(小ネタ5)バレンタインデーの思い出

【時期→かえでシロップ本編(3)と(4)の間】

 イベント事でいちいち浮かれる馬鹿は嫌いだ。子供ならわかるが、いい年をした大人が何をやっているんだと毎年思う。クリスマスしかりハロウィンしかりバレンタインデーしかり。世の中馬鹿ばっかりだ。
 昨日はバレンタインデーだったが、思い返してみれば、楓の二十年ちょっとの人生で、バレンタインデーには良い思い出が全くない。特に中学時代が一番ひどかった。
 中学生ぐらいまでは、まだ身体がしっかりする前だったので、ほっそりと小さく、さらに「その辺のアイドルよりもよっぽどアイドルらしい」と言われる美少女顔だった。そのため、アルファだけでなく他の男子生徒にも言い寄られて迷惑していた。彼らはバレンタインデーが近づいてくると勝手にそわそわし始め、チョコレートが欲しいと直接楓にねだってくる者さえいた。彼らの中に女子から人気のある男子がいたせいで、楓は女の子たちから煙たがられ、学校でチョコレートがもらえた経験はない。くれるのは毎年決まって母と姉だけだった。
 中学三年生の時、あまりにチョコレート要求が激しいクラスメートのアルファ男子に対し、「デカい板チョコくれてやる!」と叫んでカレーの固形ルーを投げつけた結果、ルーが壁にへばりついてなかなか落ちず、一日中教室にカレーの臭いを充満させた、という事件もあった。その後母親代理の姉が学校に呼び出され、担任から説教を食らった。元はと言えば相手がしつこかったのが原因なのに、散々だった。
 当時の諸々の思い出を引きずり、楓はいまだにバレンタインデーに恨みのような感情を抱いている。
 今は「本命」とやらを贈る先ももらう当てもあるが、楓は「俺はこの馬鹿げた風潮には絶対乗せられない」と宣言し、去年も今年も贈らなかった。亨の方も要求してこなかったし、くれもしなかった。それでいい。バレンタインデーなんて無い方が平和だ。
 大学はこの時期春休み期間中なので、大学生になってからはバレンタインデーだからといってしつこい男に絡まれることもなくなり、今年も無事何事もなく終わった、はずだった。——しかし、どうやらまだ完全に過ぎ去ったわけではないらしい。
 この日はアルバイトが早く終わる日だったので、楓は亨宅で掃除をしていた。明日明後日の土日にだらだらするため、今のうちに出来ることは終わらせておくのだ。
 全部屋掃除機をかけて回る。亨の作業部屋に取りかかったとき、机にうっかり掃除機をぶつけてしまった。上に置いてあった社名入りの白い紙袋が倒れ、床に大小の箱が十個ほど落ちる。誓ってわざとではない。
「うわあ」
 壊れ物だったらどうしよう、と慌てて拾おうとして、はたと手を止めた。落ちた箱はどれも美しくラッピングされていて、楓でも知っているくらい有名な高級チョコレートメーカーやデパートの包装紙が混じっていた。
 昨日はバレンタインデーだった。きっとそのプレゼントだろう。見かけが豪華だから、多分全部高い。一粒何百円もするものかもしれない。大袋の一口チョコレートだって充分美味しいのに、一粒にそんなに出すなんてどんな上流階級だ、とテレビのバレンタイン特集を見たときに亨と話したのを思い出した。
 机の上の紙袋の中には、まだ箱が残っているようだ。上流階級のチョコレートがこんなに。会社の同僚からだろうか。社内『アルファだけど普通』ランキング一位というくらいだから安心していたが、やはりアルファブランドはすごいらしい。気づかなかっただけで、去年ももらっていたのか? 楓なんて、身内以外からだとアルバイト先の社長夫人からしかもらったことがないのに。ひどい性別格差だ。
「モテ男だけが楽しい不公平で理不尽なリア充イベントを一人で満喫してるなんて……」
 どうりで楓から欲しがらないわけだ。他でこんなにもらえるのだから。釈然としない。全くもって気に入らない。どうせ断り切れずに全部もらったのだろう。そんなことをしたら後々自分の首を絞めるだけなのに。
 ホワイトデーのお返しはどうするつもりなのか。たしか、強欲な女たちが決めた三倍返しという恐ろしいルールがあるのでは? 亨がどこぞの女のことを考えながら物を選んでいるところを想像するだけでも腹が立つ。
 高級そうなものばかりだから、きっと義理ではないだろう。義理も含まれるかもしれないが、そうでないものもあるはずだ。これは亨へのラブレターであると同時に楓宛の果たし状でもあるわけだ。全部湯煎で溶かして一緒くたにし、チョコレートケーキでも作ってやろうか。ホットケーキミックスがあれば簡単にできる。上流階級チョコレートを百円の板チョコレベルの扱いにしてやる。
 しかし、すんでの所で思いとどまって、元の紙袋に戻す。あまりに子供っぽい焼きもちで恥ずかしくなったから。
 
 
