(2)ないしょごと

 アルバイト先のあるビルから出ると、もうすっかり日が落ちていて暗い。バイトも大学も同じ友人の相田は、凛太を置いて一足早く、夜の街へ繰り出していった。
 平日の終わりの金曜日、相田の用事はデートではなく、アイドルのコンサートらしい。「お前は予定もなくて寂しいやつだな」と言われたが、凛太にだって予定はある。大好きな人と週末を一緒に過ごすという、有意義で贅沢な予定。
 会える日はいつだって胸が躍る——、はずなのだが、今日は少し気が重い。というのも、前回会ったときに脩とケンカになったからだ。ケンカというか一方的に凛太が怒っただけなのだが。
 
 
 二日前の朝のことだ。前日から泊まっていて、起き抜けでさっとシャワーを浴びた。服を着て脱衣所から出ると、脩の話し声が聞こえた。
「今風呂に入ってまして。後からかけ直すように言いますので……」
 嫌な予感がして、リビングに走り込むと、脩の耳元にあるのは凛太のスマホだった。機種は脩と同じだが、キャラクターもののカラフルなケースに入れているので、すぐに自分のものだとわかるのだ。
「なにしてるの!」
「お前の母さんから……」
「勝手に出ないで!」
 脩からスマホをふんだくる。電話の向こうで、母が非難がましく言った。
『何なのよ、あんた大きな声出して。こっちにも聞こえたわよ』
「と、友達のとこだから……。昨日泊めてもらって」
『あんた昨日も言ってたからわかってるわよ。もう大学生の息子にごちゃごちゃ言ったりしないわ。で、今日は帰ってくるの?』
「ああ、うん、そのつもり。今日って雅くんの誕生日でしょ」
 雅くんとは母の再婚相手のことだ。凛太が高校一年生の時同居を始めた。気が強くずけずけ物を言う母とは違い、極めて温厚な人物で、父という感じはないものの、関係は概ね上手くいっていた。前々から、今日のために母とささやかな誕生日会の計画を練っていたのだった。
『そう、ちゃんと覚えてたのね。よかったわ。じゃあ、待ってる。なるべく早く帰ってきて頂戴ね』
「うん。わかった」
 電話が切れる。凛太が喋っている間に、脩はキッチンに移動していた。
「……脩ちゃん」
「ん? ほら、パン焼けたぞ。さっさと食え」
「なんで勝手に電話出たの?」
 トーストの皿をカウンターに置く脩を睨む。彼は続いてコーヒーを入れるため、棚から二人分のカップを取り出す。
「長く鳴ってたし、発信元が『母』って出てたし、なんか緊急の要件だったらいけないと思って」
「でもでも、勝手に出ちゃ駄目! ほんとデリカシーないよね」
「は? デリカシー関係ないだろ。勝手にメール見たとかじゃないんだから」
「同じことだよ!」
「いや、全然違うだろ」
「とにかく嫌なの! もう勝手に出たりしないで!」
 凛太がこんな風に強く出ることはめずらしいので、脩はきょとんとしつつも頷く。
「ああ、うん」
「次やったら許さない」
 ぷりぷりとしながら食卓の椅子に掛け、いつものトーストにかじりつく。半熟の目玉焼きとチーズ、ハム、千切りキャベツが乗っていて、なかなかボリュームがある。無性に腹が立って仕方がなくて、無言のまま朝食を平らげた。
 
 
 わかっている。脩は悪くない。凛太が怒ってしまったのは、母に脩のことを知られたくないからだ。知られてしまう危険のあることをされたから腹が立った。
 母は凛太に彼氏がいることも知らなければ、男しか好きになれないたちなのも知らない。言いたいことははっきり言う母に、自分を否定されたくないのはもちろんあるが、大好きな脩が悪く言われるのを聞きたくないというのも大きい。十も年の離れた教師と元生徒で、どちらがより責められるかと言えば前者だろう。
