(小ネタ8)年末大捜査

【時期→かえでシロップ本編(4)より後】

 十二月下旬、仕事納めが近づいてきた時期。
 仕事帰りの楓は、ソラタリ本社ビル——亨の職場の前にいた。デートの予定があって迎えに来た、わけではない。約束はしておらず、亨がビルから出てきたところを不意打ちで突撃するつもりだ。
 いつもの彼の帰宅時間から、乗る電車の時刻はだいたいわかる。そこから逆算して会社を出る時間を予測した。念の為、少し早く来て、ここでもう三十分以上張っている。
 自分の勤め先の建物とはあまりに違う、自らの繁栄を誇示するかのような高層ビルに気後れしそうになるが、怯んではならない。確認すべきことを確認して、真実を明らかにしなければ。
 気分は、最近はまっている刑事ドラマの敏腕刑事だ。容疑者を待ち構え、証拠を押さえ次第逮捕する。容疑者とは誰のことかと言えば、他ならぬ亨のこと。これは決してドッキリなどではなく、楓は真剣だ。
 事の発端は、昨日の日曜日、桜と交わした会話だった。
 「蜜柑を箱でもらったから、お裾分けしてあげる」と桜がメールを寄越してきたので、昨日実家に行ってきた。大晦日から正月にかけて、母と姉で温泉旅行に行くらしい。来年正月には会わないため、年末に母に顔を見せておくという目的もある。
 母が台所に立っている間、桜と二人で喋っていて、そのときこんな話をした。
「あんた、ちっちゃいころ、よく物を無くしてたわよね。ランドセルにつけてたキーホルダーとか消しゴムとか鉛筆とか」
「あれ、無くしたっていうか、盗まれてたんだよ。上履きを片方盗られたこともあったし、リコーダーや体操服を持ってかれたこともあったな」
「そうだったそうだった。なぜかあんたには熱狂的なファンが多かったからねえ」
「同じ学校の奴だけじゃなくて、よその学校の奴が侵入して盗もうとしてたこともあったぞ。ほんとにただただ気持ち悪かったわ。なんで突然こんな古い話……」
 こんな嫌な思い出、できれば忘れていたかった。
 桜はマグカップを握る楓の手を指す。
「指輪」
「これ?」
「そんな小さい物、あんたならすぐに無くしそうなのに、まだちゃんと付けてるんだなって思ってね。そこから、無くし物の多かった子供の頃のことを思い出したの」
「今は盗む奴なんかいないから、そんなしょっちゅう無くし物なんてしないぞ。それに、これは基本的に外さないから紛失しようがないだろ」
「私、元カレにもらった指輪、外行くときだけ付けて、家では外すっていうのを繰り返してたら、どこに置いたのかわかんなくなってたことあるわ」
「ひどいな、それ。元カレかわいそう」
「怒ってたなあ。結局許してくれたけど。その点、伊崎くんはマメよね。毎日付けたり外したりしてても無くさないんだから」
「あいつも付けっぱなしだぞ」
「家ではでしょ。職場ではいつも付けてないじゃない」
「……そうなの?」
 初耳だった。朝、家を出るときには付けていて、帰ってくるときにも付けているから、その間ずっと付けっぱなしなのだと思い込んでいた。
「あら、私、余計なこと言っちゃったかしら」
「なんで?」
「知らないわよ。本人に聞けば?」
「……」
 この指輪はこれから二人で生きていくという誓いのようなものだと思っていたのに、楓のいないところでは外していたなんて。いったいどういうことだ。
 これはシンプルなデザインだし、人前で付けていて恥ずかしいものではないだろう。職場で外す理由は何だ。お揃いの指輪を付ける相手がいることを隠したいから?
 ドロドロ不倫ドラマで見たシーンが頭をよぎる。独り身を装って指輪を外し、浮気相手に会いに行く、不倫夫の手口。亨に限ってそんなことは絶対ない。ないとは思う。
 しかし、浮気まではいかないとしても、いつも身に付けているべき指輪をわざわざ外すなど、何かやましいことをしているか、これからしようとしているということではないのか?
