(2)訳ありの訳

 人生を変える出来事とは何だろう。大学入学? 就職? 結婚? 子供が出来ること? 智咲の場合、真っ先に思い浮かぶのは高校二年生の時のある事件だ。事件の後遺症は、智咲の生活に大きすぎる影響を与えた。三ヶ月に一度の憂鬱な日が近づいてくると、いつも思い出す。
 あるとき、進路のことで呼び出された高校生の智咲は、進路指導室で担任教師と二人きりになった。出されたお茶を飲んだ直後のこと、強い吐き気とめまいに襲われた。担任教師がお茶に混ぜて強制発情剤を飲ませたのだ。
 強制発情剤とは、発情期ではないオメガを強制的に発情期にさせる薬。オメガの不妊治療に使われることがあるらしいが、もちろん一般に出回っているものではない。どうやって入手したのかは不明だが、アルファである担任教師は、それを使って智咲を我が物にしようと企んでいたらしかった。妙な色気があるだとか、無意識に男を誘っているだとか言われたのは、本当に気持ちが悪かった。
 だが、智咲を発情状態にしようとした担任の目論見は外れた。このときの智咲は発情期予定期間中で、発情抑制剤を服用中だったのだ。暴行を受けるのは回避された。だが、強制発情剤と発情抑制剤は併用は禁忌。意識を失って倒れた智咲は、病院へ救急搬送された。処置が早かったため、大事には至らず。後遺症もないように思われた。——このときは。
「チサ、大丈夫? 熱っぽくなったりしてない?」
 大学構内。次の講義が行われる棟への移動中、文紀は気遣わしげに尋ねる。昨日から同じことを何度問われたことか。「憂鬱なあの日」が近づいているせいだ。
「授業の最中でも、おかしいなって思ったらすぐ言うんだよ」
「うん。わかってる」
「やっぱ今日は休んだ方が……」
「もう大学まで来ちゃったんだから出席するよ。あの日になっちゃったら、三日は休まないといけないし」
「俺も一日目は休むね。友達にノート見せてもらえるように頼んどく」
 その言葉に含みなど何もないとわかっている。でも、言わずにはいられない。
「……ごめんね」
 また迷惑をかけてしまって、ごめん。
 彼は首を振る。
「だめ。謝るのは無しって決めただろ。チサがそういう体質になったのは、チサのせいじゃないんだから」
「うん……」
 オメガなら必ず向き合わねばならない発情期。普通は発情抑制剤を服用して発情期を来させないようにするが、担任教師に薬を盛られた事件の後遺症で、智咲は抑制剤が効きづらい体質になった。直後にはわからず、数ヶ月後に判明したことだ。
 抑制剤で完全には発情期を抑えられず、三日間は軽い発情状態が続く。すでに番がいるので、他のアルファを誘うことはないものの、番には少なからず影響を与える。側にいる限り、文紀は智咲の発情にあてられ、同程度の発情状態に陥ってしまうのだ。二日目、三日目と軽くなってはいくが、一日目は大抵外出できない。色々薬の種類を変え、これでも症状は大分穏やかになった方だ。
 事件の被害に遭ったのは確かに智咲のせいではない。でも、文紀のせいでもない。智咲のこの厄介な体質が原因で、文紀にはずいぶん不自由をさせてしまっている。
 元はといえば、番になったのだって、この体質のせいだ。まだ後遺症があるのかどうか判明する前、智咲が発情期になるタイミングで、偶然同じ部屋にいてしまったせい。訳もわからないまま発情期になり、本能のまま交わりあって、気づけば番になっていた。
 あのとき智咲と番になっていなければ、文紀はずっともっと自由だった。よく声をかけてくるような、『普通』で可愛い女の子と付き合えたはずだし、智咲にばかりくっついていないで、多くの友達といろんな遊びが出来たはず。智咲が心配だからと同じ大学に行かなくたって、彼の成績ならもっとレベルの高いところにだって行けたはず。
 彼が持っていた可能性と、積めるはずだった経験を、智咲は奪った。それを言うと文紀は怒るが、きっとずっと申し訳なさは引きずっていくのだと思う。
