1-(7)依存

【——航】

 太陽の光を浴びながら走るなんていつぶりだろう。
 今朝方、ヨマは仕事で遠方に出立した。これまで一日二日留守にすることはよくあったが、今回は六日ほど帰らないらしい。双子に誘われ庭に出た航は、久しぶりに運動を楽しんでいた。
 ジョギングしたり、縄跳びをしたり、ラジオ体操をしたり。監視付きではあるが、思いきり身体を動かして小さな自由を満喫した。
 鳥籠の中でも案外快適だな、なんて思うのは、大分毒されている証拠だろうか。
 しかし、元気に動き回っていられたのは三日目までだった。四日目、庭に出てみたのはいいものの、なんだか身体が怠い。風邪を引いたのかも。
 庭木に寄りかかりながら、額に手を当て、首をひねっていると、ちょこちょこと双子が寄ってくる。ちょうどいいので尋ねてみることにする。
「体温計ってある?」
「なにそれ」
「知らない」
「だよなあ。病気なんかしなさそうだよな、お前ら」
 そもそも魔族は病気にかかるのだろうか。たとえかかったとしても、すぐに魔術で治しそうだ。
 双子はしげしげと航の顔色を観察する。
「調子悪いの? 殿下にもらった水、ちゃんと飲んでる?」
「水って、なんか1ダースくらい置いてったやつ?」
 出発の日、ヨマは容量1リットル程の瓶を大量に航の部屋に持ってきて、「毎日必ず飲め」と言い残していった。言われなくても水くらい飲む。なぜわざわざそんなことをと思ったものだ。
「そうそう。あれがないと、ぶっ倒れるかぶち切れるかするからね。飲まないと駄目だよ」
「ぶち切れ……? 脱水症が怖いから飲んでるよ。飲んでるけど、普通の水だろ?」
「普通の水じゃないよ。殿下の血が溶かしてある特別製なんだから」
「血? なに、こっわ。そんな味しないぞ。甘くて美味しい水なんだけど」
「それは、君の身体が欲しているからそう感じるってだけでしょ。調子悪いのってあれだよ、初期の禁断症状だよ、多分」
「意識していっぱい飲んどきなね。暴れられたら面倒だ。君なんかすぐに抑え込めるけど、怪我させたら殿下が怒るもん」
「これがそう……なのか」
 魔物の体液を一定以上摂取し続けた者は、それなしでは生きられない身体になるという。摂取が途切れた場合、禁断症状を起こす。説明だけは聞いていたけれど、実際にそれがこの身に起きているということか。
 肩に重い石でも乗せられたように、何だか急に怠さが増した気がする。
「まじかー」
「殿下みたいに力の強い魔族の体液を毎日浴び続けてたら、そりゃあすぐ依存状態も深くなるよねっていう」
「血は精液より効き目あるみたいだけど、あれは飲みやすいようにちょっと混じってるだけからね。量を摂る必要があるってこと」
 自分の身体は本当に変わってしまったんだな。たとえ航を閉じ込めている鳥籠の扉が開いたのだとしても、外で普通の暮らしを送ることはもう叶わないのだ。
 だが、悲しみも焦りも、まるで他人事であるかのように遠くにある。絶望へ追い込まれないための、心の防衛反応なんだろう、多分。それが良いことなのか悪いことなのか、わからない。
 こちらの気も知らず、双子は両サイドから腕を組んでくる。
「ねえねえ、僕たちの濃いの、いる?」
「二人でたっぷり可愛がってあげるよー」
「頸動脈から啜ってやるよ」
「怖!」
「血の方じゃなくてさあ」
「そんなこと言ってると、またあいつに怒られるぞ」
「あ、告げ口なんてしないでよね!」
「怒られるくらいじゃ済まなくなるんだから!」
「なら、この話はもう終わり」
「強くなったよね、君も」
「つまんなーい」
 強くなったのではなく、鈍感になっただけだ。性的な揶揄いを受けることへの不快感も屈辱感も、薄らいでほぼ消えていった。
 なおも纏わりついてくる双子を適当にいなしていると、城の裏手の方から大柄の男がドスドスと歩いて来るのが見えてきた。額から牛のような角の生えた、いかにも戦士という厳つい男で、ヨマ配下の一人だ。
「おい、お前ら……」
 男は双子に声をかけつつ、ちらりと航に一瞥をやり、わんこだ、と呟く。飼い犬という意味で、航は彼らから「わんこ」と呼ばれているらしい。あまり近づきすぎると上司から怒られるためであろう、彼は航とは距離を置いて立つ。
 双子は話しかけられて面倒だというのを隠しもしない。この屈強な男の方が明らかに強そうで、双子などワンパンでノックアウトさせられそうなのだが、立場に上下はないようだ。
「なに、どうしたの?」
「僕たち今楽しくお喋りしてるとこなんだけど」
「にゃんこを探してて……」
「にゃんこって、あの子? もう一人の人間の子? 逃げたの?」
「敷地内からは出られないようにしてるんだが、時々ふらふら出て行って、城の中をうろうろしてるみたいで。まあ、大抵一時間もしないうちに帰ってくるんだが」
「それくらいならいいじゃんって言いたいとこだけど、下手にコウに近づくようなことがあれば問題だからなあ。しょうがないな」
 双子は向かい合って両手を繋ぎ、目をつぶる。二、三秒静止したのち、目を開く。
「二階の東の端っこにいる」
「そうか。助かった」
 男は俊敏に走り去っていく。綺麗なフォームだ。さすが戦士。
 あの男が腕っ節で勝負する派なら、双子は魔術で勝負する派なのかな。
「あれ、すごいじゃん。魔術? 透視?」
「ううん。目じゃなくて、元々良い耳をさらに良くする感じ」
「へえ」
「本気を出したら、もーっとすごいこと色々できるんだよ。これでも超優秀な戦闘員なんだから」
「はは。お前ら毎日城で遊んでるじゃん」
「それは君の警護兼見張り兼遊び相手をするためですー」
「時々城を留守にすることあるでしょ」
「仕事してんの? 外に遊びに行ってるのかと思ってた」
「ひっど! 働いてるよ!」
「バリバリ働いてるよ!」
「はいはい。そうかそうか」
「信じてなーい! あの時なんかはね……」
 双子が延々と自分たちの功績を語るのを、話半分で聞いていた。

