(番外編二)とある昼下がり

 屋敷の中でよく迷子になるレンは、チョロに案内してもらって書庫に来ていた。屋敷の主人は先刻から出かけていて不在だ。
 探しているのは物語本。昔話やお伽話が載っている書物があればいい。小難しい本ではなくて、興味が湧くもののほうが文字の勉強が捗るだろうとスイに言われた。
 チョロに棚の場所を教えてもらって、レンでも読めそうなものを物色する。チョロもチョロで何か調べ物があるらしく、立ち並ぶ書架の森で、各々目当てを探し始める。
 いくつか手に取ってみて、三冊目。表紙に『春』という覚えたばかりの字があったものを、何となく開く。
「……え」
 手が止まる。開いてすぐ出てきた挿絵に目が釘付けになった。裸の男女が淫らに肉体を絡ませあった絵——、局部の描写がものすごく緻密だ。
 どこを捲っても裸ばかり。右に文章が載っていて、左に目合い真っ最中の男女が様々な体位で描かれている、という構成。
「わーっ!」
 叫び声を上げて、本を閉じる。チョロが瞬時に飛んできた。
「どうなさったんです?」
「なんでこんなものが……!」
「何かありました?」
 さっと背中の後ろに隠す。
「だ、だめだめ! 子供が見ちゃだめ!」
「ああ、枕絵? 艶本?」
「……?」
「裸がいっぱい載ってるやつ?」
「そうだけど! なんで知ってるの」
「長様のお知り合いでそういうのが好きな方がいらして、よく置いて行かれるんですよ。長様が色事に興味がないのを揶揄っていらっしゃったらしいです。逐一ぼくたちで回収はしているんですけど、残っていたんですね」
「子供がこんなの触っちゃ駄目だよ!」
 スイは何を考えているのだ。可愛いチョロにさせていい仕事じゃない。
 彼は小首を傾げてレンを見上げる。
「えっと、前々から申し上げるかどうか迷うておりましたが……、なりは子供でございますけど、ぼくもそれなりの年ですよ」
「え、そうなの? でも僕より年下でしょう?」
「ぼくは人ではありませんので、当然人とは成長の仕方も違いますよ。疾うに百は超えております」
「百……?」
「ある程度修行して、龍になる見込みありと判断された者しかこのお屋敷には上がれないのです。まあ、僕は大分甘めの基準で入れてもらったところはありますけど」
「チョロで百歳越えなんだったら、スイは何百歳なんだ……?」
「何百年歳でおさまるはずないじゃないですか。だって長様ですよ?」
「……さすが神様」
「神様といっても、よその家に毎回艶本を置いていくような方もいらっしゃいますけどねー。それ、どうします? ご覧になりますか?」
 このいかがわしい書物を? ぶんぶんと首を振る。
「見ないよ!」
「えー、すっごく興味がありそうな感じが」
「ないよ、ない! そもそも、文字の勉強で物語本を借りに来たのに……」
「でも、閨房術の勉強にはなるかも」
「けいぼう……」
「閨で使う技? みたいなのが書かれているみたいです。この題名から察するに」
「へ、へえ」
 それは詳しく見てみたいかもしれない。閨でのあれこれに関する知識がからっきしだから、行為中の自分の振る舞いが正しいのかどうかさえわからないのだ。
「なら少しだけ……、あくまで勉強のために」
「一緒に見てみましょうよ」
「チョロは駄目だってば」
「他の本は見たことありますよ? ほら、それ、貸してください」
「んー、ちょっとだけね? 一人で見るの、心細いから……」
 自分より遥かに年上の相手だし、口振りからして意外とこの手のものに耐性がありそうだし、まあ見せても大丈夫だろう。
 差し出された書物を受け取ったチョロは、躊躇なく開こうとする。だが、両側面が縫いつけられたように紙同士がくっついたまま。剥がれず動かない。
「あれま、これは……」
「どうしたの?」
「長様に止められたようですね」
「スイが?」
 どこにいても屋敷での会話は聞こえているというスイが、本を開けなくすることで、待ったを掛けたということか。
「やっぱり子供が読んだら駄目なやつだから」
「というより、ぼくとレン様が色っぽい内容を一緒に見てキャッキャするのが駄目ってことだと思います。長様ってやきもち焼きなんですねえ」
「それってやきもちっていうの?」
「やきもちですよ。怒られたら嫌だからやめておこう」
「そうした方がいいかもね」
「これ、ぼくの方で処分しておきますね」
「お願いします」
 そうだ。やはり見ない方がいいのだ。こういう卑猥なものは。
 
