(5)おもいのかたち

「院を出た後も、そういう助け合いの繋がりが続いているっていうのはいいことよね」
「ええ。そう……」
 せっかく上手く流せそうだったのに、ナジが割り込んでくる。
「恋人だからです。同居に誘ったのは。助け合いの繋がりとかは関係ない」
 ——恋人……。
 なぜ彼がわざわざ明らかにしたのかということより、初めてその言葉を言われたことに意識が持って行かれた。そうか、恋人なのか。そうか。
 じわじわと感動がこみ上げてきていたのだが——。
「あら、まあ、そうだったの。てっきりゼノは農園のお嬢さんとだと」
「……何年前の話ですか」
 悪気なくデリケートな話題に触れられ、ひやっとさせられる。横からチクチク突き刺さってくる視線が気になったが、ここは知らんぷりだ。この問題はもう解決済みのはず。
「なんにしろ、伴侶を持つのはいいことだわ」
「まだそこまでのあれじゃ」
「だって恋人同士で一緒に住んでいるんでしょう? あなたたちの年なら早すぎることじゃないわ。おめでとう」
「はあ……」
 恋人同士で一緒に住んだら伴侶、ミッシュと同じようなことを言う。世間ではそういうことになるのか。小指に髪の毛の結びあいもしたし、そうなんだろうな、きっと。全然ピンとこないけれど。
 そもそも伴侶とは何なのだろうと考え始めたとき、院内で独自に鳴らしている鐘の音が響く。夕飯の調理開始の合図だ。
 これ以上の滞在は迷惑になるだろう。ナジと目を合わせると、彼の方から切り出してくれる。
「忙しい時間になりますし、そろそろ帰ります」
「あなたたちの話をもっと聞きたいわ。よかったら、ここで夕飯を食べていかない?」
 院長は引き留めてくれるが、自分たちが混じったら、それだけ子供たちの取り分が減る。遠慮すべきだろう。
 しかし、ナジの返事は逆だった。
「構いませんよ」
「でも、ナジさん……」
「うちの今晩の分にするはずだったものも、使ってもらえれば助かります」
 彼は椅子の横に置いたバスケットを手で示す。確かに、こちらから食材を提供すれば、子供たちの分を奪うことにはならないだろう。二人分より遥かに多い量があるし。
「いただけるならありがたいわ。よし、いつもは子供たちに任せているけれど、今日は私も頑張ろうかしら。出来上がるまで時間がかかるから、少し待っていてね」
「大丈夫です。この後、特に予定はありません」
「よかった。皆に紹介するわね。院を出た後の生活についても聞かせてあげてちょうだい」
 ミッシュ宅にやって来る新入りの面倒をよく見ているので、そういうのは得意だ。自分たちだって色々してもらえたおかげで大きくなれたのだから、ゼノも後輩たちのためにできることをしよう。

 夕飯が出来るまでの間、裏庭に出て待つことにする。子供たちは夕飯準備や共有部屋の片付けなどのため室内にいて、ここには二人きりだ。
 夕暮れ時、並んでベンチに座る。数種類の野菜や花を育てる畑と、農具を仕舞っておく小屋、当時よく背比べした木、手作りのブランコや木馬。仲間たちと駆け回った思い出が蘇る。あの頃とそれほど変わっていないはずなのだが。
「もっと広く見えてたんだけどなあ。こんな小さかったんですね」
「そうか? 俺は当時から小さい狭いと思っていたぞ。早く外に出たかった」
「無断外出しまくってたんでしたっけ」
「学ぶべきことは外にあったからな。こそっと行ってこそっと帰ってくるのは誰よりも上手かった」
「そんなこと考えてみたことなかったなあ」
 院の中で仲間たちと平和に楽しく暮らせれば、あの時はそれでよかった。外の世界に出たときに伸し上がれるかどうか、こういうところで違いが出るかもしれない。
 ナジは若者たちのボスで、住人たちに頼られる存在になって、ゼノはその他大勢の一人。院を出た後、完全に立場は分かれた。リタ探しのためゼノが彼に助けを求めるという、あの切っ掛けがなければ、きっとまだミッシュの家にいて、新入りたちと共に生活していたはず。彼のことは遠巻きに見るだけで、こうして隣に並ぶことなんて一生なかっただろう。
