私はあの子が幸せならそれでよいのです』
「努力しよう。私の全てをかけて」
 人の世で生きるべき命を人の世から切り離した。その責任は負う。欲しがるものは何でも与え、惜しみない愛を注ぐ。不満も孤独も感じさせる間もないほどに。
 山の住人の不在を嘆くように、雨脚が強まってくる。
『……村はこれからどうなりましょう』
「麓はもっと降っておるぞ。近いうちに川が溢れるだろう。一気にたくさんの雲を呼んだから、何もせねば何月も降り止むまい」
『そうですか……』
「そなたらを追い出した村でも恋しいか」
『恋しいというか、私はあそこで生まれ、あそこで育ちましたから、たくさんの思い出があります。しかし、あなた様にあれだけのことをしたのです。罰は受けて然るべきでしょう』
「雨を止めてはやる。村ごと水没させたりはせん。だが、まだだ。静かにしろと言うたのに、あやつらはそれを守らなかった。今朝から大勢で山へ登ってきて、なにやら探し回っておる。今この時もな。ここには来れんようにしてあるが」
『……申し訳ありません』
「そなたが謝ることではなかろう」
 この汚れなき魂に何の咎があろうか。
 彼女らが肩を寄せ合って暮らした、この家。
「そなたらの家、私がもらい受けてもよいか」
『この家を?』
「ああ。レンに持って帰ってやりたいのだ」
『私は住めませんので、別に構いませんが……』
「そうか、では有難く。そなたの墓には厳重な結界を張った。奴らが荒らせぬように」
『ありがとうございます』
「さて、そろそろ帰るとするか」
『ええ。名残惜しいですが、またお目にかかれる日が来ることを』
「ああ、必ず」
 本来の姿に戻り、家を抱えて持ち上げる。多江に見送られ、空を飛翔して住処まで運んだ。
 レンは喜んでくれるだろうか。