(3)おもいで

 カーテン越しの淡い冬の光が、凛太を深い眠りから引き上げる。
 布団の中でもぞもぞ寝返りを打つと、温かい肌に触れた。隣に脩がいるのだ。昨日の金曜日から泊まって、今日は土曜日。好きなだけ朝寝坊ができる。
 薄く開いた目に、こちらを向いて眠る脩が映る。その寝顔は普段より幼く見える。くっつきたくなって、胸の前にある彼の手をどかしてからすり寄ると、どけた彼の手が凛太の腰に回った。まだ目をつぶっているから無意識の行動らしい。
 ——脩ちゃんかわいい。
 かっこいいのにかわいいというのは最強だと思う。
 胸に顔をうずめて息を吸い込む。落ち着く匂いがした。しばらくそうしてうっとりしていると、布団の中で息が詰まってきて、上に動いて顔を出す。
 起き出すにはまだ早い。目蓋を閉じると、また眠りに落ちていく。
 
 
 脩と出会ったのは、凛太が高校一年生の時だ。そのときはまだ凛太の通う学校に脩はいなかった。
 中学校から内部進学で高校に上がり、早くも新しい校舎に慣れ始めた五月末のこと。仕事で母の帰りが遅いその日、凛太は家の近くの公園のベンチに座り、一人でぼんやりしていた。一人ぼっちで家にいるより、一人ぼっちで公園にいた方が、まだ寂しくない気がしたのだ。重要な役職を与えられたそうで、母の帰りが遅くなることが四月から増えた。
「どうしようかなあ……」
 夜空を見上げながら、小さく息を吐き出す。
 再婚するつもりだと母から聞かされたのは昨日のことだ。反対するつもりはない。これまで仕事一筋で頑張って凛太を育ててくれた母には、幸せになってほしい。物心ついたときから家族は母だけだった。そこにもう一人増えるというのはどんな感じなのだろう。上手くやれるだろうか。家族になるってどうやるのだろう。
 少々ナーバスになって考え込んでいたところに、一人の男が近づいてきた。
「そこの少年、こんなところで何やってんだ?」
 その人は、近所のスーパーのものらしき買い物袋を下げていて、スーツ姿で、薄暗闇の中ではとても大柄に見えた。
 凛太は片方だけ付けていたイヤホンを外すと、首をかしげる。
「……えっと」
「君、最近よくここでぼーっと座ってるだろ。寂しそうな顔してるから気になってて」
「いえ、別に何でもないです。家に帰っても一人なので、ここにいるだけです」
「ご家族は?」
「今のところ母だけです。いつも仕事で遅いんです」
「そっか。大変だな」
「大変なのは母です」
 喋りながら、彼が声を掛けてきた理由を考えていた。一番しっくりくるのはこれだ。
「お兄さんは警察の人ですか?」
「いや、違うけど」
「これって補導ってやつでしょ? 僕、初めてされました」
「違う違う。お兄さんは学校の先生。普段、君みたいな年の子相手にしてるから気になっただけ」
「そうですか。それはご親切にありがとうございます」
 頭を下げたと時、ぐうと腹の虫が鳴いた。
 男はベンチの隣に腰掛けてくる。そこは街灯が顔をよく照らす位置で、見たところ彼は声から受ける印象より若く、最近気になっている新人俳優に少しだけ似ていた。
 昔からの知り合いのように気安く話しかけてくる。
「晩飯まだなの?」
「はい。これからお弁当を買って帰ろうと思って」
「母ちゃん忙しくて飯作る暇もないか。よかったら、うち近くだけど食べに来る?」
「あなたの家にですか?」
「そう。一人より二人で食った方が美味いだろ。お互いに」
「……うん、ああ、はい」
 なぜか誘いに乗ってしまった。初対面の名前も知らない人間だというのに、親しみやすくて温かな笑みが微塵も警戒心を抱かせなかったのだ。
 その日はチキンカレーをご馳走になった。彼の言うとおり、二人で食べる晩ご飯はとても美味しかった。帰り際、良かったらまた食べに来いと言われ、連絡先を教えてくれた。
 それからというもの、凛太は脩の言葉に甘え、週に一回か二回、ときには三回、母が遅い日に夕飯を一緒に食べるようになった。