 
 結局、各地に残る物の怪伝説を集めた本をチョロに薦められ、それを借りてきた。
 部屋に戻って文机に向かい、おとなしく読書しようとしたのだが、数行も読まぬうちに居眠りをしてしまう。昨日も夜更かししたからだ。ふと目を覚ましたときには、すでにスイが帰ってきていた。
 畳の上に肘をついて横になり、書物を捲っている。なんの書物かといえば……、あの裸の挿絵、確かに見た。例の艶本だ。
 驚いて一気に目が冴えた。
「ちょっと、なに見てるの!?」
「ああ、チョロから回収したのだ。見るなら私と見よう。ほら、おいで」
「み、見たくないよ!」
「見たそうにしておったではないか」
「してない。してません! 見たかったら一人で見なよ」
「そうか?」
 彼はまた紙面に目を落とす。レンはレンでまた物の怪本を開いたが、どうにも後ろが気になる。
「……スイもそういうの好きなの?」
「そういうの、とは?」
「裸の女の人とか……。興奮する?」
「いや、特には」
「じゃあ、なんで見てるんだ?」
「そなたが勉強すべきことなど書いてあるのかと思うてな。確認だ」
「そんなので勉強しない!」
「いや、聞こえておると言うただろう。聞き流していることの方が多いが、気になる内容の時はついつい耳を澄ませてしまう」
「あの時はちょっと思っただけで……、もう勉強とか考えてない。そんなのいらない」
「そうかそうか」
 レンがいらないと言っているのだから、もう内容の確認など必要ないはずなのに、彼は一向に本を閉じようとしない。
「……まだ見るの?」
「んー?」
「もういいでしょう」
「結構面白いことが書いてあるぞ」
「やっぱり好きなんじゃないか」
「何が」
「そんなに熱心に見て!」
「何を怒っている。なかなか表現が独特でな。参考にはならんが、読み物として面白い」
「そんなこと言って。スイだって乳の大きい女が好きなんだろう」
「乳自体には大してこだわりはないなあ」
「嘘!」
「考えてもみろ。龍にも蛇にも乳はついておらん。母親の乳を吸うて育つこともない。特別に乳に執着する理由がない」
「それはそうかもしれないけど……」
「こんな絵なんぞに妬くことはないよ。私はそなたの乳が一番好きだぞ」
「またすぐそういうことを言う」
「本心だよ。ほらほら、こちらに来て触らせておくれ。ついでに閨房術もじっくり教えてやろう」
「やだ」
「つれないなあ。もう見んから」
 彼が軽く投げ上げた本は、宙に吸い込まれたように消えた。これくらいのことではいちいち驚かなくなってきた。
「スイはもうああいうの見ちゃだめ! 僕も見ないから」
「見んよ。もう見ん」
 怒られているはずのスイは、なぜか嬉しげにににこにこしている。
「……なに笑ってるの」
「妻が可愛いて今日も幸せだと思うて」
「何も可愛いことなんてしてない」
「やることなすこと可愛くて胸が痛い。これがときめきというものなのか」
「えー……、もう」
 まったく訳がわからない。
 彼はこちらに向かって手招きをする。
「蓮華や、おいで」
「……」
 むくれているのも馬鹿らしくなって、にじり寄っていく。座したレンの膝に、彼は頭を乗せてくる。
「膝枕……?」
「一度やってみたかったのだ」
「子供がやってもらうやつだよ」
「少しだけ」
「いいけど……」
 こうして上から彼を見るというのは、あまりないかもしれない。昔母にしてもらったように、頭を撫でてみる。手触りの良い艶やかな髪だ。
 スイはご満悦の様子だった。
「甘やかされるというのもよいものだな」
「大きな子供」
「可愛がっておくれ」
「ふふ」
 なんと龍を手懐けてしまったとは。悪い気はしない。
 あちこち触ってみたくなって、頬を撫で、顎から喉元にかけてをくすぐる。すると、彼はびくっと身体を硬直させる。
「……」
「どうしたの」
「そこはやめてほしい。ひやっとする」
「ひやっと?」
「心臓がぎゅっとなる感じ」
 自分の顎下の辺りを触ってみて、首をひねる。
「こそばいだけだけど」
「人のなりはしておるが、そもそもの身体のつくりが違うのだ」
「そうなの? じゃあ触らない」
「そうしておくれ」
 ごめんねの意味も込めて、また頭を撫で、指で髪を梳かす。
「チョロもね、人ではないんだよね。弟のように思っていたけれど、もう随分な年だったなんて」
「そなたから見ればお爺さんの年かもしれんなあ。しかし、子供は子供だから、今まで通り接すればよい」
「うん」
「なに、百などすぐだ。五百を過ぎればもっと速い」
「僕にはわからないよ」
「そなたもそうなる」
「結婚して僕の寿命も延びた?」
「寿命という考えは捨てた方がいい。期限はない。私が消滅するときがそなたの命の終わりだ」
「……そう」
「悪い男に捕まったという意味がわかっただろう。そなたは私の勝手で人の世から引き離されたのだ。あちらに行くことはできても、あちらで生きることはもうできない。誰も彼も皆そなたより儚く、瞬く間に命を終え、そなたの側から消えていく」
「元々他の人から離れた生活をしていたし……。後悔はないよ。今のところは」
「そうか」
「幸せにしてくれるんでしょう。後悔しないように」
「ああ、もちろん」
「約束したもんね」
 腰をかがめ、レンから唇をあわせる。間近で目があった照れもあって、からかうような言葉が口に出る。
「お膝でねんねする? 子守唄でも歌おうか」
「では頼む」
「乗ってくるんだ」
「歌ってくれんのか」
「子守唄なんてうろ覚えだもの」
「そなたの好きな歌でよいから」
「じゃあ……」
 知っている歌は少ない。口ずさむのは母が好きだった歌。
 うららかな昼下がり、長閑な時間が過ぎていく。

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