(小ネタ6)卒業式のその後で

【時期→かえでシロップ本編(4)より後】

 四年間通った大学の卒業式が終わった。その後は卒業パーティーだの打ち上げだのに流れるのが普通だろうが、悲しいかな、楓にそんな予定はないので、早々と帰宅してきた。
 もともと卒業式に行くつもりなど無かったのだが、ぎりぎりになって出席しておこうと思い直した。「最後なんだから出ておいたら」と母に言われたからだ。直前になって決めたため、当日母や姉は仕事だ。「今からじゃ休めないじゃない!」と桜からさんざっぱら文句を言われた。
 講堂には保護者まで入りきらない。来たとしても別室で中継を見守るだけになる。わざわざ現地まで来なくても、動画配信サイトでライブ配信されるらしいから、それを見ればいい。どうせ同じことだ。桜にしてみれば「そういうことじゃない!」らしいが、出席する事に決めた姿勢は評価してくれてもいいだろうと思う。
 一人で式に出て、いったん亨宅(住所変更をするにはしたので我が家ということになるか)に帰ってくる。家の用事を一通り済ませ、それからまた外出だ。何のことはない、夕飯を作るのが面倒なので、外で食べるというだけだ。店は楓が適当に予約してある。
 亨と駅で待ち合わせしてから、会社帰りのサラリーマンで混み合う居酒屋へ入った。ビールと食べたいものを適当に何品かを注文する。
 卒業おめでとうとお疲れ様の乾杯をして、ビールを喉に流し込む。亨は空いた楓のグラスに二杯目を注いでくれた。
「こんなとこでよかったの? もっとちゃんとしたとこで卒業祝いした方がいいんじゃない?」
「それはまた今度。お上品ではないけど、ここ旨いだろ」
「まあなあ、旨いのは旨いな」
 以前二人で利用したことがあり、味がわかっていたので、予約するときに候補として浮かんだのだった。外食しようと決めたのが今朝で、急だったのもあり、不味くなくて駅近ならどこでもよかった。
 楓が焼き鳥の串を取った後、亨も同じ皿に手を伸ばす。先ほどから食べる順番を真似されているような気がする。無意識だろうが。
「卒業式どうだった?」
「眠かった」
「じゃなくて、アルファ男に絡まれるかもって心配してたじゃん」
 最後の日だから、もうセクハラ通報されることはないだろう、と気を大きくしたアルファ男が、また誘いをかけてくるかもしれない。そう楓が警戒していたことを心配してくれていたのだろう。
「ああ、大丈夫だった。何か言われても、一言、楓ちゃんバイバイっていうくらい。拍子抜けだったわ」
「よかったな。平和だったんだな」
「これって番になった効果が出てるのかな。フェロモンが変質して他のアルファを寄せ付けませんってやつ」
「あれは発情期の話なんじゃないか? 普段は、無差別でアルファホイホイするフェロモンなんてだだ漏れてないだろ。これまでそいつらが寄ってきてたのは、可愛いオメガの子と付き合いたかっただけでさ。なら今回は関係なくないか」
「今日絡んでこなかったのは、写真撮ったり、パーティー的な集まりの相談で忙しかっただけか」
「たぶん」
「なんだかなあ。番になったら、もうちょっと何かしら変化があると思ってたんだけどな。まるっきり変わらないな」
「月一の注射は無くなっただろ」
「それくらいじゃね? 匂いも変わったりするのかなって思ってたけど、同じだし。実感薄いんだよなあ」
「家でお前の首元見るたびに、そういえばそうだったなって思うけどな」
「俺は鏡見ないとわかんないから。朝寝ぼけてるときに見ると、ビビるときあるわ」
