1-(2)古馴染みの家

【——ヨマ】

 人間たちが「西の魔城」と言って恐れるその城は、物語のお約束通り、切り立った崖の上に建っていた。
 攻めるに難き城だが、それは住まいにするには大変不便だということ。崖を降りる道は険しいし、そこから街までも遠く、凶暴な魔獣の闊歩する森を抜けていかねばならない。そのため、戦争の時代が終わってからは、長く空き家になっていたという。
 しかし、翼を持ち陸空を自由に移動できるヨマには、立地の悪さなど関係がない。ちょうど新しい家を探していたところ、不動産に詳しい知人にここを紹介され、ただ同然で買い取り、城主となった。数人の配下を引き連れて移り住んで、今では出入りする者も随分増えて賑やかだ。
 今日も今日とて、扉は使わず、自室のバルコニーから翼を広げて飛び立つ。行き先はごく近所、城の建つ崖のその下。森の緑の木々に埋もれるようにして建つ家へ。ここはヨマの古馴染みである植物学者の住処だ。
 地上では役に立たない翼は収納し、いくつも補修の跡のある木製の扉を、邪魔になる蔦を引きちぎってから開ける。
 許可が必要な相手ではないので、ずかずかと勝手に入っていく。相変わらず散らかっていて窮屈な家だが、家主にとっては最高に快適な環境らしい。
 耳を澄ませて音を確認すると、どうやら一階にはいないようだ。おそらく下だろう。足を振り下ろす加減を間違えたら、容易に踏み抜きそうな階段を下り、地下の研究室へ。日の光の届かないそこは、天井が低く、いっそう陰気でじめじめとしていた。
 書物や実験植物——鉢植え、標本、瓶詰めにされた乾燥粉末等が所狭しと並べられた棚を抜け、その奥。デスクの前には薄汚れた白衣の男、ラドトが背を丸めて座り、なにやら懸命にペンを走らせている最中だった。壁を叩いて音を鳴らしてやると、彼は振り返る。
「やあ、ヨマ。来ていたのかい」
「ああ」
「いらっしゃい。適当にどうぞ」
 どうぞと言われても、いかにも座り心地の悪そうな小さい丸椅子しか見当たらない。デスクの側の作業台に、積み上がった書物をどかして腰掛ける。ラドトは多少迷惑そうにしつつも、それに関しては何も言わない。
 デスクの上に散らばった紙に目をやる。ヨマには判別不能な文字がにょろにょろと這っている。
「論文の追い込みか?」
「そう。発表の期日が迫っているからね。もう大分仕上がってきたところ」
「そうか」
「君の方はどうなんだい。仕事は順調?」
「特別良くも悪くもなく」
「それにしては機嫌がよさそうだ。ああ、さては新しい罠が上手くいったんだろう」
 付き合いが長いだけに鋭い。だが、完全な正解ではない。
「いや、新しいのはからっきし駄目だ。何もかからん。かなりの数をばら撒いてみたんだが」
「それは残念。では、ご機嫌の理由は別件ということか」
「以前仕掛けた罠にかかったのがいたんだよ。あの罠は優秀だった。今回ので三人目だから」
「同じ罠に三人も。是非詳しく教えてほしいところだ。一体どうやったんだい」
「古典的な『月の本』の手法だよ。何も珍しいものじゃない。他に同じのをいくつも仕掛けてはいるが、複数かかったのはあれだけ」
「ほう。興味深いな。その本は他と何が違ったのか……」
「たまたまじゃないのか?」
「そうかもしれない。しかし、そうじゃないかもしれない。謎を解明できれば、より多くの人間を異界から呼び寄せることができるかもしれないな」
 眼鏡の奥のラドトの瞳が輝く。植物の研究と罠の研究、この男の興味はこの二つに大きく片寄っている。
 生業も価値観も交友関係も交わるところは少ないが、ヨマとラドトには共通の趣味がある。それは彼の主たる興味のうちの一つ、「異界に人間を捕らえるための罠を張ること」だ。
 城にいるヨマの配下程度では使いこなせない、高度な魔術の技能が必要な上に、罠にかかる獲物が減ってきているので、新しいことを試したり、たまに捕獲に成功した場合には、こうして情報交換をしている。
 この世界にも人間はいる。それなのに何故わざわざ異界から人間を連れてこなければならないのか——、そこには魔族と人間が歩んできた歴史が背景にあった。
 魔族のとって、人間の体液というのは最高の嗜好品だ。酒よりよっぽど美味だし悪酔いもしない。
 中でも精液や愛液が最も旨く、少量で大きな満足を得られる。それらを手に入れるためには相手に性的快感を与える必要があり、せっかくだから自分も楽しもうと性行為に及ぶのは自然な流れ。しかも同族を相手にする場合より特別に具合がいいことが多かったため、昔は魔族が人間を攫い、犯し尽くして捨てる、という事案が後を絶たなかった。
 だが、人間たちはただやられっぱなしだったわけではない。魔族討伐隊を結成し、頻繁に魔族たちの村に攻めてくるようになった。単純な体力、腕力比べでは、人間より魔族の方が圧倒的に強い。だが、人間の中にも魔術を使いこなす者はいたし、強力な兵器を開発する者もいて、次々にやって来る討伐隊を追い返すのは、なかなかに骨の折れる仕事だった。
 面倒臭がりの多い魔族たちはうんざりし、各地の村長(むらおさ)たちが集まって、もう人間を攫うのは禁止にしよう、という決まりを作る。
 魔族と人間の共存の時代。しかしながら、一度人間の味を知った者にとって、あれはそう簡単に忘れられるようなものではない。人間の体液が欲しい、でも、戦いは面倒。そのどちらも解決する案というのが、「異界から人間を連れてくること」だった。
 ヨマから、成功した罠やその時の状況について詳しく聞き取りを行ったラドトは、一通りメモを取ってからペンを置く。
「それで、新しい人間はどうなんだ」
「かなりいい。若いし、健康だし、見目も悪くない。何よりとても味がいい」
「ほうほう。今度是非こちらに」
「連れてきてもいいが、貸さないぞ。私の分が減る」
「まったく、ケチな男だな」
「何とでも言うがいい」
 他の多くの魔族と同じく、元来ヨマには獲物は仲間と共有すべきという意識があり、何度か使って飽きた獲物は配下に下げ渡すことが多かった。だが、あれはしばらく側に置くことにした。使えば使うほどよくて、他者に貸すのが惜しくなるほど気に入ったのは久しぶりだ。あれはヨマが捕まえたのだから、ヨマのものだ。好きなように好きなだけ、自分で使う。
 ラドトはやれやれと言いたげに肩をすくめる。
「気に入ったからと言って酷使していれば、すぐ駄目になるぞ」
「大事に使っているさ。終わった後に毎回治癒術を掛けてやっている。翌日に疲労も残さない」
「治してやったとて、人間はすぐに自分から死のうとするだろう」
「今のところそれはないな。よく脱走しようとはするがね。愚かなことだ。城を出てどこに行こうというのか。運良く崖を降りられたとしても、森で魔獣に捕まって食い散らかされるだけだというのに。まあ、首輪はちゃんと付けているから、逃げたところですぐ連れ戻せる」
「いらなくなったら、こちらで引き受けよう」
「いや、うちの双子が先に予約している。可愛いから、二人でお嫁さんにするんだそうだ。よくわからん」
「えー。では、罠張りを頑張った方が早いか」
「そうだな」
 獲物は自分で捕まえてこそ価値があるのだ。
 さて、今日はどうしてやろうか。それを考えるのが、今一番の楽しみだった。