 同じ理由で、長年の友人の相田にも話せていない。母にも相田にも、凛太は極度の奥手と認識されているようだが、騙しているようで心苦しいときがある。
 兎にも角にも怒りすぎたことを謝ろうと心に決め、脩の住むマンションまでやってきた。ドアの前で深呼吸してから、いつものように合鍵を使って入る。玄関までいい匂いが漂ってきている。晩ご飯の準備をしてくれているのだろう。
 リビングのドアからそっとのぞくと、脩は菜箸を手にキッチンのコンロの前に立っていた。こちらに気づき、笑いかけてくれる。
「おう、来たか。先に手洗って来いよ」
「うん」
「時間ないから今日は鍋な」
 彼はいつも通りのようで安堵する。笑ってくれることなど当たり前になっていたが、目が合って笑いかけてくれるだけで胸が痛いくらいにドキドキした、なんて頃もあったなと思い出す。
 洗面所で手洗いうがいをして戻ると、食卓にIHクッキングヒーターが置かれ、その上で鍋がぐつぐつと煮えていた。タラの入った寄せ鍋らしい。
 促されるまま食べ始める。謝らなければと思うが、どう切り出せばいいかわからず、いつものお喋りは封印し、話を振られて受け答えするくらいだった。
 シメのうどんに到達したとき、脩が提案した。
「よし、今日は一緒に風呂に入ろう」
「え?」
「裸で腹割って話そう。な?」
「……うん」
 脩のことだから、凛太が何か言いたそうにしているのはおそらく見抜いていて、食事の間ずっと待ってくれていたのだろう。それなのになかなか凛太が切り出さないから、機会を作ってくれるというのだ。場所が風呂なのはよくわからないが、素直にありがたい。
 
 
 一緒に晩ご飯の後片づけをして、その後はお風呂の時間。先に入っていてと言われたので、脩が来る前に髪と身体を洗い、湯船につかる。長湯することを見越してか、ぬるめの温度設定だった。
 ちょうどタイミングよく脩が入ってくる。ちらりと目をやると、ものの数秒で頭が泡まみれ。いつも彼は洗う時間が凛太の半分以下だ。あちらの方が身体が大きく、洗う面積が広いはずなのに、毎回不思議だ。
 あっという間に全身の泡を流し終えると、脩は凛太を前に詰めさせ、凛太の背中側に入り込み、腰を下ろす。脩の両足の間で、後ろから抱きしめられるような体勢だ。
 自然と彼の胸に体重をかけて身体の力を抜く。ぬるま湯の中で大好きな人の腕に抱っこされて、美味しい晩ご飯でお腹いっぱいで、きっと凛太はこの瞬間、世界一幸せ。
 眠気に襲われかけたが、脩の声によって現実に引き戻された。
「で、どうしたの?」
「えっと、その、この前怒っちゃったこと謝ろうって思って、でも、なかなか言い出せなくて……。ごめんなさい」
「気にしてたのか?」
「だって、脩ちゃん悪くないのに」
 理不尽に怒鳴られて気を悪くしない人間なんていないだろう。
 後ろから回った脩の手が、なだめるように凛太の肩に添えられる。
「理由なんて大体わかるけどな。凛は単純だから。母ちゃんに俺のことばれるの嫌だったんだろ? でも、彼氏ですなんて言いやしないよ。あの時も友達って言った」
「別に脩ちゃんと付き合ってるのが恥ずかしいとかじゃなくて」
「お前の気持ちわかるよ。俺は高校の時うっかりオープンになっちゃったけど、それまで怖かった」
 それは初耳だ。まだ付き合う前、自分の性的指向について相談に乗ってもらったことはあったが、彼の過去の話を聞いたことはなかった。
「すごい。脩ちゃんは家族に話してあるんだ」
「ばれて言わざるを得なくなっただけだから、すごくはないよ」
「ばれたってどうやって?」