「綺麗な肌に傷が残っちゃうな」
「何を今更。わかってたことだろ」
「まあ」
「こういうの、結構燃えるんじゃない?」
「ばれてたか」
「バレバレ」
 自分のものだと目立つ位置に名前を書くようなものだから、それができるアルファは羨ましい。できることなら楓だってやりたい。この間、勢いでガブリと噛みついてやったのだが、血が出ることもなく、歯形だって数日も残らず消えてしまった。思い切りやったつもりだったのに。
 もう一度試してみてもいいだろうか。甘噛みでも毎日繰り返せば跡が付くだろうか。ぼんやり亨の首筋を見つめていると、集団の大きな笑い声に意識を逸らされた。酔っ払いは声のボリューム調節ができなくなる。ここは居酒屋なのでがやがやしているのは当然だが、それでも限度はあるだろう。
「さっきからうるせえなあ。どこだ?」
「あっち。サラリーマンじゃないね。大学生っぽいよ」
 後ろを振り返って確認する。楓たちは奥まった隅の席にいたのだが、中央あたりで二つのテーブルをくっつけた、十人程度のグループがいる。男はほぼ全員リクルートスーツのような出で立ちで、女は結婚式帰りのようなドレス姿が多い。
 椅子の背にさっと隠れる。
「……うわあ」
「知り合い?」
「全員そうかはわかんないけど、同じ卒業式に出てた奴らだ。ナンパしてきたことある奴も何人かいる」
「卒業パーティーの二次会とか三次会かな。気になるなら、店変える?」
「バレないように出られるかな」
「俺を盾にして隠れながら出れば? どうせ自分たちの話に夢中になってて、周りなんか見てないだろ」
「そうだよな」
 そそくさと帰り支度を始める。卒業式は大して絡まれずにすんだが、今見つかれば逃げるのに苦労しそうだ。何しろ酒が入っている。しかもこちらは彼氏同伴。すんなり通してもらえるはずはない。下世話な好奇心の餌食になるに決まっている。
 だが、計画はあっさり失敗に終わった。
「あ、楓ちゃんだー」
 実に嫌な呼び名。顔を上げると、特にしつこかったアルファ男がいた。にやけ面がこちらを見下ろしている。空き教室でレイプ未遂まで起こした奴だ。まだ付き合う前のデート中に、亨とも顔を合わせたことがある。
 二人組で行動しているのしか見たことがないが、相方はいないらしい。先ほどの席にもいなかったよう思う。
「なんかさあ、楓ちゃんの声がするなーって思って探してたんだよね。そっちも卒業パーティーの二次会? ……なわけないか」
 男は亨の方に目をやる。絡みに行くかと思ったが、ちらっと見ただけで、すぐに視線を楓に戻す。
「それでさあ」
「お前、よく平気で声かけて来られるな」
「なんで? 駄目?」
「迷惑だって、俺は何度も何度も何度も言ってる。俺たち、もう帰るから」
「そんなこと言わずに、あっち行って皆で飲もうよ。卒業生同士でさあ。楽しいよ」
 男の手がぬっと伸びてくる。二年前といえど、あの空き教室での記憶は未だ鮮明で、反射的にびくっとしてしまう。だが、幸い今日の楓は一人ではなかった。亨が立ち上がって男の腕を掴む。
「やめろ。嫌がってる」
「保護者の方ですか? 別に嫌がってないよね? 同じ卒業生同士仲良く飲もうって言ってるだけじゃん」
「はっきり迷惑だって言われてるだろうが。デートの邪魔するなんて無粋なことはやめて、お仲間のところで楽しくやれば」
 亨の声はいつも通り柔らかかったが、喋り方が平坦で、顔が笑っていない。自分を無視して恋人を連れ出そうとする非常識な男に、苛立っているのは明らかだった。
