(3)苦悩

 春学期の試験が終わって、夏休みに突入した。お盆の時期に一週間実家に帰ったが、それ以外はコールセンターのアルバイトに励み、夜は陽介宅に泊まるという生活を送った。
 お互い休みが合わせられるときはなるべく合わせ、週に一、二回程度、二人で外に出かける日を作った。買い物、映画、日帰りできる距離の少々遠出の観光、バニバニ以外のライブにも初めて行った。
 アルバイト以外の時間は、気づけばほぼ陽介といた。どちらかといえば、彼の方が伊月を側に置きたがるのだ。それは決して窮屈なわけではなくて、一緒の時間を過ごすのは息をするように自然なことだったので、離れている方が異常であるかのような錯覚をしてしまいそうになる。大学生になって初めての長期休暇を、初めてできた恋人と、伊月は大いに満喫していたのだった。
 高校に比べれば遙かに長い夏休みにも、終わりはくるもの。夏休みの最終週、アルバイトの休みの被った朝。ベッドの中、後ろから抱きついた誰かさんに身体をまさぐられているのに気づき、目を覚ます。
「こら……」
「まだ寝てていいよ。勝手に触って遊んでるから。伊月、寝ててもピクピク反応して可愛い」
「やめろってば」
 口だけで抵抗はしない。寝ている間にすでにパジャマの前ははだけられ、ズボンと下着がずり下がっていた。朝っぱらからいたずらされるのは、何もこれが初めてではない。何度もあったことなので、いちいち驚くことはない。
 首筋にキスをしながら、内股の薄い皮膚を撫で上げられ、彼の腕の中で身を捩る。すでに腹の奥にもやもやとした欲が溜まっている。眠っているのをいいことに、すでに散々愛撫を受けたに違いなかった。
「ねえ、こっち向いて」
 言われたとおり、もぞもぞと回り、彼の方を向く。見つめ合う間も置かず、唇が合わさる。
 彼はキスが好きらしい。夏休みに入って連日お泊まりするようになってからは特に、二人きりになると、ことあるごとにキスばかり。よくも飽きないものだと思うが、「ちゅーはご飯や味噌汁と同じ」だから、何度やっても飽きが来ないのは当然なのだという。
 付き合いたてというのは、これが普通なのだろうか。暇さえあればくっついて、戯れ合って。他の例を知らないからわからないが。
 舌と舌をねっとりと触れあわせながら、尻に手が伸ばされる。すぐ目的の場所を探しだし、指先だけ穴に沈む。寝ている間にいたずらされたせいで、そこはすでに充分な潤いを持っていた。
「伊月は濡れやすいね。すぐとろとろになる」
「昨日もしたから……」
「ずっと濡らしてた? ますますやらしい」
「違う! 反応しやすい状態が続いてるだけ」
「連日だからねえ。ああ、夏休み終わってほしくないなあ」
 彼は中の柔らかな感触を楽しむかのように、ゆっくりと指を出し入れする。中途半端な刺激に焦れて、勃ち上がりかけたものを彼の腹に擦りつける。すると、彼のものも伊月にべったりと接触する。そっと掛け布団の中を覗くと、二人の腹の間に挟まった、艶めいた先端が見えた。——美味しそう、とても。男のこれに欲望を感じるようになるなんて思ってもみなかった。手を伸ばして、緩く握る。
 伊月の中にいる指の動きが止まる。
「ぺろぺろしたいの?」
「したい」
 初めは触ることさえ怖々だったが、やり方を教えてもらい、練習しているうち、舐めるのも口に含むのも平気になった。彼の興奮が高まるにつれ、徐々に匂いが濃くなっていくのが癖になる。
 先に手で扱き始めたが、陽介はちらっとサイドテーブルの時計に目をやると、それを制した。
「非常にありがたいお申し出なんだけど、時間が。これから出かけなきゃなんないだろう」
「えー」
「またしてよ。今は入れさせて。ここ、とろとろになって僕のこと待ってる」
 掛け布団をどけて体勢を変え、上に乗りかかってくる。引っかかる下着を取り払われ、両足が持ち上げられると、どうしたって心拍数は跳ね上がる。
 初めはいつもゆっくりだ。満たされる快感と繋がっているという充足感。足の着かない深みで溺れているのも、このときは気持ちがよかった。

 朝ご飯には食パンとジャム、伊月の実家から送られてきたリンゴを食べる。リンゴの皮を包丁で剥くなどという芸当は二人とも出来ないので、適当に切り分けて皮ごとだ。
 それにしても、一人暮らしの息子にリンゴを十個も送ってくるとはどういうことだろう。一緒に消費してくれる人がいて助かった。
 朝食のあと身支度し、部屋を出る。陽介は鍵を閉めながら、毎回こう確認する。
「忘れ物ない?」
