(2)拾われ猫の不安な夜

 とある昼下がり。今日も今日とて、リタは主婦業に精を出していた。
 調理の片付けが終わり、洗濯は干すところまで終わり、掃除も終わった。ついでに壊れていた棚の修理もした。とりあえず、今すべきことはこれぐらいか。
 この家の家事全般と、それに加えて日曜大工はリタの仕事だ。アルには、奴隷として売られた先から逃げ出したところを、助けてもらった恩がある。せめて何かさせてほしいとリタからお願いして、住み込みで働かせてもらったのが、そもそもの始まりだ。アルは恩返しなど必要ないと言ってくれたが、何かしなければリタの気が済まなかった。
 アルはまた書斎にこもっている。仕事が立て込んでいるわけではなくて、忙しいときにはできない細々とした案件を処理しているらしい。
 階段の下まで行って耳を澄ませ、まだ下りてきそうにないのを確認する。
「よし、今のうちに……」
 台所の隅に隠してある木箱を出してくる。そこには様々な大きさの木材とナイフ数本が入っていた。すでに作業に取りかかっている、円柱型に荒く削り出した木材を選び出す。片手で持てるサイズではあるが、まだまだ重いので、軽量化しなくては。
 丸椅子に座り、背を丸め、ナイフで形を整えていく。
 アルに内緒で何をしているかと言えば、張型二号の製作である。洗うと乾くのに時間がかかるので、予備用だ。今あるのとは大きさと形を変えてみようか。
「あんまりでっかいの突っ込みすぎて、ガバガバになっても嫌だしなあ……」
 締まりがいいのが気持ちいいという。一人遊びしすぎて、まともにセックスができなくなってしまうのはいけない。
「やっぱ細めにしとこ」
「それがいいね」
「長さは……」
「全部突っ込まなきゃいいんだから、長めにしといたら」
「そうだね。……て、え?」
 振り向くと、背後にアルが立っていた。夜中にお化けと遭遇したら、きっとこんな感じの驚きなのだろう。
「わあっ!」
 耳と尻尾を立てて椅子から飛び上がったところを、アルに支えられる。
「危ないなあ」
「なんでいるの!」
「なんでって、そりゃ僕の家だからね」
「これはその、あれだから。人形的な置物的なあれだから」
 製作途中の作品を木箱にポイと放り込む。ナイフもケースに入れて仕舞う。
 アルは呆れたように木箱を見て言う。
「いや、結構大きな独り言聞こえてたからね?」
「うぅ……。洗い替えがあるといいかなって。だめ?」
「駄目というか……。そんなのが何本も必要なほど、したくてたまらないときがあれば、僕のとこに言いに来なよ。忙しそうに見えたって、時間取れることあるよ」
「でも……、一回したって、もっともっとってなっちゃって、いっぱいいっぱいほしくなるんだもん。忙しいときは何回もできないでしょ? なんでこんなに性欲強いんだろ。獣人だから? でも、前はこんなんじゃなくて」
 故郷にいたころは、今から考えると信じられないほど清らかで健全な日々を送っていた。同い年の友達が、年上の恋人と湖畔の小屋で初めての一夜を過ごした、なんて噂話を聞いただけでも耳を塞ぎたくなるほど恥ずかしかったのに、今では自分で使う張型をせっせと作るほど擦れてしまった。
 アルは出会ったころの純粋なリタが好きなのだとしたら、性欲を持て余しているリタの現状を知って、愛想が尽きたりしないだろうか。
「わかったわかった」
 しょげて俯くリタの頭を、彼はよしよしと撫でる。撫でられるのは好きだ。できれば耳の後ろの方をもっと——。
「どうすればいいか、僕も考えるから」
「こんなくだらないことでアルを悩ませたくない……。仕事に集中してほしい……。嫌われたくない……」
「前も言っただろう。エッチな子は好きだよ。大丈夫」
「アルー」
 椅子から立ってぎゅっと抱きつく。上目遣いでキスをねだると、軽く唇同士が合わさった。
「ねえ、今日の夜は……」
「ああ、ごめん。ちょっと出かけてくる」
「え、夜に?」
「うん。晩ご飯食べてから行く。今日は先に寝てて」
 そんなこと、リタは聞いていない。これまで、日中にアル一人で出かけることはよくあったが、いつも日が沈むまでには帰ってきてくれた。
 わざわざ夜に、なんて、怪しい匂いがする。ものすごく匂う。
「誰かと会うの?」
「うん。実は、前の職場の人に、戻って来いって言われてるんだ。何度も断ってるんだけど、しつこくてね。一度きっちり話をしておこうと思って」