 不躾な男は値踏みするように亨を見つめる。
「……お前、どっかで見たことある……。あ、あれだ、二年のとき、冬! あの時も邪魔してきた奴!」
「ああ、あの時の。お前よく覚えてんな、そんなこと」
「あれから二年以上だぞ。まだ付き合ってんの?」
「ああ」
「あっちこっちで浮気されてんのも知らないで、おめでたい奴」
「憶測で物を言うな。お前が何を知ってるんだよ。ただの一度も食事すらしてもらったこともないくせに」
「何だと! からかってただけだろ。こんなビッチなんか本気で」
「負け惜しみかよ。二年経っても執着するほど欲しいなら、真正面から口説けばよかったんだ。それをする度胸もないくせに、今更嫉妬か、見苦しい」
「ああ!?」
 短気を起こした馬鹿が亨の胸ぐらに掴みかかる。咄嗟に間に入ろうとするも、亨に目で止められた。
「殴りたいなら殴れよ。今度こそ警察に突き出してやる」
 めずらしいこともあるものだ。いつもは「まあまあ」と喧嘩の仲裁に入る立場の亨が、相手の怒りを煽るような言動を取るとは。男も女も取っ替え引っ替えだとかビッチだとか、言われすぎて麻痺しているが、確かに自分の恋人がそんな風に言われたら腹が立つのも当然かもしれない。
 やっと事態に気づいたのか、卒業パーティーの二次会テーブルもざわざわし始める。
「松川と楓ちゃんの彼氏が喧嘩だって」
「え、楓ちゃんも来てるの?」
「いいぞ、やれやれー」
「止めなきゃ駄目なんじゃないの? 行ってきてよ」
「えー、無理。やったことないんだけど」
 あいつらは役に立たないようなので、楓が何とかしないといけないようだ。とはいえ、「まあまあ」と割って入るのなんて性に合わない。亨への被害を食い止めて、なおかつこの馬鹿には少しでも痛い目を見せてやりたい。使えそうなものはないかとテーブルの上を見渡し、いい案が浮かんだ。
 楓そっちのけでまだ睨み合いは続いている。
「殴んねえのかよ、根性無し。なら放してくれる? シャツが皺になりそう」
「嫌だね。そんなに殴られたいなら——」
 どうやら亨はわざと殴られに行っているような節があるが、黙って見守ってなどやるものか。楓は中身が半分以上残ったビール瓶を取って、音を立てないよう細心の注意を払いながら椅子に上る。二次会連中と目が合ったので、唇の前で人差し指を立てて「黙ってろ」と合図した。
 男の頭上でそっとビール瓶を傾ける。亨にも掛かるかもしれないので、初めはちょろちょろとこぼす程度だ。本人が異変に気づいたのは三秒後。手の力が緩んだ隙に、亨はさっと離れる。意外と俊敏な身のこなしをするものだ。充分距離を取ったのを確認して、一気に全部ぶちまける。
 濡れ鼠が叫ぶ。
「うっわ! お前、何やってんだ! びしょびしょじゃねえか」
「ビールかけ。どうだ。俺の酒は旨かろう」
 勝利の宣言のように瓶を掲げる。向こうのテーブルからどっと笑いが起こった。
「松川、だっせ!」
「お前らうるせー!」
 この怒り様、実に気分がいい。こういう俺様一番のナルシストは、人前で恥をかかされるのが一番のダメージになるのだ。一人悦に入っていたが、ここは自分や友達の家でもなければ、小学校の教室でもなかった。
「どうされたんですか、お客様!」
 他の客に呼ばれたのか、中年の店員が走ってくる。ビールを避けるよりも素早く、亨が飛んでいく。
「ああ、すみません。酔っ払いの喧嘩で……」
 腰を低くして、事情を説明してくれていた。切り替えが早い。こういうところは年の功、というか性格か?
