2-(1)年月

【——航】

 時は流れ流れて、囚われてから七年。少年の時代は久しい過去となった。
 年月は様々なものを変えていく。この頃になると、魔族に囲まれた城での生活に、航は大分馴染んでいた。
 この日、朝ヨマを送り出した航は、城の庭の片隅にある物置小屋にて、壁の塗り直し作業に励んでいた。若手の配下、ゼムガと一緒だ。
 配下たちは毎日本業の仕事があるわけではなく、暇な日は城の雑用をやることになっている。航もよくそれを手伝わせてもらっているのだ。
 何もせずだらだらしてばかりでは、人は堕落する一方。忙しく動き回っていると、まともな生活を送れているような気になれる。
 脚立の上で壁の上部を塗っているゼムガは、下部担当の航に指示を飛ばす。
「おーい、そこ、そんなに丁寧にやんなくていいって。適当でいいんだよ、適当で」
「そうなの?」
「どうせこんなとこ、殿下はじっくり見やしないんだから。ぱっぱとやんねえと、雨樋修理もあるんだぞ」
「はいはい」
 先輩には素直に従っておくことにして、刷毛を動かすのを三割増しくらいスピードアップする。
 配下が航に近づくのを、当初ヨマは厳しく禁じていたが、触れたり舐めたり誘ったりという行きすぎた行動がない限り、いちいち目くじらを立てることはしなくなった。これで大分過ごしやすくなった。
 彼らに混じって、城の雑用や掃除などをすることができるようになり、双子以外の配下にも、気軽に会話できる者が何人かできた。ゼムガもその一人だ。得意の縄跳びの技を披露すると、配下たちから好評で、城で縄跳びブームが起こったこともある。
 人間にあんなひどいことをする魔物となんて、絶対に仲良くできないと思っていたのにな。人間を獲物と捉えているときの彼らは恐ろしいが、同じ城で暮らす仲間として見てもらえるようになれば、案外気安いものだ。繊細だった少年は、生きていくために随分図太くなり、些細なことでは動じなくなっていた。
 余暇時間には身体を動かしたり、読み書きはマスターしたため読書を楽しんだり。今はさして暮らしにくさは感じない。異常だと思っていたここでの生活が、すっかり日常に変わった。
 魔族と協力して壁のペンキ塗り。これが今の航の日常。作業に専念したいのに、ゼムガはお喋りだ。
「お前さあ、ここに来て何年だっけ」
「んー、七年くらい?」
「そうだった、そうだった。俺が入ったちょっと後だったからな。二、三年目くらいまでは、自分は明日をも知れない命だ、みたいなこと言ってたけど、ここまで長かったらもう大丈夫そうじゃね?」
「いや……、逆に長くなればなるほど危なくないか?」
 絶対そろそろ飽きられる、と毎年言っているが、なぜか未だにヨマとの関係は続いている。
 所詮他人事か、ゼムガは軽い調子で言う。
「まあ、あんだけイチャイチャしてたら、まだまだ当分いけるいける」
「イチャイチャ言うのやめろ」
「関係長くなってお互いのことわかってるから、面倒がなくて楽、みたいなのもあんのかねえ」
「いや、なんで俺のことそんなに気にすんの? ぱっぱとやんないといけないんだろ。集中しろって」
「何かさあ、お前は人間だけど、こうやってよく一緒に作業してると情も湧くってもんだよ。縄跳び師匠として尊敬もしてるとこあるし。交差二重跳びすげえよ。俺いまだにできない」
「人間を尊敬ねえ。それって魔族としてどうなの」
「どうなんだろ。殿下が今更あっさり別の人間に乗り替えたら、ちょっと軽蔑しちゃうかもってくらいには、お前のこと好きだわ」
「お前のそれさ、気紛れに鼠に餌やりしてたら、段々殺すのが可哀想になってきて、そのまま飼ってる、みたいなのと同じ匂いを感じる」
「あはは。良い喩え。飼ってるのは俺じゃないけどなー」
 笑いながら脚立を降りてきたゼムガは、左に脚立をずらし、その位置からまた作業を再開する。移動しても航とは一メートル以上の物理的距離を保ったまま。
 気安く喋ってはいたって、彼は必要以上に航に近づきはしないし、踏み込んでもこない。ボーダーラインを守っているから、一緒に働くことを許されているのだ。