 翌日になり、症状がましになるということはなかった。さらに怠く、頭が重い。立って歩くのもしんどくて、庭に出ることなく、朝からずっと自室のベッドでごろごろしていた。
 食事もあまり喉を通らず、あの水をちびちび飲んでしのぐ。肉よりパンよりフルーツより水が旨い。水というより血か。吸血鬼みたいだな。
 今日は双子も留守で暇だ。急な仕事で人手が必要になったらしく、昼前に出ていった。
 ヨマが帰ってくるのは明日。抱いてもらえれば楽になれるのかな。
 ——ほしい、ほしい、ほしいよ……。
 枕を抱え、指を咥えてしゃぶる。偉ぶって飼い主を名乗っているくせに、水だけ与えて放置するなんて。
「ひどい。さいてー……」
 気を紛らわそうと下肢に手を伸ばす。気持ちいいことは好きだ。嫌なことも不安なことも忘れられるから。
 自慰に耽っている間に、寝入ってしまっていたようだ。カタッという物音がして、目を覚ます。夕暮れ時を過ぎてすでに暗く、室内は薄らぼんやりしか見えない。
「誰……?」
 上体を起こし、きょろきょろと見渡す。物音はすぐ近くで聞こえた気がしたのだが、呼び掛けに応えはない。
 今では、夜にこの部屋に入ってくるのはヨマくらい。彼が帰ってくるのは明日のはずだから、物音は航の気のせいかな。それか鼠、あるいはお化けの仕業? お化け……、この古城には出そうではある。この世の全ての恨みを煮つめて凝縮したような、とびきり凶悪なのが。
 せめて一人の時は勘弁してほしいのに。祖父の真似をして、なむなむ……と唱えかけるが、ここで念仏は効かないか。
 布団を頭から引き被っていると、今度は扉付近で物音がした。ドアを開ける音だ。ノックもせずにずかずか入ってくる。おそるおそる布団の隙間から窺う。ベッドの側に立っていたのは、明かりを手にしたヨマだった。正直ほっとした。
「……なんだ、あんたか」
 布団を脱いで座り直す。
「私以外に誰がいる」
「あんたでよかったって話。明日じゃなかったの?」
「お前の具合が悪いと聞いて、早めに切り上げてきてやったんだ」
「それはどうも」
 優しい、と思いかけたが、体調管理も飼い主の責任、みたいなことを言うんだろうな。それなら最初から放置するな、馬鹿。
 彼はサイドテーブルにランプを置き、ベッドに腰掛ける。航の髪を後ろに流し、顔を覗き込んでくる。
「具合は」
「よくはない」
「そのようだな。ゆっくり休め」
 ねえ、それだけ? 冗談だろう。
「……意地悪」
「なぜ」
「なあ、飲ましてよ」
「水か」
「わかってるくせに」
 アイロンの効いた白い襟を掴み、自分からキスをする。唇は開けてくれたので、舌を入れ、口内を舐めて唾液を集める。美味しい、美味しい、もっと。
 彼はふっと笑って小さく息を漏らす。その吐息さえ逃したくないくらい。
「いつもと逆だな」
「まだ……」
「仕様がない奴め」
 雛が親鳥に餌をねだるように、もっと出してと唾液をせがむ。美味しいし、柔らかな粘膜と粘膜の触れ合いは気持ちよくて、身体が次第に熱を持つ。
 ヨマは適当にキスの相手をしながら、手際よく寝間着を脱がせていく。剥き出しの尻を撫でられただけで、背中までぞくぞくした。
「今日は大丈夫、そのまましても……」
「ほう」
 躊躇なく、アヌスにずぷりと指が突き立てられる。
「あ……」
「随分柔らかい」
「さっき一人でしてた、から」
「我慢できなかったのか?」
 くちゅくちゅと浅い箇所を掻き混ぜられる。
「あ、あ、だって、しちゃ駄目だって言われてない」
「そうか。今度から禁止にしよう」
「うー」
 墓穴を掘ってしまった。意地悪なプレイのネタを自ら提供してしまうとは。
 でも、我慢の先には気持ちいいことが待っていると知っているから、きっと従ってしまうんだろう。実に躾け甲斐のある犬だと自分でも思う。
 むくれる航を宥めるように、彼は鼻先に口づける。
「もう入れるか」
「ん、でも……」
 こんなにすぐメインディッシュを食べてしまうのはもったいない。
 皺の出来たシャツを放し、ベッドに這って、彼の股ぐらに顔を近づける。鼻を擦りつけると、頭の芯をくらくらさせるような蠱惑的な匂いがした。ねえ、いいでしょう?
「そっちもか」
「……うん」
「好きにしろ」
 お許しが出たところで、暗い中手間取りながらも前立てのボタンを外し、丁重に取り出す。入れるかと問うてきたくせに、まだ大した反応もしていない。

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