(小ネタ12)彼の帰りが遅い日に

【時期→かえでシロップ本編(4)の後】

 一人で夕飯を食べるのは三日連続。亨は仕事が立て込んでいて忙しいらしく、今日も帰りが遅い。
 テレビの音がやかましい部屋で、楓は簡単な食事を早々に終えた。すぐに後片づけし、そのあとバスルームへ。
「あっつ……。もう毎日毎日……」
 今日は外に出る時間が長かったから、全身汗でべたべただ。日に日に気温が上がり、日中の陽射しは耐え難いほど強い。夜になっても涼しくならず、室内ではクーラーに頼っている。早くさっぱり洗い流してしまいたい。
 脱いだ服を洗濯カゴに突っ込み、バスルームのガラス扉の中へ。低めの水温に設定したシャワーを頭から被る。水が肌をくまなく滑り、汗と共に床へ落ちた。
 手早く頭から洗う。汚れが残らぬようしっかりと。続けて身体。タオルにボディーソープをとり、上から泡を広げていく。臍の辺りまで来たところで、ふと腹の底に微熱のような情欲が沈殿しているのを感じた。
 長年の疑問なのだが、夏という季節はなぜムラムラが溜まりやすいのだろう。楓だけか? いや、ひと夏のアバンチュールがどうのという話があちこちに転がっているくらいだから、楓に限ったことではないはず。
 今日はどうせ先に寝ることになるから、このあと誰かさんと発散する予定はない。ついでに処理しておくことにしよう。下肢に手を伸ばして包み込み、刺激を与える。溜まりすぎないうちに出すというだけの単純な作業。大した興奮もなく淡々と終え、べとついた掌をすすいだ。
 掃除が面倒なので、浴槽に湯は張っていない。そのまま上がる。
 扇風機の風を浴びながらドライヤーをかけた後は、アイスをお供にくつろぎテレビタイム。ソーダ味のアイスキャンディーの中にバニラアイスが入っている定番の棒アイスは、楓の小さい頃からのお気に入りだ。夏はこれが一番いい。ミルクのコクたっぷりの高級アイスは、冬にはいいが、夏にはくどい。
 あまり面白い番組がなく、ニュース番組を流し見していたところ、玄関ドアの鍵を開ける音がした。聞いていたより早い。
 重い足取りの亨がリビングに顔を出す。声にまで疲れが滲んでいた。
「ただいまー」
「おかえり。飯は?」
 用意しなくていいというのでしていないが、一応聞いておく。
「食った。いいな、アイス。まだある?」
「箱買いしたから余裕」
「後でもらおう。先に風呂行ってくる」
「お湯張ってないぞ」
「いいよ。浸かったら絶対寝る」
「お疲れさーん」
 丸まった背を見送り、アイスの残りを食べてしまう。二本目にいきたいが、腹を壊しそうなのでやめた。さっさと歯磨きして誘惑を断ち切ろう。
 洗面所から歯ブラシを取ってきて、引き続きだらだらテレビを見ながら磨く。睡魔が襲ってきてうっかり歯磨き粉を飲んでしまい、慌てて洗面所に行ってうがいをする。
 もうベッドに入ろうかな。洗面所の隣、磨りガラスの向こうからはシャワーの音。亨はいつも十五分もあれば出てくるから、もうすぐだろう。とりあえず顔を見て「おやすみ」を言ってから寝るとしようか。
 少しだけ待ってやることにして、リビングに戻る。しかし、睡魔には勝てず、ソファに座るなりうとうとしてしまう。はっとして目を覚ましたときには、亨がソファの隣に座って静かにアイスを食べていた。テレビは消されている。
「……お前、声かけろよ」
「起きたんだ。いや、これ食べ終わったらベッドまで運ぼうかと思って」
「無理すんな。疲れてんのに」
 子供じゃあるまいし、ベッドにくらい自分で行ける。膝を叩いて立ち上がる。
 亨はかじったアイスを口で溶かしながら、こちらを見上げた。
「寝る?」
「ああ、ぼちぼち。おやすみ」
「んー、おやすみ」
 腰を上げて顔を近づけてきたので、意図を理解して待ちの態勢を入ったのだが、彼は触れ合う寸前で止まった。
「……なんだよ」
「いや、楓、歯磨きした後なのになと思って」
「そんなんいいんだよ」
 こちらからちゅ、とキスをする。
 距離が近づくと、ついいつもの癖で彼の匂いを確認してしまう。濃い「疲れ」と「リラックス」の匂い。それから——、性的な行為の残り香。性的な、と言っても、セックスの後ほど強いわけではない。この直前に一人で発散していたのだろう、おそらく。亨に対してだけ楓の鼻は敏感すぎる。
 秘密を握ってやったようで嬉しくなり、にやりと笑って問う。
「溜まってたのか?」
 意味がわかったようで、亨はきまり悪そうに顔をしかめた。
「そういうこと、いちいち指摘しなくてもいいから」
「ははは。なんだ、照れてんのか」
「……あのさあ、楓にわかったのなら俺にだってわかるってことだからね。風呂場に残ったアレな匂いにムラムラして、俺もつい」
「アレってなんだよ、アレって」
「いたしたときのフェロモン的な」
「嘘つくな。換気扇回してたぞ」
「窓開けて風通したんならともかく、換気扇だけじゃそんなすぐに匂いは消えないよ。楓って一人でするとき大概風呂場だよね」
「は?」
 大概風呂場——大概。以前からバレていた?
 付き合いたての頃のように、頬にさっと朱が差す。
「お前、気づいてんなら言えよ!」
「言ったら言ったで怒るくせに」
「怒られても言え! そんなしょっちゅうじゃないからな。今日みたいに帰りが遅いときに息抜き程度で」
「今更そんな過剰反応することでもなくね?」
「知ってたくせに黙ってたのが嫌なんだよ!」
 からかってやるつもりが、恥ずかしい思いをしたのは楓の方だった。
 腹が立つのに任せて理不尽な怒りをぶつけ続けるのも大人げない気がして、くるりと背を向ける。
「寝る」
「俺もすぐ行くわ」
「待たないぞ」
「えー、十分で行く」
「五分で寝る」
「そういやさ、寝室、クーラーつけてた?」
「つけてないけど」
「あっついのに五分で寝れる?」
「あー」
 振り向いて目が合うと、亨はにこにこしながらアイスの木べらを振った。
「歯磨きしてから行くから、ちゃんとちゅーしよ。おやすみのちゅーじゃないやつ」
「疲れてんじゃねえのかよ」
「ちゅーは別腹」
「スイーツみたいに言いやがって」
「というより栄養ドリンクかな」
「……三分で締め切り」
「がんばる」
 結局誘いに乗ってしまう自分が情けない。照れ隠しで舌を突き出して見せ、寝室へ向かった。