 やっとお喋りがやんだかと思いきや、彼は上空を見上げ、呟く。
「おお、あれは」
「なに」
「聞こえないのか? ほんと人間って不便だよな」
「だから何だよ」
 その十数秒くらい後に、バサバサという羽音が聞こえてきた。この場所に近づいてきているようだ。この城で翼を持つ者は一人だけ。
「ああ、帰ってきたのか。今日は早いな」
「出迎えに行ってこいよ」
「やなこった」
 ここは敷地の端っこの方だ。城の本館まで行ってまた戻ってくるのは面倒すぎる。
 こっちはこっちで労働に勤しもう、とわずかな残りを塗りつぶしている間も、羽音は大きくなる。
「あれはピンポイントでこの小屋を目指して来てんなあ」
 ゼムガの言うとおり、上空に現れた城の主は、小屋から数メートル先に降り立った。
「お帰りなさい、殿下」
「おかえり」
 先輩を見習って、とりあえず挨拶だけはし、作業を続ける。あとちょっと、あとちょっと。
 だが、先輩はご不満らしく、丸めた手袋が降ってきて、頭に当たった。
「お前、何やってんだよ、行けよ」
「だって、まだ途中……」
「お前の本業、こっちじゃない、あっち! 殿下、用があるからわざわざここまで来てんだろうが。俺が怒られんだよ。行け。さっさと行け」
「わかったよ」
「後で部屋覗き行くから。お勤めがんばれ」
 ニヤニヤと手を振ってくるのに応戦して、舌を突き出す。
「くたばれ、バーカ」
 刷毛と手袋を置き、ヨマの元へ向かった。
 一応駆け足ではあったのだが、彼の求めるタイムではなかったようだ。
「遅い」
「すいませーん」
「あんな雑用は下っ端に任せておけと言っているのに。ペンキまみれじゃないか」
「だって暇すぎるから。風呂入って着替えれば、こんなの気になんないし」
 そのための作業着だ。
 顰め面のまま、彼は航の手を取る。
「行くぞ」
「どこに」
「風呂だろう」
「……一緒にってこと? えー」
 風呂ですると、のぼせるから嫌なのだが。それに少し休みたい。
 有無を言わせぬ態度は相変わらずで、彼は航を軽々と抱き上げて飛び立つ。主寝室のあるフロアの、開いている窓から廊下に入った。
 ここが何階なのか、未だに航はよくわかっていない。外から見ると六階だが、城内の東の階段から上って行くと八階だし、西の階段からだと五階。複雑怪奇な構造なのか、城全体に魔術が掛かっているのか、どちらだろう。
 難解な城の難解な主人が目指すのは、このフロアにある城主専用の浴室。航も毎日そこを利用させてもらっている。
 主寝室のさらに奥の部屋へ。抱っこしたまま脱衣スペースを突っ切り、石張りの浴室内部に入る。窓際に配置された楕円形のバスタブに、いつも都合よく湯が湛えられているのも、不思議の一つ。
 ヨマは器用に航の靴を脱がせ、それを隅に放る。そのまま服も剥いてくれるのだろうと思って任せていたが、彼はそうせず、航をバスタブの上に持っていき、手を放す。
「わあ! おい!」
 飛べない航は落ちるしかなく、飛沫を上げて着衣のまま湯に沈んだ。鼻から水が入ったときのツンとした痛みは、小学校時代のプールの授業を思い出させる。
 ジタバタともがき、なんとか自力で顔を出したけれど、激しく咳き込んで、しばらく非難の声を上げることも出来なかった。顔の水気を手で拭いながら睨んでやっても、彼はどこ吹く風で、何やら面白げに濡れ鼠を観察している。
「ほう、なかなかいいな」
「……は?」
「早く脱いで身体を洗え。風呂くらい一人で入れるだろう」
 元からそのつもりだったし、いつもそうしているのだが。一人でと言っているのに出ていかないのは、入浴しているのを見ているつもりなのか。
 見るくらいはいいけど。いいんだけど。まったく良いご趣味ですこと。
 溜息をついて立ち上がり、濡れて肌に貼りついた布を一枚一枚剥がしにかかる。脱ぎにくいから自然とゆっくりになる動作。肌に浮かぶ雫が日の光できらめく。
 真っ昼間からストリップなんて。丸みのない男の裸、しかも何年も見続けているもので、今更興奮するものなんだろうか。