「母ちゃんかよ。大丈夫」
「母さんじゃなくてお兄ちゃんとしての習性かな」
「時々兄ちゃんを強調してくるの何なの」
「頼りがいの演出?」
「効果あるかなあ」
 頼れるというより、口うるさいという方が強いのだが。
 鍵をポケットにしまった陽介は、伊月の腕を掴み、こちらに顔を近寄せる。
「あ、あった、忘れ物」
 やられる、と思った時には遅かった。彼はさっと口づけ、離れる。それもがっつり唇にだ。このマンションにだって同じ大学の学生が住んでいるのに、見られたらどうする。
「もう! ここ、外!」
「いいじゃん、ちょっとくらい。これから何時間もできないんだから」
「我慢しろよ」
「我慢するためのキスだよ」
 起き抜けのいちゃいちゃで充分だろう。まったくどれだけキスが好きなのだか。
 さすがに街中でキスしてこようとすることはなかったが、さりげなく手を握ろうとしたり腰を抱こうとしたりすることはあったので、伊月はいち早くその気配を察知して避けなければならなかった。最近はどちらが早いかのゲームになりつつある。迷惑な話だが、断固拒否するほど嫌ではないのは、大分彼に毒されてきているからだろう。
 今日最初の目的地は映画館であったので、当然のように劇場の中で手を握ってきた。映画はサバンナの動物たちのネイチャードキュメンタリーで、ロマンスの欠片もない内容なのに。
 握って振り払ってを繰り返していては、映画に集中できないので、途中からは諦めて好きにさせていた。手を繋ぐ程度なら、暗いので周りには見えない。
 映画自体は面白かった。選んだのは陽介だ。彼はフィクションよりこういった系統の方が好きらしい。動物園のライオンにはさして興味を示さなかったくせに、スクリーンの中のライオンは絶賛していた。「檻に入れられていない野生だから美しいんだよ」だそうである。
 映画館の入るビルを出て、ランチを食べる予定のレストランへ向かう。ここも陽介が以前から行ってみたかったところだという。
 伊月はバニバニ関係以外だと、あそこに行きたい、これがしたい、というのは少ないので、デートの計画は彼が立てることが多かった。彼が連れて行ってくれるところは大概楽しくて、心の絵日記は夏休みの思い出でいっぱいになった。
 どこに行くのかも重要なのだろうが、きっと誰と行くのかという要素も大きいのだと思う。彼も言っていたけれど、夏休みが終わってほしくない。一緒にいられる時間が減ってしまう。
 肌を突き刺す陽射しの中を移動中、一本路地に入る。そこで通りかかった五階建ての古びたビルの前で、何やら人だかりができていた。集まっているのは二十人程度だ。
「なんだろ」
 気になって足を止める。話題の店に行列ができているという感じではない。列を作って並んでいるわけではなく、ごちゃついていて、ほとんど皆がハラハラとした表情で上を見上げている。伊月も見ると、屋上に人影があった。若い女性のようだ。
「飛び降りるって騒いでるみたいですよ。今さっき警察の人が来て、説得してるみたいです」
 近くにいた三十代くらいの女性が教えてくれる。彼女の視線から、陽介に対して話しているのがわかった。わずかに媚びを感じるのは思い過ごしではないだろう。どこにいたってほいほい女性が寄ってくるようだ。
 しばらく固唾をのんで屋上の状況を見守っていると、柵の外に出ていた女性が、警官に抱きかかえられるようにして内側に引っ張り込まれるのが確認できた。どうやら決着したらしい。野次馬は口々に「よかったねえ」などと言いながら、散り散りになっていく。
 陽介はハンカチで額の汗を拭いた。
「あっつ。ついつい見ちゃってたなあ。早く涼しいとこ入ろ」
「……うん」
 レストランに向かって歩き出す。日常は再び動き出したが、伊月はあの女性のことが気懸かりでならなかった。
「あの人、何があったのかな」
「さあ。男に振られたとか? 野次馬の中にやたらおろおろしてる男いたしね」
「死にたくなるくらい好きだったのかな」
「どうだろうね。何にしろ迷惑な話だよ。あれだけ人通りの多いとこで飛び降りるとか」
「そんなこと考えられなくなるくらいつらかったんだよ、きっと」
「えらく同情的だね? 自殺しようとするやつなんて馬鹿だよ」
 例えるなら、いきなり後ろから殴られたぐらいの衝撃があった。
「馬鹿って……。死にたくなるくらいつらいってよっぽどだぞ。それを馬鹿って」
「だって馬鹿だろう」
 冷たい、突き放すような物言いだった。信じられない思いで彼を見つめる。
