(3)苦悩

 いったん思考がネガティブになると、努めて意識せずにいようとしたことまで表面化してくる。夏休みの前、動物園でデートしていたときのことだ。陽介は「将来いっぱい子供がほしい」と言った。
 以前彼から、伊月とは運命の出会いで、番になるつもりがあるというようなことを告げられた。あれ以降聞いていないが、今もそのつもりだとすれば、「いっぱいの子供」を産むことを、彼は伊月に求めるわけだ。伊月は遺伝子異常の欠陥オメガで、ちゃんと子供を持てる身体かどうかもわからないのに。医師からは「発情期があるということは妊娠能力があるということだが、通常のオメガより妊娠率は低いだろう」と言われている。
 この事実をいつまでも隠しておくわけにはいかない。言えばどうなるだろう。手のひらを返したように、伊月にも冷たくなるだろうか。
 性別変更の必要があると知らされたとき、自分が産む方の立場なのだということが嫌でしょうがなかった。だが、今は産めないかもしれないことが悲しい。なんておかしな話なのだろう。
 暗い顔で黙り込んでいると、瀬上に心配されてしまった。
「……彼氏と何かあった?」
「いないっつってんだろ。しつこいな」
 愛想なく返す。
 ようやく片付け終わった瀬上と、教室を出た。昼食はいつも通り、学内で最安値の食堂、ビッグ・マミーで取ることにする。
 そういえば、財布の中にいくらあっただろう。しばらくATMで下ろしていなかった。足りるだろうか。確かめておこうとズボンのポケットを探る。——だが、ない。左右どちらのポケットにも。
「……あれ?」
「どうした?」
「財布がない」
「よく探してみろよ。鞄の中は?」
 廊下の端に寄り、がばっとリュックを開ける。底まで手を突っ込んでがさごそしてみるも、見当たらない。リュックのポケットにもない。
「どこかに落としたのかも」
「朝はあった?」
「あったと思うけど……。どうしよう」
「学生課に行ってみろよ。届いてるかもしれないだろ」
「うん。行ってみる」
 なんてドジをしてしまったんだ。今の伊月には面倒事を受け入れる空き容量はほとんどないというのに。
 一人でダッシュして学生課に行く。すると、ついさきほど届け出があったらしい。中身はそのまま戻ってきた。いい人に拾われてよかった。
 昼食は食いっぱぐれるかと思ったが、気を利かせた瀬上が惣菜パンを二つ買ってくれていた。さきほど邪険にしたことを、深く反省した。

 その日、学校終わりで注射のためクリニックに寄って、その後アルバイトをしてから帰ってくると、自宅のドアの前に陽介の姿があった。横になったらすぐに眠れそうなぐらい疲れていたのだが、睡魔は一瞬で吹き飛んだ。
「……あ」
 目が合っただけで胸が騒ぐ。冷たいことを言う人でも、やはり好きは好きなのだ。自分で会うことを拒否したくせに、顔を見られて喜ぶなんて矛盾している。
 案の定、彼は不機嫌そうだった。
「お疲れ様」
「……今日は会えないって言ったのに」
「秋学期が始まったばかりで、そんな大変な課題が出るとも思えないんだけど」
「出たの。忙しいの」
 せっかく来てくれたのだ。歓迎したい思いも強い。だが、陽介は怒っているし、伊月は動揺している。こんな状態ではまともに話ができない。
 突っ立ったまま中に招き入れようともしない伊月に、陽介がさらに苛立ちを募らせていることは明らかだった。
「避けるにしても、もっと上手くやれば? ねえ、僕何かした? 気に触るようなことあったんなら言ってよ。言ってくれなきゃわかんない」
「ごめん……。自分の中で処理しきれないことがあるだけ。しばらく一人で考えたいんだ」
「それって僕がいたら出来ないことなの? なんで?」
「なんででもだよ。喧嘩したいわけじゃないんだ。ほんとにちょっと距離を置きたいだけで」
「距離を置くって理由もなしに……。……もしかして、他に好きな人が出来た?」
「違う! そんなことない」
 今も好きだ。会いに来てくれたことは単純に嬉しい。ただ時間がほしいだけ。それをどう伝えればいいのだろう。まごついているうちに、陽介も表情は険しくなるばかりだ。
「じゃあ何。距離を置くなんて別れる前段階で言うやつだろう」
「別れたいなんて思ってない。気持ちの整理が付かないまま下手なこと言って、喧嘩になりたくないんだよ。少しだけ待ってほしいだけなんだ」
「少しだけっていつまで?」
「……わかんない」
「は? いつまでかもわからず待てって?」
「じゃあ、一週間。……駄目か?」
「長すぎ。もうすでに一週間待ってる」
「お願い」
 同情を誘うように上目遣いで見上げる。会うことを断られても伊月をここで待っていてくれた彼の愛情を利用する、狡い方法だ。しかし、他に思いつかないので、咄嗟にやってしまった。
「……わかった。でも」
 肩を掴まれ、背をドアに押しつけられる。強引に唇で唇を塞がれた。伊月の好きな甘い匂いは、舌が痛くなりそうなくらい苦い匂いに浸食されている。
 ごめんなさい。少しだけ待って。それまでに話せるようにしておくから。
 額同士をくっつけて、彼は言う。
「他のやつにこういうことさせたら、刺し違えてでも相手のやつぶっ殺してやる」
「……物騒だな」
「本気だから」
「うん……。ごめん。我儘言ってごめん」
「僕のものだって名前でも書いておいてやりたいよ」
 陽介がそうしたいなら、そうしてくれて構わない。伊月が答える前に、彼は伊月から離れ、背を向け、それから一度も振り返らなかった。階段を下りる靴音が、やけに高く響いた。

