(5)おもいのかたち

 ナジが珍しく午後から休みを取れるという日。ゼノもどうにか早く仕事を終わらせたい、ということで、いつもより大分早く農園へ行って黙々と働いていると、昼過ぎに農園主から帰る許可がもらえた。ナジの提案で、久しぶりに二人で買い物に出かけることにする。
 まずは朝食用のチーズを見たかったので、レレシーで一番大きい市場の食料品ゾーンに足を向ける。引っ越し後は、日々の細々とした買い物はゼノが引き受けていたから、この辺りの店を一緒に回るのは初めてだ。
 いつもは一人で来る場所に二人で来るというだけで胸が躍る。なにも特別なことをしなくたって、こういうことでいい。二人で日常の時間を過ごせることが嬉しい。ベッド以外で側へ寄られることを居心地悪く思っていた時期もあるというのに、自分の変化に驚く。
 しかし、お出かけの浮かれ気分を満喫していられたのはわずかな間だった。小さい店がひしめき合っている中を、人混みを縫って歩いていると、次から次へとナジに声をかけてくる者が現れた。彼の来訪に気づいた、周辺の店の主たちである。
 店主たちは「是非もらってくれ」とナジに商品を渡していき、市場に入って数十歩しか歩かぬうちに、野菜や果物、パン、チーズ、ハムなどの食材で、家から持ってきたバスケットはすぐに満杯になった。その後の貢ぎ物は入りきらないからと断っていたが、バスケットごと食材を渡してきた店もある。結果、ゼノの手もナジの手もすぐに荷物で塞がってしまった。もっとゆっくり買い物を楽しむ計画だったのに。
 なるべく呼び止められないよう、ほぼ小走りと言っていい早足になって、買い物客で混み合う食料品ゾーンからの脱出を試みる。
「……ナジさん、すごい人気。別の市場ですけど、この前一緒に服を買いに行ったときは、こんな感じじゃなかったですよね?」
「この市場は危険なエリアに近いからだろ。ここには最近全然来てなかったから、こういうことになるの忘れてた」
「ああ、自警団の人がよく見回りしてくれてますもんね。そうか、これは日頃の感謝の印ってわけか」
「俺はここの見回りはしてないんだけどな」
「ナジさんは自警団の顔ですもん」
「いつの間にかな。まったく、一気にこれだけの量をもらっても……」
「こんなにいっぱいどうしましょう」
「もらってしまったものは使うしかないだろう」
「食堂に持ち込んで作ってもらいます?」
「家で作ればいい」
「あの、俺、言ってなかったですけど、料理はかなり下手です」
「不器用だもんな。俺はそこそこできるぞ」
「え、ナジさん、料理できるんですか?」
「お前、俺の出身がどこだと思ってるんだ。年長組になると、食事の準備は皆で持ち回りだったろ。今は面倒だから滅多にやらないだけだ」
「そういえばそうか……。ってことは、俺、ナジさんの料理食べたことあるんだ」
「もちろん」
「今日は作ってくれるってこと?」
「全部いっしょくたにして煮るだけのやつだぞ」
「何でもいい。ナジさんの料理っていう感動を噛み締めながら食べたい」
「なんだそれは」
 ナジの手料理が食べられるなんて。同居生活って素晴らしい。
 食料品ゾーンを離れ、店舗が少なく比較的空いている場所に出てから、ナジは歩みを緩める。
「あっちの店にも行きたいんだが……」
 言いたいことはわかる。市場の狭い通路を動き回るには、荷物が多すぎる。両手が塞がっていては、満足に買い物は出来まい。
「荷物見てますよ。重いでしょう」
「悪いな。ちょっと待ってろ。すぐ戻る」
 ナジの持つバスケットも預かり、人の邪魔にならなさそうな、突き当たりの店の脇に移動して、一休みする。ぼうっと目で雲を追っていると、何人かに「あ、ナジさんとこの子だ」などと言って挨拶された。
 レレシー中にナジとゼノの同居の噂が広がった後、他人から以前とは違う扱いを受けることが増えた。知らない人や然して親しくない人に挨拶されるようになったこともそうだし、柄の悪い連中に絡まれる機会がめっきり減った、ということもある。不思議だ、とても。ゼノ自身は何も変わらないのに。彼の影響力はそれだけ大きいのだろう。
 宣言通りナジはすぐ戻ってきた。太陽の光の下にいる彼は、堂々として威厳に満ちていて、惚れ惚れと見入ってしまう。家にいるときの方が雰囲気が柔らかくて、それも好きだけれど。