「前の職場って? 何の仕事?」
「今と同じような仕事だけど、書く内容が違った。書きたくないものをたくさん書かされたから、嫌になってやめたんだ。でも、彼らは僕の書くものをまだ必要としているらしくてね。戻ってきてほしいんだって。戻らないけど」
 アルが噓を言っているようには思えない。仕事の話をしに行くなら、我が儘を言って邪魔をしてはいけない。
「そうなんだ……」
「心配?」
「うん、まあ……。会うの、女の人じゃない?」
「男だよ。女性と二人が嫌なの? 僕が女性と付き合えない(たち)なのは知っているだろう」
「でも、夜に二人っきりはやだ。その男の人ってどんな人? 可愛い?」
「髭面でいかつい五十絡みのおじさんだよ。多忙な人だからね。昼間は時間が取れないんだって」
「……まあ、それならいいかなあ」
 アルはリタによく可愛い可愛いと言うから、おそらく可愛らしいタイプが好きなのだと思う。可愛くなくて親世代の年の人なら、心配ないだろう。——多分。
 元奴隷と恩人の関係を超えて恋人になってからも、リタには心のどこかに不安がある。今の関係は、リタの猛アタックで手に入れたものだから。
 初めに好きになったのはリタの方だ。言葉の通じない異国で、唯一リタを助けてくれた人。それだけではなく、恩返しをするという名目で側にいることを許してくれて、色々なことを教えてくれる人。
 戦争で親を亡くし、孤児院で育ったリタにとって、冷たい外の世界で自分のためにこんなにも何かをしてくれる人に出会ったのは初めてのことだった。ごく自然に、それが運命であるかのように、リタはアルに恋をした。それでも、恋人になれるなんて、その時は思っていなかった。
 転機は、何かの話の流れで、結婚はしないのかとアルに聞いたときだ。「無理だと思う。僕は男としか付き合ったことないから」と彼は言っていたのだ。ならば、自分にもチャンスがあるかもしれない、と舞い上がったリタは、その日から押して押して押しまくった。
 家事を完璧にこなすのはもちろんのこと、隙あらば好きと迫り、寝床に忍び込むことさえした。アルが全く怒らず、困った顔をするだけだったから、どんどんエスカレートしてしまったのだ。
 たび重なる攻防の末、アルが根負けし、恋人の地位をもぎ取った。
 大事にされているとは思うが、リタを可哀想に思って、恋人ごっこに付き合ってくれているだけなのではないか、と不安になることもある。
 アルの着古されてよれよれになったシャツを握る。
「遅くなるの?」
「話は長くなるかもしれないけれど、朝帰りになるとか、そういったことはないと思うよ。向こうだって仕事があるだろうし」
「なるべく早く帰って来て」
「うん。そうする」
 リタを落ち着かせるように、しばらくそのまま抱っこしてくれていた。

 近所の食堂で共に晩ご飯を食べた後、アルは出かけていった。
 先に寝ておくように言われていたが、そわそわして眠れない。張型二号を作って待っていようか。いや、寝る前に木くずだらけになりたくないので、やめておこう。
 自分の寝室のベッドでごろごろする。一人遊びをすれば眠くなるだろうか。ちょうど張型一号も乾いていて、いつでも使える状態だ。でも、アルが今何をしているかが気になりすぎて、行為に耽れるとは思えない。
 アルが出て行ってから、どれくらい時間が過ぎただろう。月が空のてっぺんあたりに昇ってきているから、もう真夜中近く。あれから随分経ったはず。
 彼は嘘をついていないとは思う。思うけれど、やはり心配なものは心配だ。もしかして、暗すぎて道に迷っているとか。
「迎えに行こうかな……」
 そうだ。迎えに行こう。それがいい。
 簡単に着替えを済ませて、念のため耳と尻尾は隠し、ランタンを持って家を出る。
 話し合いをするのだから、どこか店に入っているだろう。まずはアルの馴染みの飲み屋に行ってみることにした。
 誰とも会うことなく、静まり返った街を駆け、二つ隣の通りにある飲み屋にたどり着く。
 窓の外から店内を確認すると、近所のおじさんたちで賑わっているようだ。だが、見える範囲ではアルの姿はない。
 さて、どうしたものか。店内に入ってみてもいいだろうか。もうこういう場に出入りしてもいい年齢なのだが、獣人は人間からどうも若く見られてしまうようで、以前、別の飲み屋で「子供は来るな」とつまみ出されたことがある。