 脩はとても聞き上手で、凛太は彼にたくさんの話をした。母と二人で乗り越えてきたこれまでの生活のこと、母がもうすぐ再婚するのだということ、昨日見たテレビ番組のこと、そこに出ていた好きな俳優のこと、学校の授業のこと、友達と遊園地に行ったこと、男のくせに少女小説や少女漫画が好きなこと、他にも色々。いつも嫌な顔一つせずに脩は聞いてくれた。彼に話すことで、心がとても軽くなるように感じた。
 彼のことを好きになるのに、そう時間はかからなかった。自分が女性を好きになれない人間なのは、薄々気づいていた。
 あるとき、思い切って相談してみた。脩なら気持ち悪がらずに受け止めてくれるという確信があったからだ。食事中、箸を置いて切り出す。
「脩ちゃん、あのね。変だと思うかもしれないけど……」
「なんだ?」
「僕、男の人が好きみたい」
「別に変じゃないだろ。俺もそうだし」
「そうなの? 脩ちゃんも?」
「そうだよ。まだ凛は狭い世界で生きてるからわかんないだろうけど、結構いるぞ。同じやつ」
 事も無げに言うものだから、悩んでいる自分の方がおかしいんじゃないかと思うほどだった。
「……そっか。よかった」
「凛は変じゃないよ」
「うん……」
 脩に認めてもらえただけで、彼に守られて強くなれたような気がした。それなのに涙がぼろぼろ溢れて止まらなくて、美味しいはずの彼のご飯も、よく味がわからなくなった。
 
 
 その日以降、だんだん自分の気持ちを抑えるのが難しくなっていく。膨れ続ける恋心は、ついに口から飛び出てきてしまう。忘れもしない、三学期が始まってしばらくした真冬の一月のこと。
「脩ちゃんのことが好き。僕じゃ駄目……、ですか?」
「……え?」
 自分の発言が食卓に招き寄せた沈黙のせいで、テレビの音がやたらと大きく響く。
 脩は凛太を凝視したあと、こめかみの辺りをかく。
「……うーん」
「あ、ごめんなさい。僕なに言ってんだろ。駄目だよね。当たり前だよね」
 よく考えても考えなくても、十も下の子供など、大の大人が相手にするわけはない。心の中で想えるだけで幸せだったのに、馬鹿な口めと自分を叱ったって遅い。
 彼は煮立ってきた鍋の灰汁取りを再開して、ちらりとこちらを見る。
「知ってた」
「え?」
「凛はわかりやすい。全部顔に出てた」
「……え、うそうそうそ」
「ほんと。どうしたもんかなあって思ってたんだ。まさかそっちから言ってくるとは」
「そうだよね。迷惑だったよね。……ごめん」
 もう今すぐこの場から消えてしまいたい。必死に涙を堪える凛太の取り皿の中に、脩は火が通ったばかりの豚肉を入れていく。追加されたって、もう何も喉を通りそうにない。
「迷惑ではないよ。でも、俺は成人で、凛はまだ十六で、法的にも世間的にも駄目。それはわかるよね」
「……はい」
「待てる? 卒業まで。まだずいぶん長いけど」
「ごめんなさい。諦めます。だからもう来るなとは言わないで」
 ここで過ごす時間は、いつの間にか凛太にとって無くてはならないものになっていた。それを取り上げられたら、きっと学校での勉強だって、新しい家族との生活だって、何も頑張れなくなる。
 怖くて脩の顔を見られず、ずっと項垂れたまま膝の上で手を握りしめる。
「……俺の話聞いてる?」
「もう会えなくなるのは嫌で」
「凛」
 両肩をつかんで脩の方を向かされる。真摯な二つの瞳が、まっすぐに凛太を捉えていた。
「待っててくれるかって聞いたんだよ。あと二年ちょっと。凛が高校を卒業するまで」
「なんで」
「俺もお前にはまっちゃったみたい」
「……意味がよく」
「俺も好きだって意味」
 ——好き。部屋に呼んでくれるくらいだから、嫌われてはいないと思う。でも、『俺も』というのはどういうことだ。脩の『好き』も凛太と同じ種類で同じ重さの『好き』だということなのか。
 驚きすぎて、言葉に感情が上手く乗らない。