「もういいんですか?」
「ああ。手ぶらだったらまたどんどん貢ぎ物が来て、断るのが大変なんだ。とりあえず食い物は確保したし、帰ろう」
 もう少しこのお出かけを楽しみたかったが、仕方ないだろう。なにせ荷物が嵩張りすぎる。
 帰路につくことにし、歩き出す。
「探しもの、見つかりました?」
「めぼしいものはなかったよ」
「それは残念でしたね」
「みすぼらしいくらいでいいとはいえ、何でもいいわけじゃない。あとサイズも難しいな。指にぴったり嵌まるものじゃないと落とすから。ありそうでなかなかないんだ」
 指に嵌まるもの、ということは——。
「え、ああ、指輪のことですか?」
「そうだ。言い出した方が探さないと」
 小指に巻きつけた髪の毛のかわりに指輪をつける、以前の彼の提案だ。その件についてあれから何も告げられていなかったけれど、探してくれていたのか。
「小指につけるなら女物でもいけるんじゃないですかね。女性の小指用じゃなければ男でも入るのあると思いますよ。なるべくシンプルなやつにすれば目立たないし」
「それもチェックはしてるんだが、どれもこれもしっくりこない。もう一から作らせるしかないのか」
「また行商に出た時にでも探すっていうのは?」
「当分ないぞ。ゲオルトの奴隷商人の件があって、今はあまりレレシーを離れられないんだ」
「いつでもいいですよ。そうやって、俺とのこと真剣に考えてくれるのが嬉しいです」
「お前がよくても俺が嫌なんだよ。やるべきことをやらないまま残しているのは気持ち悪い」
「うーん、なら俺の方でもあたってみますね。ナジさんより時間があるから」
「そうしてくれ」
 まずは仲間に売っていそうな店を聞いて情報収集からだろうか。髪の毛を結んでくれたときも舞い上がるほど嬉しかったけれど、お互いに指輪を身につけるというのは、目に見える繋がりが出来て安心できる。
 どんな指輪が最適か、ナジが語るのを聞きながら、あちこち継ぎ接ぎされたように入り組んだ路地を進む。家までの最短ルートはしっかり頭に入っているので、道を選び間違えることはない。
 今にも崩れてきそうな建物の壁に挟まれた、薄暗いデコボコ道。角を曲がると、子供の姿が目についた。十歳くらいの男の子だ。
 昼間なら子供が一人で遊んでいるのも珍しくないが、場所が悪い。彼が入っていこうとしている裏路地、あれより先は大人でも注意が必要な、いわゆる「危険なエリア」だ。
 レレシーでは、安全なエリアと危険なエリアが隣合わせに存在している。危険と言っても昔ほどではなく、強盗による殺人が起こるとか、薬物中毒者の遺体が道端に転がっているとか、そんなことはもう滅多にないらしいが、スリや恐喝は日常的だし、ときに誘拐もある。
 人手の問題があり、自警団だけでは充分に目が行き届かない場所もあって、彼らに守られた安全なエリアで一般住人は生活している。大人でさえそうなのだから、子供がその庇護の外に出るなど、自ら犯罪の餌食になりに行くようなものだ。
「ナジさん、あの子……」
「何やってんだ、あいつ。行っていい場所と悪い場所も知らないのか。この辺の子供じゃねえだろ」
「止めなきゃ」
「ああ」
 ナジは荷物を置いて走って行く。彼の分の荷物も持ち、その後を追う。
 男の子はすぐに捕まり、軽々と抱え上げられた。
「おいこら、死にたいのか」
「うわあ、なんだよ! 放せ! ひとさらい!」
 じたばた暴れるが、当然ナジはびくともしない。
「阿呆。ここから先はガキが行くとこじゃねえんだよ。親に教わらなかったのか」
「親なんかいない。ちっちゃいときに死んだ」
「てことは、孤児院のやつか?」
「そうだけど、それが何だよ」
「どうせ外出許可出てないよな。脱走してどこに行こうとしていた?」
「別に……、ただ、いつも院にいるのは退屈だから、いろいろ探検したかっただけ」
「俺も無断外出しまくってた口だから、それ自体は責めんが、行っていい場所と悪い場所は心得ていたぞ」
「あんたも孤児院にいたのか?」
「そうだ。こいつもな」
 親指で後方のゼノを差す。
「とにかくここを離れるぞ」
 男の子を抱えたまま、そこから充分距離を取り、広い通りに出たところで下ろす。男の子は少しよろめいていたものの、しっかりと立った。