 ふと、手を握って繋ぎ止めたい欲求が湧いたが、ナジは膝の上の小箱に手を置いていて、握りにいくのは憚られた。かわりに尻尾を尻尾に近寄せてみると、あちらから絡ませてきた。
「どうした」
「懐かしさと切なさって、近いところにある感情だなって」
「腹が減って感傷的になっているのか?」
「何ですか、それ」
「腹が減ったら悲しくなるだろ。ガキのころは」
「俺はもう子供じゃないですよ。確かにお腹は減ってますけど」
 生温かい風がするりと吹き抜けていく。すり寄って抱きつきたいのを我慢して、少しだけ距離を詰める。
「ナジさんの手料理はまた今度ですね」
「そうだな。院長がああ言ってるのに断りづらくてな。母の形見を保管してくれていた恩があるから」
「よかったですね。それ、戻ってきて」
「ああ。俺自身、預けたことさえ忘れていたから、院長が気づいてくれなかったら、もう二度と目にすることはなかったかもしれない」
「いいなあ、うらやましい。俺、母親の顔すら知らないですよ。俺を産んだ時に亡くなったらしいんで、当然なんですけどね。ナジさんは覚えてます?」
「亡くなったのは俺が五歳の時だから、おぼろげには」
「どんな人でした?」
「優しい人だった、と思う。朝から晩まで働きづめだったから、そんなにたくさんの思い出があるわけじゃないが。ああ、二人で食べた夕飯が美味かったのは覚えている」
「大好きだったんですね」
「当たり前だろ。母親なんだから」
 母親の記憶があるのは羨ましい。だが、大好きな人を亡くした記憶があるのは、とてもつらいことだろう。そもそも思い出がないゼノと、どちらが幸せなのだろう。
 ナジは手元の小箱を開ける。入っていたのは二つの指輪と三本の首飾り。
「子供の時は、キラキラしてすごく高価なものに見えたんだけどな。今見たら、売ったって一回分の飯代にもならないくらいの安物だとわかる。まあ、駆け落ちで、着の身着のまま逃げてきたらしいから、これを贈った父親も金がなかったんだろうな」
「お母さんの宝物ですね」
「ああ。大人の女がつけるにしてはみすぼらしくても、彼女にとっては、死んだ夫との思い出が詰まった価値のあるものだった」
 ナジは箱から指輪の一つを取り上げる。
「手を出せ」
「なんですか?」
「いいから」
 掌を上にして出すと、指輪を置かれる。白っぽい透明の小さな石がついた、銀色の輪っか。
「つけてみろ」
「……え、俺が?」
「女物でもシンプルなやつだったらいいんだろ。サイズは大きめだから嵌まるんじゃないのか」
「でも、これはナジさんのお母さんので」
「俺がいいって言ってんだからいいんだよ。さっさとしろ」
 躊躇いがちに左手の小指に嵌めてみると、測って作ったかのようぴったりだった。
「なかなかいいじゃないか」
 ナジももう一つの、青い石のついた銀色の輪に小指を通す。
「うん。ちょうどだ。これにしよう」
「ナジさんがつけるのはいいんですけど、俺は……」
「遠慮するな。やる。それとも、気に入らないのか?」
「そんなことないです。素敵だと思います」
「ならいいだろ」
「本当にいいんですか? ナジさんが後悔しないか、それが心配で。こんな大事なもの、簡単にあげちゃって……」
 子供にリンゴをあげるのとは訳が違う。替えのきかない大切な人の形見だ。
 ナジはゼノの左手を取って指輪をなぞる。
「俺のことはいい。お前にその覚悟があるのかどうかだ」
 覚悟——、これをつけて彼と生きる覚悟、ということだ。ナジが望む限り、ゼノはそうしたいと思っているし、そうすべきだとも思う。
「ありますよ、あります」
「俺もある。これで何の問題が?」
「……ないです」
「だったらつべこべ言うな」
「ありがとうございます。嬉しい」
「最初からそうやって受け取ればいいんだ」
「大事にしますね。農作業をしているときは外しとかなきゃ傷つくかなあ」
「ずっとつけてなきゃ意味ないだろ。どうやったって傷がつくときはつくから気にするな」
「そうですね」
 これ以上に気持ちのこもった贈り物があるだろうか。ナジの左手に自分の手を重ねる。