 ——やましいことって何だ……?
 いったん考え出すと不安は消えず、こうして実際に確認しに来たわけである。寒い中、長時間の張り込みを覚悟し、背中にカイロを貼ってきた。
 具体的な「やましいこと」の内容を突き止めるのは難しいかもしれないが、職場で指輪を付けているのかいないのか、それを確かめるのは簡単だ。ここから出てきた直後に捕まえて、手を見ればいい。
 もしかしたら、指輪が傷つきそうな作業をする前に一時的に外していて、それを桜が偶然目撃しただけかもしれない。そんな希望も持っている。
 どうか付けていてほしい。それならもう「やましいこと」を疑わなくてすむ。
 ビルから出てくる人を、一人一人注意深く見ていたので、亨を見逃すことはなかった。連れはいない。すぐさまつかつかと歩み寄り、無言で左手首を掴んだ。
「え、楓……?」
 驚く彼とは目を合わせず、その左手を凝視する。——指輪なし。
「現行犯逮捕」
「は?」
「言い訳は署に戻ってから聞いてやる」
「署って何……」
「こっちには証人だっているんだよ! 裁判したら有罪確定だからな」
「何の話?」
 こっちは疑いたくなんてないのに、なぜこんな「どうぞ疑ってください」と言わんばかりのことをするのだ。怒りが沸々とわき上がってくる。
 尋問するため、さっさと連行しようとするのを、明るい声に遮られる。
「あ、伊崎さーん! 一緒に行きましょー」
「三木ちゃん」
 エントランスを出てきたのは、楓と変わらないぐらいの年の女だ。すらりと背の高いショートカットの美人で、さすが化粧品メーカー勤務、なかなかレベルが高い。
 ——もしやこの女が……?
 内心の動揺を隠しきれない楓のことは気に留めず、三木というらしい女は、亨に向かって話を続ける。
「他の人は先に出たみたいですよ。急ぎましょう」
「いや、今日のは二十代若手の集まりだろ。俺は今年から駄目だから」
「えー、でも、磯川さんは来るって言ってましたよ。あの人、伊崎さんより上でしょ?」
「上も上、五年ぐらい先輩だったと思うけど……」
「じゃあ、いいじゃないですか。伊崎さんも」
 妙に馴れ馴れしい。実に不愉快だ。
 掴んだままだった亨の手を引くと、どうしたのかと目で問うてくる。
 三木の視線も楓に移った。
「そちらはどこの部署の方?」
「ああ、こいつは違って」
「すごくかっこよくないですか? もしかして、うちでお願いしてるモデルさん?」
「違う違う。会社とは関係ないよ。こいつは個人的に俺に用があるだけ」
「んー、でもどっかで見たことある……」
 そんなの気のせいだ。こんな女のこと、楓は知らない。
 不躾にこちらを見つめてくる女、その肩を、外へ出てきた新たな男が叩く。
「おう、お前ら、どうした。行かないのか?」
 おそらく三十代であろう眼鏡の男。そう男前ではないが、洗練された雰囲気は持っている。
 三木はこの男を振り返って言う。
「磯川さん! まだ残ってたんですか。伊崎さんがイケメンを連れてるんですー」
「あ、待受謎ハンサム」
「……そう、そうだ! 待受謎ハンサムだ!」
 初対面の二人から全く聞き覚えのない珍妙な名で呼ばれ、楓は顔をしかめる。
「……は?」
「スマホの待受、お前にしてて、それを見られて……」
 亨の不十分な説明を、三木が補足する。
「イルミネーションを見てる写真がすごく綺麗で、あれは誰だって、ちょっとした話題になったんですよ。伊崎さんの待受の謎のハンサムってことで待受謎ハンサム。わあ、実物見ちゃった。皆に自慢しちゃお」
 クールな外見に反して、三木のはしゃぎ方は少々うるさい。藤谷を見ているようだ。