 ナジは子供にもいつもの強い口調で問う。
「名前は?」
「ドビヤ」
「ドビヤ、あそこにいるのは頭のおかしい連中ばかりだ。捕まったが最後、身ぐるみ剥がされた上、土の下に埋められて、一生真っ暗闇から出てこられなくなるぞ」
 誇張して喋ってはいるが、子供にはその方が理解させやすい。気丈に振る舞っていたドビヤも動揺を見せる。
「……そんなに怖いとこなの?」
「そうだ。捕まりたくなけりゃもう行くな」
「行っちゃいけないって知らなかったんだ」
「なら知ろうとしろ。ここは孤児院の外だ。誰も彼もお前を助けてくれるわけじゃない。最低限、自分の身は自分で守れるよう努力をしろ。知ることはその第一歩だ」
「……わかった」
「帰るぞ。送っていく」
「いいのか?」
「どうせ迷ったんだろう」
 ナジはゼノを振り返る。荷物を半分引き取ると、その中をあさり、取り出したリンゴをドビヤに差し出した。
「食え」
「くれるの?」
「余ってるからな」
 成り行きで寄り道することになったようだ。

 壁を這った緑の蔦と赤い屋根が印象的な平屋建て——懐かしの孤児院へ到着した。ドビヤ少年を送り届けたことに、院長からいたく感謝された。皆で探していたらしい。
 院長は子供たちから慕われる物腰柔らかな老婦人で、久しぶりに会ってもあまり年を取って見えず、元気溌剌としていた。
「本当にありがとう。お礼にお茶でもどうかしら。ほら、どうぞ、寄っていって」
 院長にとってはナジも自分の子供同然で遠慮などなく、ぐいぐいと院長室に案内された。
 客二人を椅子に座らせ、彼女はいったん部屋を離れると、お茶セットを持ってくる。ポットを置いた彼女は、はっとして手を打ち合わせる。
「そうだ。ナジに渡さなきゃいけないものがあるの。ちょっと待っていてもらえるかしら?」
 忘れるところだったわ、などと呟きながら、また部屋を出ていく。
 出されたお茶のカップを持ち、ゼノは首を傾げる。
「何でしょうね」
「さあ。野菜のお裾分けとかじゃないのか? さっき裏庭の方で収穫してたぞ」
「もうすでにいっぱいもらったんですけどねえ」
 院長が帰ってきたのは、お茶が半分に減ったころ。彼女は小傷のたくさんついたテーブルの上に古びた小箱を置く。
「ずっと預かっていたのだけど、忘れてそのままになっちゃっててねえ。この間、掃除をしていた時に出てきたのよ」
「これは……」
 ナジは細かく花々が彫り込まれたその小箱を手に取り、天の御使いの羽根か竜の牙を発見したかのように、真剣な驚きの表情で見つめる。
 興味を引かれ、尋ねる。
「何ですか、それ」
「……母の形見だ」
「え、ナジさんのお母さんの?」
「ああ。早くに亡くなった父にもらったものなのだと、あの人はずっとこれを大事に持っていた」
 院長は深く頷く。
「お母さんも亡くなられてナジがここに来たとき、私に渡してきたのよ。見ているとお母さんのことを思い出して新しい生活を始められそうにないから、預かっていてほしいって。院を出るときに返してあげられればよかったんだけど、忘れちゃっててごめんなさいね」
「いえ……、ありがとうございます」
 彼は感触を確かめるようにして小箱の表面を撫でた。
 子供のはしゃぐ声がして、院長は窓から見える裏庭の方へ目をやる。
「ちょうど収穫が終わったところなのよ。ゼノは裏庭で畑仕事、熱心にやってくれてたわよねえ。今日も野菜がたくさん取れたんだけど、持って帰る?」
「いえ、いいです。市場でいっぱいもらっちゃって。二人だと食べきれないくらい」
「そう。噂で聞いたわ。同居しているそうね。ミッシュのところ、うちから出たばかりの子が何人もお世話になってるから、窮屈になっちゃった? ごめんなさいね」
「そういうわけじゃないんです。賑やかなのは好きですから、皆で暮らすのは苦になりません。引っ越したのは、その、ナジさんが来いっていってくれたからで……。ほら、ナジさんの家広くて、部屋が余っているから」
 高齢の院長には、同性同士のナジとの関係は伏せておいた方がいい気がして、最後の部分を咄嗟に付け加える。
 彼女はあの頃の笑顔のまま、にこにこと聞いてくれる。

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