(1)証の跡

 朝の始まりを告げるけたたましい合図。だいたい毎日、これで目を覚ますのは智咲(ちさき)だけ。
 狭いワンルームに敷かれた一組の布団の中、隣ですやすやと気持ちよさそうに眠る文紀(ふみのり)の腕をどかし、智咲は時計のアラームを止めた。
「……フミ。おはよう」
「んー……」
「もう起きないと。バイトあるでしょ」
「んー」
「フミ」
 学業だけの智咲とは違い、文紀はこの近所のコンビニでアルバイトをしていて、今日は早朝からだったはずだ。
 肩を揺するが、眉をひそめるだけで彼は起きない。まったく、小学生の子供のようだ。鼻の頭を引っかいてやる。
「朝ごはん食べる時間無くなってもいいの?」
「ここで食べる……」
「パンはここまで飛んでこないよ」
「チサを食べるー」
 伸びてきた手が智咲に頭を引き寄せ、朝一番のキスをする。食べているつもりなのか、唇を甘噛みされる。重い目蓋を押し上げて薄目を開けた文紀は、気の抜けた笑みを浮かべた。
「おいしい」
「俺でお腹いっぱいにはならないってば」
「胸はいっぱいになるよ。チサ、今日も可愛いね」
 手の甲が智咲の頬を撫でる。自分を可愛いと言うのなんて、身内以外では彼くらいだ。こんなふうに褒められるのは、いまだに少し照れくさい。
「朝に目を開けるのはつらいけど、可愛いチサが見れるなら頑張って開けようかって思う」
「じゃあ、もうちょっと頑張ってぱっちり開けて」
「むりー」
「また閉じない! もう、遅刻して怒られればいいよ」
 起き上がって布団を出ようとすると、腕を掴まれる。
「ごめんってば」
 背中から抱きついてきた文紀の息が、首筋にかかる。
 首筋——寝間着がわりのTシャツからのぞく智咲の白い肌には、くっきりと歯形が残されている。二年前、文紀がつけたものだ。ただケンカで噛みつかれただけなら、こんなに長く跡が残ったりしない。これは自分たちにとってとても特別なもの。
 彼はそっと噛み跡に口づける。
「……おはよ、俺のチサ」
「おはよ」
 彼をいつも取り巻いている甘くていい匂いを嗅ぎながら、毎朝、どうか今日も何事もなく過ごせますようにと祈るのだ。
 
 
 今日は一限の授業は入れておらず、二限からだ。この春から入学した大学で、文紀は智咲と同学部同専攻、おまけにほぼ同じの科目を履修しているので、文紀もこれから同じ講義を受ける予定だ。
 彼がまだ教室におらず、智咲が先に一人で席取りをしているのは、彼のアルバイトが長引いてしまったからだ。着くのはぎりぎりになるらしい。
 テキストと筆箱を机の上に準備していると、何度か見かけたことのある女子学生が隣に座ってきた。文紀と親しげに喋っているのを見たことがあるから、彼の友達ではあるのだろう。
 確か智咲とは一度も話したことはないはずだが、彼女はまるで長年の友人のように声をかけてくる。
「チサくん、めずらしいわね。今日は一人?」
 チサくん、か。フミの真似をしているのだろうが、他人から急激に距離を詰めてこられるのはまだ怖い。なるべく自然な態度になるよう意識しつつも、目は伏せたままだ。
「ああ、うん、フミは少し遅れてる。もうすぐ来ると思うよ」
「じゃあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……なに?」
「フミくん、彼女いるって本当?」
 よくされる質問だ。昨日も知らない女の子に聞かれた。三日前も。この子も文紀と付き合いたいのだろうか。
 彼が女の子に人気があるのは知っている。誰にでも気さくだし、誉め上手だし、流行りの顔立ち(だと女子が言っているのを聞いた)で身長もあって、おまけにアルファ。
 高校の時からずっとだ。目立たない生徒だった智咲は、あの頃遠くから見ているしかできなくて、話しかけようなんて考えもしなかった。それが今や恋人で同棲までしているのだから、人生何があるかわからない。良いことも、悪いことも。
 文紀との関係は外では秘密にしているので、文紀にいるのは彼女ではなく彼氏で、その相手が智咲だなんて、馬鹿正直には言わない。こういった類の質問には、もう受け答えは決まっている。
「うん。彼女いるって」
「うちの学生?」
「さあ。俺もよく知らないんだ。ごめんね」
「知らないの? 高校同じで仲良しなんでしょ?」