「おー、フミくん、いたいた!」
 目的のF号館の前まで来たところで、後ろから男が駆け寄ってくる。
 文紀の肩を叩いた彼の名前は、長谷部(はせべ)、だったか。たしか同専攻で、よく喋るという情報しかない。あとは、野球帽をかぶっていることが多い、というくらいか。いつもの通り、対応は文紀に任せる。
「なに?」
「折り入ってご相談があってね」
「うわあ、めんどくさそう」
「そんなこと言わずに。ちょっとこっちへ」
 長谷部は文紀を人通りの邪魔にならないドアの脇まで連れて行ってしまう。智咲も少し距離を取ってついて行った。
 さっそく長谷部は本題を切り出す。
「今日の夜飲み会あるんだけど、人足りて無くてさあ。助けてくんない? 可愛い子集めたって幹事が」
「それって飲み会っていうか合コンだろ。俺、可愛い恋人がいるんで無理です」
「そうなの? ならチサくんどう?」
 存在感を消していたつもりが、急に話を向けられ、びくっとする。智咲が何か返す前に、文紀が即座に反応する。
「駄目駄目! 駄目に決まってる!」
「なんでだよ。フミくんは関係ないだろ」
「チサはそんなフシダラな場所に行っちゃ駄目!」
「お前さあ。自分彼女いるくせに、友達に彼女出来たら嫌なわけ?」
「そういうわけじゃなくて……」
 人任せにしてばかりではいけないだろう。断るくらい自分でしないと。文紀が時間を稼いでくれたので、まともな言葉が出てきた。
「ごめんね、長谷部くん。今日、俺体調良くなくて。それに、すごく人見知りするから、飲み会とか苦手だし」
「えー。どうしよっかなあ。あと一人連れて来ないと先輩にどやされる……」
「俺たちの知ったこっちゃないもんねー。チサ、いこいこ」
「もうこの際彼女持ちのフミくんでもいいです」
「行かないってば」
 文紀はすたすたと建物の中に入っていく。後ろが気にはなったが、もちろん智咲は文紀を追う。「合コンはコミュ障の息の根を止めにかかってくる魔物がいる」と聞いている。そんな恐ろしげな場所に誘ってくるような人からは早くに逃げたい。
「おいこら、戻ってこい!」
 怒鳴りはするもののついては来なかったから、長谷部と次の講義はかぶっていないらしい。
 エレベーターホールが人でいっぱいだったため、三階まで階段を上りながら、文紀は言う。
「……俺もだからね?」
「ん?」
「チサは自分のせいで俺に迷惑かけてる、みたいなことよく言うけど、チサが出来るはずだったことをさせなくしてるのは、俺もだから。お互い様なんだよ」
 智咲が合コンに誘われたのを文紀が断ったことを言っているのだろうか。そんなの、彼が行けないと突っぱねたから智咲に回ってきただけだし、元よりそういう場は苦手で、恋人がいようといまいと断っていた。
 やはり文紀の失った物の方が、はるかに大きいと思うのだ。智咲はもらってばかりだ。でも、これ以上は言わない。彼の気遣いを無駄にしたくない。
「……うん」
「あの日が近づくたびに申し訳なさそうにするの、もうやめるんだよ」
「わかった。ありがと」
 うまく笑えないのを、下を向いて誤魔化した。
 
 
 発情期が来たのはその日の夜中のことだ。寝る前に体温計で測ると熱が上がっていたから、抑制剤はすでに服用していた。発情期の前は体温が上昇するので、もうすぐ来ると推測できるのだ。
 身体が熱くて目を覚まし、ごそごそと布団を抜け出す。素早く、でも音を立てないよう慎重に。文紀は早朝のアルバイトで疲れている。寝かせられるだけ寝かせてあげたい。
 カーディガンを羽織ってベランダに出る。抑制剤が効きづらいとは言え、全く効かないことはない。いろいろな薬を試したおかげで、比較的自分に合うものが見つかり、高校の校内で発情期が来てしまったあの時より衝動は穏やかで、理性も保てる。
 だが、一人だとやはりつらいには違いない。発情期に番から愛されるのを望むのは自然なことだ。身体が勝手に準備を始める。受け入れる場所を潤わせ、口を緩ませ、腹の奥に隠れた女の部分に火をともす。