 その様子を、まだ睨んでいる男が一人。別の店員の持ってきたタオルを頭に乗せている。
 楓は椅子の上にしゃがんでから座り、靴を履き直す。腹いせのついでにからかっておくことにした。
「いいザマだなあ。撮っていい?」
「いいわけないだろ。やめろ」
「そうする。スマホにお前の写真残すの嫌だし」
「時計も濡れたぞ。高いんだからな、これ」
「人の男に手を上げようとするからだ、バーカ」
「向こうが煽ってきたんだ」
「原因はお前だろ」
 二次会テーブルのお仲間は、ほとんどがこちらを見ていて、何人かは亨の方を観察していたが、不思議と一人もこちらに来ようとしない。床がビール浸しになっていて来づらいのだろう。その方がいい。皆が踏むと汚れが広がる。
 ビール浸しの惨状について、実行した楓も謝っておいた方がいいだろう。店員と亨の話が終わりそうな雰囲気なので、早く加わりに行こうと席を立つ。だが、引き留められる。
「待って」
「あ?」
「なあ、結婚すんの?」
「は?」
「楓ちゃんが卒業式で指輪してたって噂になってる。あいつもしてた。それ、もらったの? 最近?」
「そうだよ。いいだろ」
「よくねえよ。全然よくない」
「ふうん」
 この男の賛同を得られようが得られまいが大したことではない。亨と店員がペコペコと頭を下げあっているところからして、話はもう終わりの終わりらしい。急がねば。
「じゃあな。もう街中で見かけても声かけてくんなよ。ストーカー認定するからな」
 まだ何か言いたそうにしていたが、聞いてやる義理はないので、さっさと謝罪現場に向かった。
 
 
 会計後、店を出る。店長だという男に、何とか滑り込みで謝ることは出来た。居酒屋なので、酔っぱらい同士のトラブルはよくあることらしい。掃除はこちらでやっておきますと言い、すんなり帰してくれた。
 とりあえず駅まで歩くことにする。
「ビールかけ、やり過ぎだったかな」
「反省してるのか?」
「店には悪いと思うけど、掛けたこと自体は全く」
「だよなあ。なんかすっきりしたわ。殴られたら殴り返す理由が出来るから、最初の一発はいかせようとしたんだけど、やっぱ痛いのは嫌だし」
「お前にしてはアグレッシブな発言だな」
「二年前にあいつが楓にしたことを考えたらね。一回締めとかないとって思うよね。しかも全然反省してない様子だし。あーあ、やっぱ殴っときゃよかったかなあ。あんなのでも殴ったら犯罪になるから、目撃者がいなけりゃな」
「また物騒な……。ああ、そうか。お前、元ヤンだったんだもんな」
「元ヤンって。そこまで古くないよ、俺」
「じゃあ、不良? 高校の時荒れてたんだろ。こう、喧嘩上等な感じだったのか」
「そんなんじゃねえよ。周りにやんちゃな奴が多かっただけで。俺自身は殴り合いの喧嘩とかしたことない」
「何にしろ、ビールかけは正解だったんだよ。あいつがあのままお前のこと殴ってたら、お前もあいつを殴って、きっと今頃大喧嘩だぞ。店の中無茶苦茶になったら、店長が可哀想じゃん。いい人なのに。それよりビールかけのほうが被害は少ないはず」
「なるほど。俺も店長も楓に救われたわけか。ありがとう」
「礼を言われるのもおかしい気がする。ノリノリでやった悪ふざけなんだから。まあ、あれだ。殴る殴られるは駄目だけど、言うことをびしっと言ってやったのは、かっこよかったと思うぞ」
 彼の方は見ないまま、ぎゅっと彼の指を握り、すぐに放す。ありがとうのかわりだ。
「うん、そういう、ちゃんと誉めようとしてくれるとこ好き」
「外でそういうこと言うな」
「言うことはちゃんと言っとかないとね」
「今はいい」
「めちゃくちゃ好きって言いたいこの気持ちはどうすれば」
「うるさい、酔っぱらい。置き去りにするぞ」
「えー」
 大股の早足で距離を取ろうと歩いていると、すぐに駅まで到着する。もうこのまま帰る流れだと思っていたが、亨にその気は無いらしい。
「二軒目どうする?」
「行くのか?」
「ラーメン食べたくない?」
「別にいいけど」
「じゃあ行こう。おすすめされて、行ってみたかったとこあるんだ。この近く」
「ああ、うん」
 方向転換して別の通りに入る。
 おすすめされたというラーメン屋は、安い割に美味しくて、行きつけ候補が増えることになった。熱々をすすりながら明日の話をするうち、あの不愉快な男のことなど忘れていた。