「……これだけのことをしてもらって、俺はどう返せばいいんだろう」
「別に何も」
「それじゃあなんか申し訳なくて」
「毎日同じ家に帰ってきて、一緒に飯を食って、同じ床について、仕事で旅に出るときは連れて行って、それ以上望むことはない」
 ああ、そうか。それが伴侶か。一生そうやって生活していく相手。ようやくすっきり飲み込めた。
「……俺もです」
「だったらつべこべ」
「もう言いません。これだけ……」
 きょろきょろしてから、さっと彼の唇にキスをする。
「お礼の気持ちだけでも受け取ってください」
「こんなものか?」
「今のは気持ちの一部です。全部となるととんでもないことになりますから」
「とんでもないって?」
「んー、とにかくすごいんです。ナジさんへの感謝はとっても大きくて」
「それは夜が楽しみだな。そういうのなら歓迎するぞ」
 ナジからもキスが返ってくる。
「もう」
「お前だってした」
「ちゃんと周りを確認しましたよ」
「見られて悪いことじゃない」
 ゼノの頬に掌を添えて、ちゅ、と数回唇を触れあわせる。ここは家の中じゃないのに。
「やだ……」
「何がやだ? 逃げてないくせに」
 そう、嫌ではない。今すごく触れあいたい欲求がある。だから身体が拒まない。抱きしめられることも。
 胸の中に収まって包み込まれることが、こんなにも自然で、こんなにも心を安らがせる。肩に頭を預けると、三角の耳の縁をくすぐられた。
「……恋人って言ってくれたこと、びっくりしたけど嬉しかった」
「誤魔化そうとしてたのがムカついたんだ。堂々としていればいい」
「すぐには無理そうだけど、徐々に慣れていきますね」
 今度のキスは少し長く。彼の腕が回った腰の辺りがぞくぞくして、些細な動きが奥に響く。駄目だ。ベッドに飛び込みたくなってきた。
「そろそろまずいです……」
「キスだけで発情しそう? 目が潤んでてエロい」
「うー」
「最後にあと一回で終わりな。……ん?」
 草が擦れ合うガサガサという音がする。——誰かに見られていたか? 二人同時に音のする方を見ると、植え込みから猫が飛び出してきた。畑の脇を走り抜けていく。
 ナジは舌打ちをする。
「なんだ、紛らわしい」
「びっくりした……。ウィンスの時みたいに見られてたらどうしようかと。子供にあんなところ……、うわあ」
「その割にノリノリだっただな」
「だって、気持ちよくなったら、いろんなことどうでもよくなってきちゃって……。悪い癖だ」
「今更だろ」
 ごもっとも。だが、煽ってきたのはナジだろう。あれ、最初にキスしたのはゼノだから、ゼノが悪いのか? 我ながら大胆なことをしたものだ。
 ナジの手がまだ腰に絡んでいて、離れるべきかどうか迷っていると、バタバタと足音が聞こえてきた。
「ごはんできたぞー!」
 ドビヤ少年が建物の方から駆けてくる。転ばないか心配になる勢いだ。
「院長先生が呼んできてってー!」
「わかった」
 ナジは手を上げて応じ、立ち上げる。ゼノもそれに続くと、彼はこそっと耳打ちしてくる。
「猫に感謝だな」
 まったくだ。あのとき猫が飛び出してこなければ、まだいちゃいちゃの最中だったに違いない。確実に目撃されていた。
 ドビヤはぴょこぴょこ飛び跳ねながら、ナジの側へ寄る。
「なあ、いっしょに食べるのか?」
「ああ」
「わー、今日は兎肉のシチューなんだ! おいしいよ」
「そうか」
「おいもはね、ここの畑で取れたんだー」
 ナジの手を掴み、引っ張って連れて行く。ナジは子供にも懐かれるのか。怖がられるとばかり思っていたが。
 実家とも言える院でわいわい夕飯を食べる時間は、仲間に囲まれて過ごしたあの頃を思い出させてくれて楽しかった。
 もうここはゼノの家ではなくなってしまったけれど、今は新しい家がある。帰る前、院長に指輪をもらったことを報告すると、またおめでとうと言って祝福された。

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