「言ってもいいけど、聞きたくないことかもよ」
「気になるから教えて」
 好奇心が抑えきれない。自分がもしそうなったときの参考になるかもしれないし、知りたい。
 脩はしばらく黙って、凛太の腕を撫でたり握ったりつまんだりしていたが、口を開く。
「当時付き合ってたやつとキスしてるとこ見られた。まあ、親はどっちともやっぱりねって感じだったけど、じいさんが誰かから聞きつけてきて、大激怒で大変だった」
「……ふーん」
 そのとき付き合ってたやつとキス——、している光景が浮かびそうになってしまい、あわてて追い払う。
 彼の鼻先が首筋に当たる。ご機嫌取りをするように、首元に口付けられた。
「ほら、聞かない方がよかったろ」
「そんなことないもん。僕が教えてって言ったんだし。高校の時にはもう彼氏いたんだってびっくりしただけ」
「拗ねるなよ」
「拗ねてない」
 凛太とここでこうしているということは、その相手とは別れているはずで、いつ、どうしてさよならしたのかとか、どういう人だったのかとか、どれくらい好きだったのかとか、疑問は浮かんだものの、口にはしなかった。本格的に気落ちしそうだから。好奇心で人の過去をのぞこうとするものではない。
「ならいいけどさ。今は凛だけだよ」
「今だけ?」
「今もこれからも」
「ごーかく」
「そりゃありがたい」
 愉快そうに彼は言って、苦しくないぎりぎりの加減で、抱きしめる腕に力がこもる。
 裸でいるのに手と肩と首回り以外触ってこないなと、少々物足りなさを感じながら、真横にある彼の足に手を置く。
「僕だってわかってる。いつかは話さなきゃいけないって。だって脩ちゃんとずっと一緒にいたいもん。でも、まだちょっと覚悟が……」
「焦ることない。こうやって毎週会えてるし、現状には満足」
「僕は毎日一緒にいたいよ」
「一緒に住むってことか? それはなあ、やっぱりきちんと挨拶行ってからだな」
「えー。やだ」
「やだじゃない」
 脩が家に挨拶に来るだなんて、まだ恋人の存在を打ち明けてもいないのに、ハードルが高すぎる。大学生になったら、付き合ってもらえたら、なんだって自由になると思っていたのに、まだまだ越えなければいけないものはあるようだ。
 顔を見たくなって、腕の中で身体を捩って、脩の胸に片手をつく。自分でもあざといと感じる上目遣いで見つめてから顎をあげて催促すると、彼は触れるだけの軽いキスをくれた。
「脩ちゃんと毎日ちゅーしたい」
「そのうちな、そのうち」
「おはようのちゅーと、いってきますのちゅーと、おかえりのちゅーと、おやすみのちゅーと、あとは大好きのちゅーをいっぱい」
「そうだな。しような」
「ちゅー」
「はいはい」
 再び催促するが、もらえたのはまた軽いキスだけ。不満でふくれ面になり、今の体勢でできる限り密着しようともぞもぞ動く。
「もっとちゃんとちゅーとして」
「そろそろ出ないとのぼせるぞ」
「もうとっくに脩ちゃんにのぼせてます」
「はいはい。そういうのは後で聞くから」
 脩は股ぐらに手を伸ばしてこようとする凛太をかわして引き剥がし、さっさと立ち上がって湯船を出てしまう。
 湯のしたたるヌードはしっかり鑑賞しつつ、凛太は縁に肘をつく。
「お風呂エッチはしないの?」
「風邪引く。スキンない」
「つまんないの」
「その情熱は是非ベッドでぶつけて」
 ひらひら手を振りながら、さっさと出て行ってしまう。
 ヌード鑑賞の結果、反応していないわけでもないのがわかったから、よしとすべきだろうか。むしろ凛太の方が元気になってしまっている。若さの力というやつだ。少し鎮まったら、さっさと上がって、言われたとおり存分にぶつけてやろうと思った。