 悩んで店の前を行ったり来たりしていると、店の扉が開く。咄嗟に、飲み屋と隣の建物の間に隠れた。悪いことをしているわけではないのだが、アルの様子をこっそり探りに来た引け目からだ。
「あ……」
 なんというタイミングか、開いた扉から出てきたのはアルだった。
 後ろにもう一人続く。店の入り口に掲げられた明かりに照らされ、髭面のおじさんであることがわかる。小山のような大男で、ものすごく強そうだ。あの人が前の職場の人だろうか。
 早足で立ち去ろうとするアルに、野太い声で何事か話しかけている。リタはこの国の言葉にはまだまだ不慣れだから、早口でよく聞き取れない。かろうじてわかったのは、待て、従え、戻って来い、共に守る、……には行くな? アルは頑なにそれを突っぱねている。
「……よかった」
 本当に髭のおじさんで。あんなに優しくてリタを甘やかしてくれる人が、外で逢い引きなんかするはずはないのだ。何を心配なんかしていたのだろう。どうかしていた。
 そのとき、強い風が吹いて、ランタンの火が消えた。彼らの話し合いはもうしばらくかかりそうだし、先に帰っていよう。
 満月の夜だったこともあり、どうにか迷わず帰宅できた。
 再び家着になり、自室のベッドに潜り込む。今なら安心してぐっすり眠れそうだ。アルが帰ってくるまで、待っているつもりではあるが。——いや、寝ていた方がいいか。こんな時間まで起きていたら、アルを疑って、彼の帰りを今か今かと待ち構えていたようだ。
 寝ていよう。疑われるのは、誰だって気分が悪いだろう。
「疑ってごめんなさい……」
 小さく呟いて、目を閉じる。うとうとしてきたころ、玄関のドアが開く音が聞こえた。敏感に耳が反応する。
 床が軋む音。階段を上る音。廊下を歩く音。それがこの部屋の前で止まる。ドアがノックされて、少ししてから開く。リタは寝たふりをして、起き上がることはしない。
「……リタ」
「……」
「起きてるんだろう。さっき飲み屋の前にいたね」
「…………バレてた?」
「バレてた」
 目蓋を上げると、ベッドの脇にアルがいた。気まずくて、リタは鼻まで毛布を被ったままだ。
「僕がどんな人と会うのか、そんなに心配だったの?」
「……ごめん。こそこそ探ったりして。すごく反省してる。許して」
「謝るようなことじゃないよ。いいんだ。別に、それは」
 彼はベッドの端に腰を下ろす。その声色は、どこか深刻そうだった。あのおじさんとの話し合いで、何かあったのだろうか。
「どうかしたの?」
「ちょっと話そうか」
「うん」
 毛布から這い出て、アルの隣に座った。
 月明かりが窓から入ってきているが、室内なので、彼の細かな表情まではよく見えない。
「明かり取ってこようか?」
「ううん。いい」
 アルは視線を巡らせ、ベッドが接している壁の窓辺に目を止める。
「ああ、これでいいか」
 窓辺には張型一号が干してある。うっかり隠すのを忘れていた。月明かりを浴びて、お洒落な置物のようにも……見えないか。
 アルはそれに手を伸ばす。
「ちょっと借りるよ」
「え、いや、それは……」
「なかなか握り心地いいね」
 手にした張型を、魔法のステッキであるかのように、軽く一振り。すると、張型の出っ張りの先に明かりが灯る。握り拳大の白っぽい丸い明かりだ。
「うわあ、すごい」
 明かりに手を近づけてみる。全く熱くない。
「このくらい、いくらでも」
 再び彼が張型を振ると、明かりが先から外れ、宙に浮かぶ。また振ると、先に明かりが灯る。振ったら外れる。繰り返すと、部屋中が球体の明かりでいっぱいになった。それぞれが暗がりの中で発光しながら、ゆらゆら揺らめき、卑猥な形をしたものから生まれたとは思えない美しさだ。
「でっかい蛍みたい」
「そうだね」
 これは、ずっと疑問に思っていたことを尋ねるチャンスなのでは? わざわざ見せてくれたということは、聞いてもいいということだろう。
「これって魔術?」
「まあ、初歩の初歩のね」
「アルって魔術師なの?」
「そういう括りにはなるのかな。でも、術を使ってお金をもらっているわけじゃなくて、本業はあくまで物書き」

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