 磯川は揶揄いの笑みを浮かべる。
「飲み会に彼氏同伴かよ」
「俺、今日は行きませんよ。磯川さんだってとっくに三十回ってるんですから、あんまり若手の会に乱入しない方が……」
「皆が俺を待っている。俺という財布を」
「まあ、他の子が歓迎してるならいいんですけど」
 三木はさらっと流された磯川のセリフを拾う。
「え、謎ハンサムが伊崎さんの彼氏なんですか?」
「そりゃそうだろ。じゃなきゃ、待受にしねえだろ。なあ、伊崎くん」
「まあ、そうですね」
「わあ。今日の飲み会は盛り上がりそう! ねえ、やっぱり伊崎さん、行きましょうよ。彼氏同伴で。磯川さんが出してくれるって言ってますよ」
「奢るのは女の子だけかな」
「俺は帰るよ。話のネタにされるのがわかってて、わざわざ行かない」
「私、面喰いなんですよねー。どこに行ったら謎ハンサムみたいなのと知り合えるのか、詳しく聞きたいです!」
「三木ちゃん、よく見たまえ。ここにいるじゃないか」
「磯川さんは好みじゃないです」
「はっきり言うねえ」
 三人の和やかな会話が続く。楓は入り得ない空気で(入るつもりもないが)、苛々が募り、掴んだ手首をぎりぎりと絞める。
「痛っ!」
「どうした?」
「なんでも……、そろそろ行きますね。電車の時間がありますし」
「伊崎さーん、また話聞きに行きますから、昼休み空けといてくださいねー」
「はいはい」
 手を振る三木に振り返し、亨は歩き出した。楓もそれを追い、駅の方へ向かう。
 あの煩わしい二人と別行動が確定したようなので、ずっと捕まえていた手を離す。
「バーカ」
「突然の罵倒……」
「俺の写真なんか待受にしてるからだ」
「これね」
 亨はスマホを取り出して画面を見せてくる。イルミネーションの明かりが、上向き加減の楓の横顔を照らしてる。
「へえ。確かにハンサムだな」
「いいだろ。内輪の忘年会の帰りに撮ったやつ」
「ざまあ見ろ」
「何が?」
「それのせいで彼氏いるってバレた」
「待受見られるより前に、彼氏がいるっていうのは知られてたよ。相手が誰かは言ってなかったけど。大分前に彼女いるのか聞かれて、彼氏ならいるよーって答えたから」
「大胆すぎ。ベータに変な目で見られない?」
 多数派のベータにとっては、男女で付き合うのが一般的だ。「いくらオメガでも、見た目が男なら絶対無理」とか「オメガ男と付き合えるアルファは元々男が好きなだけ」とかと言って、ベータ男が盛り上がっているのを聞いたことがある。
 楓の場合、職場の人々は皆理解があるからオープンにできるが、あんな大所帯の会社だと、色々な考えの人がいるだろう。男が男と付き合うことに対して、偏見の目を向けられることだってあるはず。
 だが、亨は気にならないらしい。
「別に皆普通だよ。真宮さんっていう大きな前例があるし」
「ふーん」
「で、なんで俺は逮捕されたの?」
「左手」
「ん?」
「指輪してない。職場では外してるって、姉ちゃんが」
「ああ、それは」
「理由は何だよ。まさか本当にやましいことがあるんじゃないだろうな!」
「ない。ないない! 俺、番になるとき、結婚式と法事だって嘘ついて休みもらったろ。休み明け直後からウキウキして指輪なんか付けていったら、周りの人間はどう思う?」
 しばし考える。知人の結婚式に出ると言って休んだ翌日に、いかにも結婚指輪という見た目の指輪をしてきたら——。
「結婚したのはお前か! 嘘ついたのか!ってなる?」