「そうだけど、何でもかんでも知ってるわけじゃないよ」
 無理があると自分でも思う。仲の良い友達の彼女であれば、たとえ彼女自身と面識がなくても、どういった子なのか、ある程度基礎情報を持っている方が自然だ。だが、適当な彼女像を作って答えるなんて芸当は、智咲には出来ない。下手に嘘をたくさんつくくらいなら、知らないで通した方がいい。嘘が一つですむ。
 真偽のほどを見定めようとする視線が痛い。
「フミくんに口止めされてるんだー。ますます気になる」
「本人に聞かないの?」
「聞いても逃げられるんだもん。ならチサくんは? 彼女いる?」
「いないよ。見たらわかること聞かないでよ。恥ずかしいなあ」
「そうなんだ。へえー」
 学内で智咲がまともに話せるのは文紀くらいだ。こんなレベルのコミュニケーション能力で、彼女など出来るわけがない。
 この人が気軽にこんなことを聞いてくるのは、智咲の本当の性別を知らないということもあるだろう。変な色眼鏡で見られるのが嫌なので、外ではベータだということにしているが、智咲はオメガだ。
 それを知れば、距離を置いて気安く話しかけても来ないだろうが、質問するなら「彼女はいるか」ではなく「彼氏はいるのか」と聞くだろう。子を産めるオメガは男でも男と付き合うのが当然だと、皆思っているから。実際、智咲の恋人も男なのだが、オメガだからこうだと決めつけられるのは、あまりいい気がしない。
「あー。チサがナンパされてるー」
 会話が途切れたところで、やっと文紀がやってきた。開始三分前だ。彼は不機嫌を隠そうともせず腕を組み、智咲と話をしていた女子学生に抗議する。
「俺の許可無く営業活動禁止です!」
「許可なんて下りるの?」
「非常に厳しい審査があります。百万個ぐらい」
「あー、はいはい。すみませんでした。ほんとべったりねえ」
「残念だけど、入り込む隙なんてないから!」
「わかったわよ。退散します」
 彼女は肩をすくめ、女友達のいる席に戻っていった。
 一応訂正しておくべきか。講師が入ってきたので、小声で言う。
「ナンパとかじゃないからね?」
「後で話そう。きっちりね!」
「はいはい」
 高校時代を見ていたら、智咲に女性人気が無いことぐらいわかりそうなものだが。
 智咲がナンパされたと機嫌を悪くするくらいだから、文紀があの女の子に興味が無いことがはっきりして、少しだけ安心した。
 
 
 五限まできっちりこなして帰宅する。
 智咲たちの住まいは、大学から徒歩十分の学生向けのワンルームマンション。ちなみに水道光熱費込みのお得物件だ。
 智咲も同じマンション内の別の階に部屋を借りているが、ほとんど文紀の部屋に入り浸っており、事実上の同棲状態である。智咲の部屋は現在ただの物置になっている。
 帰ってきて、まず駅前のスーパーで買ってきた食材を、廊下の冷蔵庫に入れる。作業を素早く終わらせてスマホをチェックすると、母からメッセージが来ていた。内容が予想通り過ぎてため息が漏れる。洗剤を仕舞いに行っていたはずの文紀は、めざとくそれを見ていた。
「誰から? 亜矢香ちゃん?」
「誰それ」
「今日チサをナンパしてた子」
「だから、ナンパじゃないって言ったじゃん。あの子はフミの彼女がどんな子かって聞きたかったの。俺に彼女がいるかって聞いたのは、そのついで」
 あそこで文紀に彼女がいないと言えば、きっと亜矢香さんとやらは彼に誘いをかけにいったに違いない。下ばかり向いていて顔はよく見ていなかったが、髪は長くて艶々で、爪がキラキラしていて、美人だったと思う。
 文紀は食器棚からグラスを二個取り出し、キッチンのシンクの横に置くと、冷蔵庫に保存してある作り置きの麦茶を両方に注ぐ。よっぽど喉が渇いていたのか、それを一気飲みした。
「チサはさ、本気出せばモテるよ。この間影のあるイケメンって言われてるの聞いた」
「影のあるって、それは根暗っぽいってことじゃないの?」
 地味だの暗いだの、そんなことはこれまで散々言われてきた。
 せっかく入れてくれたので、智咲も麦茶を一口飲む。本格的な夏はまだ遠いものの、動き回っていると汗ばんでくるくらいの気温ではあるので、冷たいものは気持ちがいい。
 文紀は二杯目を入れていた。また麦茶を作っておかなければ。
「影があった方がミステリアスでモテるらしいよ」