 陽介は伊月に姉がいたことは知らない。彼から慰めてもらうために姉を利用するのは嫌だったから、言わなかった。だが、姉のことを言われている気がした。
 姉だって生きたかったはずだ。死を選んでしまったのは、生きることがそれ以上に苦しかったから。陽介がひどく薄情な人間に思えてしまう。
「どうかした?」
「……別に」
 あんなに楽しかったはずなのに、その後は全てがつまらなく思えてしまった。

 夏休みが明け、数日経った。休暇中、性的には乱れた毎日を送っていたものの、アルバイトで早起きしていたので、すんなり学生生活に戻ることができた。
 講義終わり。だらだらと片付けをする伊月の横で、瀬上は黒板の板書を書き写すことを諦め、スマホのカメラで撮影し始める。
「なあ、伊月さん。俺、途中からは爆睡しててさあ。後でノート見せてくんね?」
「えー。夏休み気分抜けてなさ過ぎだろ」
「二ヶ月くらいあったのに、たった何日かで抜けるはずないだろ。土日ですっかり元通りだわ。ああ、月曜日嫌い」
「お前、履修科目も全然考えてないよな。今のところ俺と同じの受けてるだけ?」
「もう伊月さんに任せちゃう。面倒くさーい」
「ちゃんと自分で考えろよ。ほら、早く昼飯行くぞ」
 自分の荷物はリュックに詰め終わったので、いまだ机の上に筆記具を散らかしたままの瀬上を急かす。彼はペンケースを開けながら、立って作業を監視する伊月を見上げる。
「なあ、夏休みに何があったんだよ」
「何がって?」
「お前さあ、髪型変わったし、服の趣味も変わったし、すごい垢抜けたって女子に言われてたぞ」
「そうか? 都会の散髪屋と服屋に行くようになっただけのことだろ」
 夏休み中、陽介と行動を共にすることが多かったので、デートの途中に美容院へ一緒に立ち寄ったり、服を選んでもらったりしていた。ファッションにこだわりは一切ないため、アドバイスを素直に聞き入れていると、素敵になった、可愛くなったと誉めてもらえるのが嬉しかった。
 だから、瀬上の言うことはあながち間違ってはいない。
「やっぱ恋の力?」
「なんだそれ」
「教えてくれたっていいじゃん。付き合ってる人とはその後どうなの? 俺、誰にも言わないからさ」
「そんなやついないよ。俺は今も昔も清香ちゃん一筋なんだ」
「えー。俺ってそんなに信用ない?」
 陽介の誕生日の日、迂闊なことをぼろぼろ喋ってしまったからだろう。ここは白を切り通さなければ。オメガ好きで有名だという陽介と付き合っていることがバレれば、きっと伊月もオメガだと思われる。
 瀬上が余計な詮索に夢中で片付けが進まないため、かわりに伊月がやり始めたところ、ポケットの中のスマホが振動した。確認すると、新しいメッセージの通知だった。
「彼氏から?」
「いないってば」
 否定はしたが、送信元は陽介だ。『今日うち来れる?』とある。アルバイトはあるが、終わってから行けないことはない。しかし、こう返信した。
『ごめん。バイトで遅くなるし、課題で忙しいから無理。』
 すぐに返信があった。
『課題なら手伝ってあげる。そっち行こうか?』
『自分でやらなきゃ意味ないだろ。とにかく今日は無理。また今度。』
『今度っていつ?』
 そこで返信をやめる。いつなんて、わからない。
 あれからずっと引っ掛かっている。「自殺しようとするやつなんて馬鹿」と言い切った彼の言葉が。苦しむ人を容易く切り捨てるかのような、あの冷たい一面が彼の本質なのか?
 伊月に対してはいつだって優しかったが、あの言葉が頭をよぎり、一緒にいても落ち着かず、もやもやが溜まっていく。ここ一週間ぐらい、誘いを断り続けてしまっていた。学内でも会わないよう気をつけている。秋学期は一緒になる科目はないようで、顔を合わせないことはそう難しくなかった。
 あからさま過ぎるという自覚はある。陽介だって何かおかしいとは思っているはずだ。でも、このもやもやを彼に何と説明すればいいのだろう。姉のことを話して、あの発言が嫌だったことを正直に言うか? そんなことをしたって、彼の発言が消えるわけではない。そこで急に「やっぱり馬鹿じゃない」と意見をひっくり返されたって信用できない。
 大切な姉のことが胸の内にあるだけに、下手なことを聞いて下手な答えが返ってきたら、きっとこちらも向きになってしまう。喧嘩になるのは嫌だ。きっと時間を置けば、もう少し冷静になれるはず。冷静になってから話をしよう。時間がほしい。

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