「そういうこと。結婚してませんって否定しても、じゃあその指輪は何だってなって、説明がややこしいだろ。俺、誤魔化すの下手だから、おかしなことを言って、ずる休みがバレる事態は避けたかったんだ。で、さりげなく付け始められるタイミングを探っているうちに時間が経って、今になったってわけです」
「……なるほど」
 その可能性は考えていなかった。そういうことなら納得できないでもない。
 亨はジャケットのポケットから指輪を取り出し、定位置にはめる。
「年末年始の休み明けがいい機会なんじゃないかな、とは思う。休みを利用して番を持ったから、指輪を買いましたって、すごく説明しやすい」
「一応言うつもりはあったんだな」
「黙ってた方がいい?」
「いや、好きにしたらいいんじゃない」
「じゃあ、聞かれたら言う」
「おう」
 昨日桜と話してからずっと憂鬱だったのだが、心も足取りも一気に軽くなった。事件はあっけなく解決したわけだ。いや、そもそも事件など起きていなかった。
 亨の口調はいつも通り柔らかい。
「浮気でもしてると思った?」
「……ちょっとだけ」
「番にまでなったのに、そんなことするはずないじゃん」
「わかってるよ。わかってる」
「昨日から様子がおかしかったけど、そういうことか。聞いても何も言わないから、今日もずっと気にはなってたんだ。職場では外すって、あらかじめ言っときゃよかったんだよな。下手に不安にさせるようなこと言うべきじゃないって思ってさ。逆にいらない心配させちゃったな。ごめん」
「ほんとだ。バカ」
 彼の手に自分の手を寄せ、甲の皮膚を摘まんでひねる。
「紛らわしいことした罪で抓りの刑」
「仕返しが小学生みたい」
「大人の力で思いっきりやってやろうか。姉ちゃんから聞いたとき、俺がどんな気持ちだったかわかるか?」
「……うん。びっくりしたよね」
「びっくりしただけじゃない」
「ごめんなさい」
「反省してんのか」
「してます。これからは、包み隠さず報告します。まあ、今回のようなことは滅多にないと思うけど」
「俺も……」
「ん?」
 躊躇いはあったが、結局言った。
「疑ってごめん」
「あれは疑われてもしょうがないと思う。この間見たドロドロ不倫ドラマにも似たようなシーン出てきたし」
「ああいうのはもう見ない方がいいな」
「だね」
 しなくてもいい心配をしてしまう。
 地下鉄の入り口から駅構内に入って、目的の路線を目指す。途中、デパ地下の前を通りかかり、思い出した。
「今日は張り込みのことしか頭になかったから、夕飯の準備してないわ」
「食べて帰る?」
「月曜日から外食は贅沢だ」
「曜日の問題なの? じゃあ、デパ地下のお惣菜とか」
「高い。スーパーで買う」
「肉ジャガコロッケがいいな」
「許可する。今年、じゃなかった、来年の正月もスーパーの惣菜だぞ。母さんと姉ちゃんが旅行に行っていないから、おせちもらえない。正月から自分で料理したくないし」
「いいよ、何でも。ピザも取ろう」
「宅配ピザは高い。スーパーのチルドピザは? トースターで焼くやつ」
「いや、そこは正月だし」
「しょうがないなあ」
「そういえばさ」
「なんだよ」
「四回目だな、正月」
 出会ってから、という意味なのは、言われなくてもわかった。
「キリが悪いな、五回目に言えよ」
「ふと思っただけだよ」
 五回目も十回目も五十回目も、きっと一緒に過ごす。病気で入院するなど、よっぽどの事情がない限りは。一回目の時は、その次の確信も持てなかったものだが。
 何十回目かのその時には、指輪はすっかり身に馴染んで、日常生活ではその存在さえ意識しなくなっているかもしれない。それでも多分、これが特別な物であることは、ずっと変わらないだろう。
 大掃除の計画について話し合いながら、電車に乗った。