「なにそれ。影なんて全くないフミがモテモテなの、知ってるんだから」
「それって高校の時だろ? あの高校は田舎だったから、ただただアルファが珍しかっただけだよ。大学ではそんなことない。実際、性別の違いで能力の差なんかそんなにないってこと、アルファをいっぱい見てる都会の人はわかってるんだよ」
「へえ、そう」
 では、今日の亜矢香さんとか、昨日の女の子とか、三日前の女の子とか、一週間前の女の子とか、他にもいっぱいいすぎて忘れたが、智咲に文紀の恋人の有無を尋ねてきたあの女の子たちは何だというのだ。しかも誰も彼も皆可愛い。
 彼が濡れた指で頬をつついてきたので、そっぽを向いてやる。
「焼きもち可愛い。『フミくんには可愛い(つがい)がいるから、誰が来たって無理です』って言えばよかったのに」
「学生で番持ちなんて普通じゃないんだよ。ただでさえ番に縁の無いベータの人が大多数なのに。また好き勝手噂されるよ。フミだって嫌な思いいっぱいしたからわかってるでしょ?」
「ここはあんな田舎じゃないんだから平気だよ。俺たちは何も悪いことなんてしてないんだし」
「そうだけど……」
 智咲たちが番になったのは、まだ高校二年生の時だ。学校で予期せぬ発情期に陥ってしまった智咲と、そこに偶然居合わせた文紀。お互いの存在は意識していたものの、それまで話したこともなかった二人が、発情期によって結びつき、気づけば首筋を噛まれ、番になっていた。教師に発見されたとき、二人とも全裸で交わりあったまま。校内でも、住まいの近所でも、恰好の噂の的になった。
 それから実に色々なことがあったが、なんとか今二人でいられるのは、文紀が諦めずに智咲に寄り添おうとしてくれたからだ。彼はいつでも智咲を助けてくれて、智咲はそんな彼のことが大好きになったし、深く感謝もしていた。
 智咲は幸運だと思う。良い番に恵まれたから。
「安心して。チサが嫌がるなら誰にも言ったりしないよ。チサにもう悲しい顔させたくない」
 智咲の髪を撫でる彼の手のひらから、労りや慈しみがあふれ出ているように感じ、そっと彼の方へ身を寄せる。彼はどちらかの手が空けば智咲に触れていたいようだった。それは智咲も同じだ。
「……ありがと」
「で、結局誰からメール?」
「母さん。夏休み帰ってくるでしょって。もうあっちに帰りたくない。高校の同級生にばったり会うの嫌だ」
「俺も帰ろっか?」
「同じ日に帰るのはやめたほうがいいよ。相談したってわかっちゃうかも。俺たちが一緒にいるってバレるとややこしい」
「番を引き離そうとするって、それはもう暴力だよね。うちの親だってそうだけど」
「だから隠さなきゃ。二人だけで生きていける力が付くまで」
 二人の両親はいずれも、息子の番に対して好意的ではない。番になったこと自体間違いだと言い、会うことすら許さない。彼らはどちらもベータ同士の夫婦だから、番の結びつきの強さを根本的に理解できないのだ。そのため、こうして同棲するつもりであることを隠して家を出てくるしかなかった。
 彼は甘えるように、智咲の指に自分の指を絡めてくる。
「……ね、見せて」
「いいけど、ここ廊下だし」
「向こう行こ」
 シンクにグラスを置き、廊下にあるキッチンから、居室部分に移動する。
 夏用のキルトラグの上に座り、一番上まできっちり閉められたシャツのボタンを二つ外す。襟元を引っ張って現れた首筋の噛み跡を、文紀はゆっくりとなぞる。くすぐったいが、動くのは堪える。
「これ見ると安心する。チサが俺のなんだって証だもん」
「不安なの?」
「ときどきね。また離されたくない」
「うん、俺もやだ。絶対やだ」
「……チサ」
 抱き寄せられ、彼の匂いに包み込まれると、ここは智咲がいるべき場所なのだと実感できる。眼差しでねだるまでもなく、キスをくれた。
 器用な指が、シャツのボタンにかかる。
「チサの他のとこも見たい。俺しか見れないとこ」
「見たら安心する?」
「するけど……、見るだけじゃ終われないかも。だめ?」
 やるべき家事だってまだ全然終わってないけれど、彼が求めてくれるなら。
「いいよ」
「チサ、大好き」
 やっと手に入った二人だけの生活。邪魔するものなんてなくて、溺れたって仕方ないだろう。もう二度と放したりなんかしない。そう言われるのが何より嬉しかった。