 翌日。瀬上は一限目の講義に遅刻してきた。
 伊月一人で二限目が行われる校舎に移動している途中、とある男に話しかけられた。
「あの……、君はもしかして」
 振り返ると、縁の太い眼鏡をかけた、スーツ姿の若い男がいた。どこかで見たことがある。いつ、どこで——。ごくごく最近というわけではなく、数ヶ月前、確かこうして声をかけてくれた人がいた。
「……あ、あのときの!」
 突然発情期になったとき、親切に助けてくれた人だ。駅の医務室まで伊月を運び、緊急抑制剤を注射してくれた。連絡先を書いたメモはもらったものの、あれからバタバタしてお礼の電話もしていなかった。
 深く頭を下げる。
「あのときはありがとうございました。ごめんなさい。助けていただいたのに、何のご連絡もしないで」
「いや、いいんだよ。連絡先を渡したのは、何か困ったときに頼ってくれたらって思っただけだから。あれから大丈夫だった? ずっと気になってたんだよ」
「そのことなんですけど……」
 恩人には報告しておかねばならないだろう。もうすぐ二限目の講義が始まるが、瀬上も受ける。すでに到着はしているとメッセージが入っていたので、後でノートを見せてもらおう。
「あの、あまり人に聞かれたくないので、ちょっとここでは」
「なら、いい場所を知っているよ。私は仕事の関係でここの教授にお世話になっていてね。ここには三年前から通ってるんだ。構内のことはよく知ってる」
「そうだったんですね。じゃあ、俺より先輩だ」
 彼に案内されるがまま、いくつかの校舎の前を通り過ぎ、別学部の学生用で、伊月が入ったことのない棟の裏手に回る。敷地の端のほうなので、確かに人通りが少ない。植え込みの前のベンチに、並んで座る。
 彼は親しげに話し出す。
「君はここの学生だったんだね」
「そうです。まだ一年で……、葛城です。葛城伊月」
橋口(はしぐち)弘実(ひろみ)といいます。また会えて本当によかったよ」
 それは伊月のセリフだ。日々生きるのにいっぱいいっぱいで、こうして会うまで、大恩人に礼を言うのも忘れていたなんて。
「あの後、病院で変転オメガだと言われて……、そのときはショックが大きかったんですけど、今は性別も変えて、どうにかこうにかやってます。あのとき橋口さんが助けてくれなかったらどうなってたか、考えるだけでも恐ろしい。本当に感謝しています」
「困ったときはお互い様さ。私は変転ではないが、君と同じだからね」
「オメガなんですか?」
「ああ。職場では隠しているけれど、生まれ持った性別は変えられない。色々苦労はあるよ。でも、なんとかなってる。ベータやアルファに混じって働いて、自立して生きていくぐらいの稼ぎはある。だから、まあ、君も自分の性別をそう悲観することもないよ」
 オメガの男性には初めて会った。同じ立場である彼の言葉は、何より強い励ましに聞こえた。
「……ありがとうございます」
「お礼なんて言わない方がいい。私は今から、君を裏切ることをする」
 生真面目で穏やかな彼の表情が、申し訳なさそうに歪む。
「……え?」
 突然のことで、身構える隙もなかった。橋口は左手を伊月の頬に添え顎を上げさせると、唇を触れあわせる。おそらく三秒ぐらいだっただろう、唇が離れていく。
 直後は何が起こったのか理解できず、呆然と彼を見返すばかりだ。
「ごめんね。恨んでくれていいよ。明日からきっと、君はとてもつらい」
「それってどういう……」
「ごめんね。さようなら」
 伊月を残して、橋口は走り出す。驚きすぎて、追おうなどという考えは出なかった。多分、捕まえて問い詰めた方がいいのだろうけれど。
 ハンカチを取り出して、唇を押さえる。
 ——キスされた……。
 なぜ? 欲望などまるで感じない、ただ機械的にくっつけているだけのようなキス。あれに何の意味がある? それに、裏切ることとは、とてもつらいとは、どういうことなのか。
 まだ感触が残っているような気がして、ヒリヒリしてくるまで唇を拭った。
 その日は胸騒ぎがして眠れなかったが、距離を置きたいと自分から突き放した陽介を頼るわけにはいかない。持っているバニバニのライブDVDを片っ端から再生しても、ときめきも高揚感もなく、ちっとも不安を紛らわせてはくれなかった。