 とりあえず、亨の前ではいつも通りに振る舞おうと決めた。下手に突っかかっていくと、焼きもちをからかわれかねない。
 いつも通りにして、彼から話してくれるのを待つ。昨日彼は帰りが遅かったので、きっと話す時間が無かっただけだ。あんな量、一人で食べきれるわけはないのだから、一緒に食べようとか何とか言ってくるはず。そのとき昨日あったことを説明してくれるだろう。去年は付き合い始めて日が浅かったから言えなかったのかもしれないけれど、今は隠したりしないと思う。彼の話を聞いてから、断らずにチョコレートを受け取ったことに対して少しだけ文句を言って、それで終わりにする。決めた。
 今日は仕事帰りの亨と合流して、外で夕飯を食べることになっていたので、約束の時間に間に合うように家を出る。
 電車で主要駅まで出て、駅構内の、大きなモニターのある本屋の前で待つ。待ち合わせの定番スポットであるため、大分混雑している。会社帰りのサラリーマン、制服姿の学生、職業自由人というような若者、それらに混じって観光客風の外国人、色々いる。
 待っている間、邪魔にならないよう端に寄って、スマホで周辺飲食店のクーポンを検索する。ページ読み込みの間にふと顔を上げると、女の子の二人連れと目が合った。見られていたらしい。
 年の頃は楓と似たようなもので、メイクも服装も派手だ。世間的にはどちらも可愛い方だろう、好みではないが。試しに笑って手を振ってみると、二人ともぱっと嬉しそうな顔になる。ほら、楓だってもてるのだ。性別さえばれなければ。
 彼女たちは顔を見合わせ、何やら話し始める。「声かけてみる? どうする?」なんて相談しているに違いない。二人が近寄って来ようとするのがわかったので、背を向けて電話に出る振りをした。
「さすが躱し方が上手い」
 声のした方を向くと、亨がいた。
「おう、早かったな」
「五分だけじゃん」
 真横に立たれると、疲れているな、と直感的にわかった。いつからだろう、疲れているとか体調が悪いとか機嫌が悪いとか、大して観察しなくても察することが出来るようになったのは。不思議な特殊能力が身についた気分だ。
 亨はちらりと楓の背後に目をやる。
「ところで、さっきあそこのお嬢さんたちに手を振ってなかった? 知り合い?」
「違うよ。気のせいだろ」
「そうかなあ」
「晩飯何にする? 焼肉でいい? クーポン見つけたんだ」
「いいよ。腹減ってるからがっつり食べたい」
「あの、お兄さんたち」
 さきほどの派手な女子二人連れだった。よそ行きらしい笑顔を全開にしている。
「ちょっとお話聞こえちゃって。もしよかったら、私たちも晩ご飯ご一緒していいですか? ちょうど二対二ですし」
 こんな風に誘ってくるなんて、よっぽど自分に自信があるのだろう。うらやましいくらいだ。だが、お生憎様。
 亨の腕を取る。
「悪いけど、これからデートだから。ごめんね」
 腕を引っ張って歩き出す。本屋の前の、地下に続く長いエスカレーターに乗ってから振り返ると、彼女たちは呆然としてこちらを見ていた。
 エスカレーターを降りたところで手を放す。
「めずらしいね。楓がそういうことするの」
「あれが一番手っ取り早かった。俺はちゃんと断れる」
 明らかに義理ではなさそうなチョコレートをたくさんもらってきたお前と違って、と言ってやりたい。
 以前にも何度か行ったことのある焼肉チェーン店へと歩く。左側から亨の視線を感じた。
「なあ、なんか嫌なことでもあった?」
「なんで?」
「苛々してるだろ」
「してねえよ」
「してるはず。さっきから機嫌が悪いときの匂いがする」
 彼は背をかがめ、楓の襟足辺りを嗅ぐ。身体を引いてそれをよける。
「やめろ」
「最近わかってきたんだよね。不機嫌だったり調子悪かったりするときは、甘いだけじゃなくて苦味があるような匂いがする」
「……ああ、そうか。匂いか」
 体調や機嫌が直感的にわかる、というのは、無意識のうちにそのときどきの匂いを覚えて判断していたということか。確かに匂いは日によっても時間によっても微妙に変化する。
「やだな。バレバレじゃん。プライバシーどこ?」
「お互い様だろ。不調な時を察して助け合えよっていうことなんじゃないの。で、どうした?」
「言いたくない」
「なんで?」
「お前が言ってから言う予定だから」
「何をだよ」
「昨日のことを正直に話したら、俺も言う」
「昨日? 昨日ってだけじゃ……、ああ、バレンタインか」
「そうだよ。それしかないだろ」
「お前、馬鹿げた風潮には乗せられない、とか何とか言ってたからさ。チョコ欲しかったなら言えばよかったのに。今から買いに行く?」
「はあ? そうじゃねえよ! チョコなんていらない。わかるだろうが。何かあったろ、俺の気にしそうなこと」
「うーん……」
