1-(6)理想は理想

【——志尾】

 元の世界に未練なんてないから、こちらに来たこと自体に不満があるわけではない。だが、どうしてこの家だったのかと志尾は思う。
 異世界召喚された先は、ゴミ屋敷一歩手前の家。志尾を呼び出したこの家の家主も、ゴミ屋敷にふさわしい薄汚れた出で立ち。この場所で寝起きするなど、考えただけでも鳥肌が立つレベルのむさ苦しさ。
 家庭に恵まれなかった志尾は、小さい子供の頃から、身の回りのことは大体自分でやってきたので、家事スキルはとても高い。家主の男はこの家の悪環境に慣れきって、改善する必要すら感じていないため、自分で綺麗にするしかない。家中大掃除して、小汚い家主もまるっと洗濯。これで少しは快適になった。
「豪華なお城に召喚されて……、王様からめっちゃ歓迎されて……、可愛いエルフの女の子もいて……、最初からチート能力満載で、バッタバッタ悪をなぎ倒して……、その活躍を見たエルフ女子に惚れられて……、民衆から勇者と讃えられて……」
 そんな異世界ライフがよかったのに。現実は、地味な家事とだらしない男の世話くらいしかやることがない。森には危険な魔獣がいるらしく、一人では外出も儘ならない。つまらない。まったくもってつまらない。
「リセットしたい……。転移前に戻ってやり直したい……」
 エルフの美少女のいる豪華なお城に召喚されるには、どの選択肢を選べばよかったのだろう。
 少しだけでも憧れの異世界感に浸りたくて、居間で一人、家主から借りた魔術書をめくる。当然こちらの文字は読めない。本当に雰囲気を感じているだけだ。
 立てた人差し指を振り、宙に突き出す。
「エクストロサンダー! ……なんてね」
 ライトノベルに出てきた呪文だ。これで正義の雷を悪者に落とせればいいのだが。せっかく異世界に来たのに全くの無力。
「嫌になる、ほんと」
 大きく溜息をつく。
 不貞腐れてテーブルに突っ伏していると、階段をギシギシ上る音が聞こえてくる。台所の方に寄り道してから、居間に顔を出したのは、もちろん家主のラドト。
「ああ、ここにいたの」
 探していたということは用があったのだろうが、志尾は洗濯物を片付け終わったばかりで疲れているのだ。あえて用は聞かず、別のことを尋ねる。
「ねえ、あんたはさ、魔法使えるんだよね?」
「え? まあ、一応」
「エクストロサンダー?」
「なにそれ」
「ちょっとやってみてよ」
「えらく急だね……」
「いいからいいから」
「じゃあ、そうだな」
 彼はテーブルの上に置かれた、志尾のカップに指を向ける。そのまま数秒。
「はい」
「何したの」
「お茶、冷めてるみたいだったから、あったかくした」
「それだけ? そういうんじゃなくて、もっと派手なのないの?」
「派手……」
 再び指を向けると、カップの横に、一輪の満開の薔薇が出現する。テーブルの木の天板から生えている。
 すごくないことはない。だが、これではない。
「派手じゃないじゃん!」
「薔薇だよ?」
「花の種類の問題じゃない! こう、火柱が上がったり、雷が落ちたり」
「家の中でそんなこと出来るわけないだろう……。僕は元々そういうアグレッシブな術は得意じゃないし。そういうのはヨマの方が」
 時々、彼の口から出る名前。聞くだけで耳が腐りそう。
「あいつ嫌い」
「だろうね」
「なんとかして、あの魔王を倒して航を救出したいんだけど……」
 非道な男に囚われてしまった、志尾の数少ない貴重な友人。オタクっぽい趣味の話も馬鹿にせずに聞いてくれる、とってもいいやつだったのに。
 陸上部で、足が速くて、彼女はいなかったけど、そこそこ女の子にも人気があって、それなりに友達もいて、おじいちゃん思いで。志尾とは違って、彼はあちらの世界で楽しく生きていたのだ。
 ラドトは志尾の向かいに座り、ご丁寧に訂正を入れる。
「魔王ねえ。魔族を統括するような王様はいないよ」
「魔王っぽいから魔王でいいの」
「お願いだから、単身であの城に乗り込むなんて危険なことはしないでね。あそこはヨマが集めた戦闘員がいっぱい出入りしてるんだから。気性が荒いのが多いんだよ。しかも皆ボスに心酔してる」
「戦闘員を集めて、勇者の攻撃に備えているの?」
「勇者……が何かよくわからないけど。要人の護衛とか、治安の良くない地域の用心棒とか、争いが起きている街の傭兵とか、そういうのを派遣して商売しているみたいだね」
 戦いのプロの親玉か。志尾の力で敵うはずがないのは、過去二度の経験からよくよく学んだ。しかし、諦めることなどできない。
「……どうやったら助けられる?」
「ヨマを説得するしかない」
「説得しに行ってくる」
「だから、やめなって。それが正しいとか正しくないとかではなく、あくまで一般的に言うならばってことだけど、君の友達の扱いは、決して悪いものじゃないと思う」
「は? 性奴隷状態が?」
「捕まえた人間というのは完全に獲物で……。例えば、村の一人が捕獲に成功したとするだろう。そうしたら、村のお偉いさんから順番に皆で使い回して、壊れたら捨てるか売り払うというのが、割と当たり前なんだ。それに比べれば……」
「当たり前なわけないだろ。ふざけんな。使うとか壊れるとか捨てるとか、そういう言い方がもうないわ。やっぱり勇者が要るな。滅ぼしてやる。クソどもが」
 自分の手で無双できたら、どれほど気持ちがいいことだろう。出てこい、女神。チートスキルを寄越せ。
「ああ、もう、クソ魔族、クソ女神……」
「その急に語調が荒くなるやつ何なの? 僕に凄んだって意味ないよ」
「ストレス発散」
「ひどい」
「ひどいのはどっちだよ。僕だって、どうせなら、汚いおっさんじゃなくて、可愛いエルフ女子に呼び出されたかったよ」
「まだおっさんじゃない……」
「うるさい。そこじゃない」
「ごめんなさい」
「謝ったってどうしようもないことしてんだからな。しっかり肝に銘じて生きろよ」
「はい」
 殊勝な態度に少しだけ気分が良くなる。
 志尾の話に素直に耳を傾けるだけ、ここの家主は他よりマシなのだろう。無理に犯しても来ないし。
 男に突っ込まれるなど死んでも御免だ。フェラはまあ何とか耐えられないでもないが、頼み込まれて二、三回しかさせていない。家事全般をやっているのだから、宿代なんてそれで充分だろう。
 残った生温かい茶を一気に飲み干す。
「で、なんか僕に用事だったの?」
「ああ、うん。晩ご飯の買い出し、どうしようかと思って」
「市場に行かなきゃ。もう食材がない」
 人間と魔族では食べ物が違う。ラドトに人間用の食事に関する知識はないので、自分で材料を見極めて調達し、自分で料理しなければ、ご飯にはありつけない。
 森の外の街に、人間と魔族がどちらも訪れる市場があって、食材はいつもそこで買っている。街まで距離はあるが、彼は家畜用に改良された、馬のような見た目の魔獣を飼っているので、それに乗っていけば、わりかしすぐに着く。
 まずは腹拵え。それから考えよう。この世界での生き方について。そして、友を救い出す方法について。