 明日からきっと君はとてもつらい。その意味は、次の日大学に行くとわかった。
 二限目の講義ぎりぎりに教室へ入り、瀬上を探す。百人単位で収容できる大教室ではなく、三、四十人向けの小さな教室なので、すぐに発見できた。
 瀬上を囲み、よく講義が一緒になる三人の男女が話をしている。
「まさかあんな子がね。びっくりだわ。清楚系ナントカ的な?」
「びっくりってほどでもなくない? 顔は可愛いからなるほどって感じ。わざと地味ぶってんじゃない」
「しかも、相手堂島先輩だろ? 遊び相手同士ってこと?」
「あの人のオメガ好きってほんとだったのね」
 ——堂島? 堂島陽介か? 知っている名前が出てきて、足を止める。
 瀬上は友人三人のやり取りに、呆れたように割って入る。
「普通に付き合ってるだけじゃねえの? ぎゃあぎゃあ騒ぐほどの事かよ」
「でも、普通に付き合ってて、どうしてこんなものが出回るのよ」
「ただの逆恨みだろ。あの先輩、モテるから。……あ」
 瀬上と目が合う。他の三人からは気まずそうに目をそらされた。
 教室にいる他の学生の視線も感じた。ここに来るまでもそうだった。ちらちら見られているような感覚はあった。——恐ろしい予感がする。
 瀬上が近づいてくる。
「お前、あれ、知ってる?」
「……何のこと?」
「これなんだけど」
 躊躇いがちに、彼は自分のスマホを渡してくる。そこには、SNSの知らないアカウントの投稿が表示されている。
 掲載されているのは二枚のよく似た写真だ。どちらにも伊月と陽介が写っていて——、キスをしている。一枚目が陽介宅のドアの前、二枚目が伊月宅のドアの前。服装からして最近のものだ。おそらく、一枚目が夏休みの終わり頃に映画デートへ出かける時で、二枚目はたった二日前、距離を置きたいと切り出した時だろう。
 誰が撮ったのだ、こんなもの。背筋が寒くなり、スマホを持つ手が震える。しかも写真の下には、「オメガのビッチ注意。アルファの彼氏をお持ちの方は特にお気をつけを」というコメントつき。人目を気にせず外でキスをするというふしだらさが、ビッチという言葉に妙な説得力を与えているように思う。
 伊月に不躾な視線を送ってくる人々は、皆この投稿を見たのだろう。性別がバレた。陽介との関係も。オメガに性別変更したって、平穏な学生生活を送れるのだと、すっかり安心していたのに。
 ついに表沙汰になってしまった。皆こそこそと伊月を見て陰口をたたく。——姉がされたのと同じように。オメガはビッチだと言われてつらいのだと、死後見つかった姉の日記にも書かれていた。
 終わった。もう終わりだ。なにもかも。伊月にはオメガとして後ろ指をさされて生きる人生が待っているのだ。
 瀬上にスマホを押しつけ、教室を飛び出す。
「伊月!」
 怖い。もう一瞬だってこんなところにはいたくない。すれ違う者が全員悪意を持った敵に見えた。
 自宅に逃げ帰ったときには、完全に息が上がっていた。追っ手を恐れるように、しっかりと施錠する。
 この部屋のドアの前で隠し撮りされていた。誰が? 何のために? わからない、心当たりもないから余計に怖い。カーテンもぴっちりと締める。もしかしたら覗かれているかもしれない。
「ここは危ない……」
 写真を撮った「敵」がすぐそこにいる可能性があるのだから。小型のキャリーケースに二、三泊分の荷物を雑多に詰め込み、衝動的に家を出た。

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