 本命チョコを断り切れずに受け取ってしまいました、とそれだけでいいのに、亨は考える素振りを見せる。隠そうというのか。何かやましいことでもあるのか? それとも、くれるものは、とりあえず受け取っておくのがこいつの常識なのか。常識だから、わざわざ言うことでもないと思うのか。それは危険だ。
「義理は仕方ない。断ると角が立つだろうから。でも、本命チョコはほいほい受け取んな。期待させたらどうすんだ」
「誰の話?」
「お前以外誰がいるんだよ!」
「受け取ってないけど……」
「この期に及んでしらばっくれるつもりか。見たんだからな。今日掃除してるときに、お前の部屋で。あんな高そうなのいっぱい……」
「え? ああ、あれ、俺宛じゃない。真宮さん宛」
「……なんで慶人のをお前が持ってんだよ」
「預かった、というか押しつけられたんだよ。真宮さん、四日ぐらい前からインフルエンザで休んでて」
「ああ、そういえばミコちゃんが言ってたな。アルファもインフルエンザになるんだってびっくりした」
「なるに決まってんだろ。同じ人間だぞ。で、昨日、俺が真宮さんと同じマンションに住んでるって知ってる子たちが、渡しといてくれって持ってきたんだ。真宮さんは番がいるから受け取らないんじゃないかなって言ったんだけど、しつこくてさ。もう熱は下がったって聞いてたから、その場で真宮さんに電話したら泉田が出て、とりあえず受け取っといてくれたら何とかするって言うから」
「ミコちゃんすげえな、慣れてるんだな」
「みたいだな。直接部屋に届けるって言ったんだけど、万が一うつすといけないからって、明日泉田がうちまで取りに来ることになってる」
「大変だなあ、ミコちゃん。番がいるってわかっててチョコ持ってくるやつ、どういうつもりなんだろ。無駄だってわかんないのか?」
「ベータの子の中には、番がどんなものか、いまいちよくわかってない子もいるんだよ。番はいても結婚してないんだから、自分にもチャンスあると思ってる」
「ははは。振られろ。馬鹿なイベントで浮かれてるからだ」
「嬉しそうだな。そうか。そんなことで拗ねてたのか。そうか」
「ニタニタしてんじゃねえよ。ホワイトデーに三倍返しって話があるから、金かかるなって心配してやってただけだぞ」
「大丈夫。うちの部では何年か前から、社内で個人的にもらっても全員で分けて食べるって決まりになったんだよ。お返しは男全員で割り勘」
「結局もらったのか?」
「皆で食べてって何人か持ってきたよ。うちのシステムは社内に知れ渡ってるから、個人宛に気合いが入ったの持ってくる人あんまりいない。結局皆で寄ってたかって食べられて無駄になるから」
「それならまあ、うん……」
「納得した?」
「うん。……て、いや、別にどっちだっていいんだけどさ」
「素直じゃないなあ」
「ニタニタやめろっつってんだろ」
「やっぱり買いに行こっか。チョコレート。それで交換しよう」
「やだよ。なんでだよ」
「たまにはいいじゃん。『浮かれる馬鹿』とやらに混じったって。俺だって好きな子のチョコが欲しい」
「欲しかったのか」
「うん。でも、無理強いするのも違うだろ。他の子にチョコもらったって言って怒るくらいなら、お前がくれたっていいじゃんか」
「怒ってない。俺はお返しの心配を……」
「本命チョコをほいほい受け取ったら期待させるから駄目なんだっけ?」
「それは相手の子の心配! やっぱバレンタインって面倒臭いから嫌い」
「いい思い出ができれば好きになるよ。焼肉は後にして、今からデパ地下行こ」
「一緒に買いに行くのか? 恥ずかしすぎるだろ」
「バレンタインデー前ならともかく、過ぎたから平気。それに、女の子に『これからデート』って言えたぐらいだから大丈夫」
「あれは、本命チョコをいっぱい受け取ってきたのにむかついてて、俺なら断れるっていうのを見せつけたくて。いやいやいや、むかついてたっていうか、そんな焼きもちみたいなことじゃなくて、俺だってもてるし、別に」
「わかったわかった。今さらそんな取り繕うようなこと言わなくていいじゃん」
「プライドの問題なんだよ! 悪のバレンタインデーのせいでどれだけ俺のプライドがズタボロになってきたか知ってんのか」
「はいはい、さっさと行くよ」
「行かない!」
「でも、本気で嫌がってないよな。もう苦い匂いしないから」
 また首筋に顔を寄せてくる亨からだって、チョコレートよりよっぽど甘い匂いがしていた。甘さの種類は違うが、まさに「甘ったるい」という言葉がぴったり。楓からもこんな匂いがしているのか。本当、プライバシーはどこに行った。
「一口チョコなら買ってやってもいい。結局あれが一番美味い」
「デパ地下には売ってるかな。まあ何でもいいよ、もらえたら」
 恥ずかしさより、『好きな子のチョコがほしい』と言うのを可愛らしく思う気持ちが勝ち、結局買いに行くことにした。