 涼しい夜の風を浴びながら、深呼吸していると、背後のガラス戸がコンコンと鳴った。仏頂面の文紀が、内側から叩いている。気をつけていたつもりだが、起こしてしまったようだ。中から戸が開けられる。
「寒いのに、何してるの」
「頭冷やしてただけ」
「発情期来たんだろ。布団に濃い匂い残ってるからわかるよ。なんで起こさないの?」
「まだ大丈夫だから。もうちょっと寝てていいよ」
「痩せ我慢禁止。ほら、中に入って」
 彼は手を掴み、中に引っ張り込む。智咲の履物を脱がせ、それをベランダに放り出してから、きっちりガラス戸を閉める。
「そんな匂いさせて、大丈夫なもんか。手だってすごく熱い」
「でも、我慢することも忘れないようにしないと」
「なんで? 俺がいるのに?」
 照明は保安灯だけで薄暗いが、表情がよく確認できなかったって、彼が苛立っているのはわかる。
 彼は頼れと言うだろう。だが、そればかりではいけないのだ。番としてでも、恋人としてでも、平等でなければいけないのに、彼の負担ばかりが増える。
「学生のうちはいいかもしれないけど、社会人になったら、そう簡単に休めないでしょ」
「時間が自由になる仕事に就けばいい」
「そうやってまた自分の可能性を狭めるの? フミにはしたい仕事をしてほしい」
「チサが必要なときに側にいてあげられない仕事なんかしたくないよ」
 両肩を掴まれ、彼の方を向かされる。その手のひらの熱さが、容易く肌の火照りを煽る。心の内まで掻き乱されるようで、駄目だとわかっていながら、つい口に出してしまう。
「俺はフミの邪魔ばっかり……」
「それ、そういうこと、もう言わないでって言ったよね?」
「……ごめん」
「一緒に生きるって決めたよね。いい加減腹括ってよ。番になって二年も経つのに。俺たちは運命共同体なんだよ。俺がチサのために生きるのは、結局は俺自身のためだし、逆もそう。もう何度も言ってるよね?」
「うん……。でもね、俺はフミに幸せになってほしくて」
 呼吸の乱れを抑えきれず、うっすら涙目になる。文紀は一瞬言葉に詰まったものの、続ける。
「……あのさ、ほんとに俺の言ってる意味わかってる? チサが幸せなら俺も幸せなの。チサがつらいと俺もつらいの。だから、俺が幸せになるためには、まずチサが幸せじゃなきゃいけないし、チサがつらかったら駄目なの。ここまで噛み砕いて説明しないとわからない?」
「フミがいい人過ぎて俺なんかにはもったいない……」
「いい人とかは関係なくて……。ああ、もういいよ」
 肩に置かれた手が背に回り、ぎゅっと抱きしめられる。自分では確かめられないが、発情状態がひどくなるにつれ、智咲の匂いは濃くなるらしい。それに呼応して、文紀の匂いも変化する。濃くて甘ったるくて、理性が暑い日のアイスクリームみたいに崩れていく。
 彼の指が涙の伝った頬を拭う。
「……泣かないの。いじめてるみたい」
「違うよ。嬉しくて」
「あんなふうに番になっちゃったけど、俺は後悔してないよ。これまで一回も」
「本当?」
「もちろん。チサは?」
「俺も」
「初めて見たときから、チサのことずっと欲しかったんだもん」
 わざと音を立てて、彼は口付ける。薄い皮膚が触れあい、それだけで、足の爪先まで甘美な震えが走った。
「チサ、すっごく熱い」
「フミもだよ」
「んー、もうだめ、限界」
 唐突に身体が宙に浮く。文紀に抱え上げられたのだ。彼は布団の上に智咲を寝かせると、覆い被さってくる。心臓の音がうるさい。彼も、智咲も。
「いいじゃん、発情期。相手いたらそこまで苦しいものじゃないだろ。楽しもうよ。気持ちいいことだけ考えられるようにしてあげる」
「……うん」
 悩みも葛藤も消えて無くなるわけではないけれど、今は目の前の男の熱だけ感じていよう。ありがとうと言おうとしたが、音にする前に唇にかすめ取られた。