「なんで、どうして……」
「今まで出会った中で、一番ピュアでかわいい生き物だからかな」
「そんなにピュアでもないしかわいくもない……」
「かわいい。凛はかわいい」
「うう、え、あの……」
 かわいいというフレーズが、何度も何度もくるくる回って頭の中を踊る。恋愛経験値ゼロの凛太は、この程度のことでも脳の処理速度が追いつかなくなる。
 脩は照れ隠しらしい笑み浮かべた後、生真面目な顔つきの下にそれを引っ込めた。
「でも、縛るつもりはないんだ。二年も待てないって言うならそれでもいい。他に好きな人ができたらそっちに行ってもいい」
「そんなことしない。僕の『好き』はそんなに軽くないもん。待ってる。脩ちゃんがいいって言うまで、いつまででも待ってる」
「ありがと、凛」
 その時はただ手を握っただけ。約束の握手だった。
 脩が凛太の通う高校に赴任してきたのは、その数ヶ月後、二年生になった四月のこと。系列校からの転勤らしい。単調でつまらなかった高校生活が、一気に楽しくなった。学校では教師と生徒の関係を保ち、週に数回、一緒に取る晩ご飯はこれまで通り続ける。
 正式にお付き合いを始めたのは、凛太が卒業した三月のことだった。
 
 
 頭を撫でられた感覚があって目を開けると、脩と間近で視線が合う。寝顔を観察されていたのだろうか。恥ずかしい。
 脩は朝からご機嫌で凛太の頬をつついてきた。
「おはよ、凛」
「……おはよう」
「またすごいニヤニヤしてたぞ。なんの夢見てたんだよ」
「内緒だもん」
「なんでだよー。見てておもしろかったぞ」
「ひどい」
 寝顔がおもしろいって、それはもう悪口だろう。付き合う前の方がよく褒めてくれていたように思う。
 唇をとがらせ、彼の腕を引く。
「ねえ、僕のこと今でもピュアでかわいいって思ってる?」
「もちろん」
「ほんとに?」
「ほんと。でも、それだけじゃなくなったかな」
「どういうこと? ……あ、こら」
 彼の手のひらが尻を撫でる。掴んで押し返すも、懲りずにまた攻めてくる。尻をめぐって攻防を続けつつ、視線で答えを迫ると、彼は小さく舌を出して見せる。
「内緒」
「なんで? それだけじゃないってどういうこと? 何があるの?」
「お前も教えてくれなかっただろ」
「夢のこと? 僕も言うから教えてよ」
「そんな食いついてくるとは思わなかったわ。別にそんな気にしなくても悪い内容じゃないよ。ああ、そのむくれ顔もかわいいな。ハムスターみたいで」
「馬鹿にしてる」
「してないよ」
 にやりと笑ったかと思うと、唇に彼の唇が押し付けられた。尻を守ることに気を取られていて、迂闊だった。
「……ずるい」
「だってかわいいから」
 またキスされる。
 脩はむくりと起き上がって、凛太の頭の横に手をつき、覆い被さってくる。布団の隙間から冷たい空気が入ってくる。
「さむいよ」
「すぐにあったかくしてやるよ。よく言うだろ。身体の中からあっためるのがいいって」
 熱を持った固いものが下腹部に押しつけられる。ぐりぐりこすりつけてくるものだから、形まではっきり意識してしまう。条件反射的にきゅっと力が入る自分の尻が憎い。
「そういう意味じゃないです。先生、間違ったこと教えないでください。それにひどいセクハラです」
「もう俺は凛の先生じゃないからいいの」
「ていうか、完全に話逸らす気だよね!」
「かわいいって思ってないんじゃないかって凛が疑うから、証明するんだよ」
「うわあ、やめて」
 いつもの早業で下着ごとズボンを脱がされる。脩は満足げに凛太の股ぐらを指さす。
「ほらほら、凛も元気」
「朝だからね!」
「うんうん、そうそう」
 適当すぎる相槌で流し、脩は手を伸ばしてリモコンを取り、エアコンを付ける。おそらく部屋が暖まる前に、『運動』で身体が温まって、すぐにエアコンを切ることになるのだろう。
 結局そのまま流されて、説明は聞けずじまいになった。