1-(4)獲物あるいは居候

【——ヨマ】

 呼び出しがあったことを思い出し、ヨマは古馴染みの家に再び足を向けた。誰も連れず、今日は一人だ。
 いつものように、ノックもせず勝手に入る。普段より劇的に片付いているのは一目見てわかったが、大して気にもならず、素通りして地下への階段を降りていく。
 半分ほどまで来たところで、下から大きな声が聞こえてきた。
「だから、ここにいてって! 危険だから。僕が話してくる。とにかく出てこないで」
 ドアを薄く開けてラドトが出てくる。すぐさま閉めて押さえ、ドアの内側に向かって念押しする。
「駄目だからね! 絶対駄目だからね!」
 階段を上ってくる彼と目があった。
「どうした」
「シオが……、いや、なんでもない」
「は?」
「気にしないで。上に行こう」
 あの人間と何かあったのだろう、多分。知ったところでどうということもないので、追求はしないが。
 一階の居間へ。以前は衣類や書物や塵が占拠していたソファは随分すっきりし、座る場所としての本来の役目を取り戻していた。掛けるようすすめられ、ラドトの斜め前に腰を下ろす。こうして改めて見ると白衣も綺麗になっている。何年かぶりに洗濯したようだ。
 客に茶を出すという発想がこの男にはない。さっそく彼は話し出す。
「今回は呼び出してから五日……、言うだけ無駄か」
「わかっているなら言うな。用件は」
「会いたいんだって。シオが、君のとこにいる友達に」
「ほう。二人であちらに帰る計画でも練るつもりなのか」
「帰るつもりはないと思うけど。シオは向こうで家族と上手くいっていなくて、出てこられて清々したと言っていたから」
「ふうん。そういうパターンもあるのか」
 帰りたい、家族が恋しい、と最近までコウはよく泣いていたが。皆が皆故郷に愛着を持っているわけではないらしい。
 ラドトはわずかにこちらへ身を乗り出す。
「で、どうなんだ。会うくらいはいいだろう」
「まあそうだな。うちに来るつもりなら、ついでにうちの下っ端どもの遊び相手くらいは」
「行かないから。前みたいにこっちに連れてきてよ。シオは繊細なんだ。あんな荒くれ者どもには、触られただけできっと死んでしまう」
「死なない程度に加減させるさ。お前だってそれなりに使っているんだろう。だったら多少は平気だ」
「君が言うような意味では使ってないよ。そんなことされたら死ぬって暴れるから。死なれては困るし」
「は? では、何をしているんだ」
「舐めて……体液をもらって、ぐらい? それだけだったら、なんとか大丈夫だって。宿代として我慢できるって」
「信じられん」
 後は突っ込むだけというところまでお膳立てしてやったのに。暗い場所で日がな一日ペンを走らせるばかりの毎日で、不能にでもなったのか?
 多感な少年が物思いに沈むように、ラドトは組み合わせた自分の指の先を見つめる。
「……かわいそうになっちゃってね。一人ぼっちでここに来て、唯一頼れる者から一方的に搾取されるなんて、そんなの」
「なら、初めから罠など張らなければよかっただろう。何を言っている」
「それはごもっともなんだけど」
「獲物に情をかけすぎるな。食べるために狩ったものは食え」
「……そうだよね。うん、そう。わかってはいる」
「まあ、私がとやかく言うべきではないが。お前の獲物をどうしようが、それはお前の自由だ」
 それがどんなに理解しづらいことでも、外野が口出しすべきことではないのは確か。自分に害がないなら放っておけばいいのだ。
 会話に一区切りつけ、気になっていたことを指摘しておく。
「ところで、いいのか?」
 さきほどから物音がしている。台所の方だ。この家にはあと一人しかいないはずだから、そこにいるのは、出てくるなと言いつけられていたはずの人間だろう。
「……よくはないね」
「腹でも空かせているのか」
「いや、違うと思う。ちゃんと食べたから。あれは多分……」
 足音が近づいてくる。居間に現れたシオは、ティーセットをのせたトレイを持っていた。この家を片付けたのも、きっとこの少年。ラドトの薄汚れた白衣を綺麗にしたのも。なにやら面白いことになっている。
「床の相手はしないくせに、妻のような振る舞いをするのだな」
「……」
 シオは鋭くヨマを睨みつけると、何を思ったか、いきなりティーポットを投げつけてくる。だが、生憎ヨマはそれを正面から食らってやるほど愚鈍ではない。仕事柄、この手のことには慣れている。咄嗟に右に飛びすさって回避する。
 ヨマが元いた場所には、ポットから零れた熱々の茶が広がっていた。これを被ったところでダメージらしいダメージも受けないが、相手に害意があったことは明白。
 敵には反撃、という身体に染みついた習慣で、糸を出現させ、魔術の力でもって手も触れず標的の全身を縛り上げたあと、壁へ張りつける。ものの数秒の出来事だ。
 こいつをこうするのは二度目。目的はまったく異なるけれど。
 ラドトは大いに慌てた。
「わあ、ヨマ!」
「どういうつもりだ」
 糸を引くことでぎりぎりと締めて尋問する。
「答えろ」
「そんなことされたら喋れないだろう!」
「そうか」
 ラドトの指摘は尤も。脆弱な人間には強すぎた。上半身だけ少し緩める。
 身動きが取れない状態でもなお、その眼差しは憎しみをたたえ、爛々と光っていた。なかなか見上げた根性だ。
「……航を解放しろ」
「ああ?」
「お前はあそこで、前に僕にした以上のことを当たり前にしているんだろう。どうしてそんなひどい……」
「あれは私の獲物だ。どうしようが私の勝手」
「勝手に何でもやっていいもんか! 航も一人の人間で、痛いし怖いし悲しいし寂しいし腹も立つ。それを全部蔑ろにして踏みつけていいわけない」
「友情とは美しいものだな」
 鼻で笑って、また糸を締め上げる。
「うっ……」
「友のために抗議してここで死ぬか。何の意味もない犬死にだが」
 武装すらしておらず、魔術も使えない、非力な人間を一人殺めるくらい、蚊を殺すより造作もないこと。しかし、案の定、飼い主が止めに入ってきた。
「やめて、ヨマ、お願いだ。僕からよく言って聞かせるから……」
「敵には容赦しない」
「シオは敵じゃない」
「私に危害を加えようとした。私のものを奪おうとした。それが敵でなくて何だ?」
「シオが死ねば、シオの友達は悲しむ」
「知ったことか」
「か細い支えでかろうじて立っている者にとっては、少しの痛みも致命傷になる。まだ彼を失いたくないというのならやめておいた方がいい」
 やはり、厄介なことに、この男はヨマの扱いをよく心得ているのだ。
「……」
 少しの逡巡の末、糸を消す。
 床へ落下したシオの元へ、ラドトは駆け寄っていった。咳き込む彼を抱き起こし、背中をさすってやっている。
「大丈夫? ちゃんと息できる?」
「……馬鹿馬鹿しい」
 労りや慈しみや、そんなものを獲物に向けて何になるというのだ。
 彼らに背を向ける。
「帰る。会いたいだの何だのと言っていた件は却下だ。せいぜい私の機嫌を損ねないよう気をつけることだな」
 ひどく気分が悪い、今日は。