 せめて感想でも何でも言えばいいのに、彼は少し離れて黙って見ているだけ。視線で裸のもっと深いところまで暴かれていくみたい。ああ、ぞくぞく……、しない。しないぞ。こっちが興奮したら負けな気がする。
 いくらこういうシチュエーションに慣れたと言っても、完全に羞恥が消えるわけではない。ほどほどに楽しんでいただいたところで、もう早く終わらせてしまおう。纏うもののない全身を石鹸で作った泡まみれにして、また頭のてっぺんまで湯に潜る。
 顔を出すと、彼はバスタブのすぐ側まで来ていた。屈み込んで、航の頬をぺちぺちとたたく。
「……なんだよ」
「よかったぞ」
「ああ、そう」
 頬に添えられた手で引き寄せてきたので、彼の次の行動を察して目をつぶる。口づけが甘いのは、彼の唾液を求めているから。体液依存の禁断症状が出ていなくても、運動や入浴で汗をかいた後は欲しくなる。
 このままするのかな。風呂場でするのは避けたいから、寝室に移るには……、どうしよう。考えようにも、湯加減が絶妙で心地よく頭が回らない。
 しばらく味わったのち、彼は唇を離して腰を上げる。
「出かけるぞ」
「……へ?」
「そう物欲しそうにするな。また夜にな。早く支度しろ」
「ああ、うん……」
 残念、ではない、断じて。外出のお供か。久しぶりだ。何か買ってもらえるかな。
 バスタブから出ると、風を起こして身体を乾かしてくれたので、自室に戻り、急いで服を着た。

 準備が整ってすぐ出発。抱きかかえられて空を運ばれ、森を抜ける。風を切るのはなかなかに爽快で、空の移動は好きだ。歩けば遠く危険な道のりも、飛行すればあっという間。
 目的地は魔族と人間の両方が出入りしている大規模な市場。時々連れてきてくれる。魔族はこの世界の人間を襲ってはならない協定があるので、異界からきた人間だとバレさえしなければ、表向きは安全らしい。
 久々の外出でうきうきしながら、多種多様な店が軒を連ねる活気ある市場を歩く。さっそく目についた店でリバーシに似たボードゲームと挿絵が多めの物語本を買ってもらった。
 ヨマは頼めば大概のものは買い与えてくれる。豪華な宝飾品でもおそらく拒否はされまい。要らないからねだったりはしないが。
 南北と東西の通りが交差した場所にある広場まで来て、彼は足を止める。
「私は研究資料を探しに行くが、おまえはどうする」
「んー。面白くなさそうだから、一人で見てていい?」
「ああ。適当に時間を潰していろ」
 彼の後ろ姿が人混みに消えていく。こうやって各々自由行動することも多い。
 適当に物色していよう。どこにいたって見つけてもらえるので、気の向くまま歩く。何を見ようかな。新しい服かな。
 彼の方は研究資料……、なんだろう、探し物は難しげな古書などか? 仕事関係ではなく、趣味でやっている研究だそうで、以前尋ねてもはぐらかされたのだが、一体何をしているのやら。一番あり得そうなのは、異界に張る罠の研究だろうか。
 例の「にゃんこ」さん以来、城に新しい人間が来ている様子はない。また来るのかな。罠に引っかかる獲物がオジサンならいいのに。航より若くて魅力的な人だったら、きっと航は——。
 駄目駄目、こんなこと、悩んだって仕方ない。その時はその時。潔く消えるだけ。買い物のことを考えよう。
「あ、そうだ。便箋も……」
 残りが少なくなっていたのだった。
 元いた世界では、滅多に使うことなどなかったが、今は頻繁に出番がある。使い道は志尾に送ることだ。四年前から文通しているのだ。
 仲介は双子。ヨマに言いつけられて、ラドト宅にお遣いに行った双子は、お茶を勧められて話し込み、あの二人と仲良くなった。そこから文通を取り持つ流れになったらしい。ヨマのチェックは入るが、没収はされたことはなく、大抵そのまま回ってくる。
 直接は会えずとも、この手紙のやり取りがあったから、航は自分自身を失わずにいられたのだ。自分に親身になってくれる人との繋がりは、精神の大きな支えだった。

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