2-(1)年月

 そう、以前に比べ、格段に自由は増えた。大したトラブルなく日々を過ごす、という実績を積み重ねた結果だろう。
 迷い込んでしまった青果エリアを抜け、文房具類を扱う店を探していると、視界の端に引っかかるものがあった。こちらを見つめる誰かがいる。表向きは安全とはいえ、あくまで表向きであるので、航も警戒心をゼロにしているわけではない。
 振り返る。一人の男と目が合った。
「あの、そこの君、いい?」
 さっき通りかかった青果店の店先で売り子をしていそうな、気立てがよさそうな印象の青年。耳が尖っていないから人間だ。
 駆け寄ってきた彼に問い返す。
「俺? 何ですか」
「さっき偶然見かけたんだけど、君はあの魔物に囚われているの?」
「……え」
 瞬時には意味を理解できなかった。あの魔物とはヨマのことだろう。航がヨマに囚われているのかどうか聞きたいのか。
 ここは魔族も人間もどちらも出入りしている市場だ。魔族と人間が連れ立って歩いていたって不自然ではないはず。彼はどうして囚われていると思ったのだろう。
「僕には魔術の心得がある。君の首に絡みついている糸が見えるんだよ。知っての通り、魔物が人間を拘束して自由を奪う行為は禁止されている。安心したまえ。君は我々が救出しよう」
 気弱そうに見えたが、言うことは勇ましい。
 犬の首輪のように、航の首に巻きついた糸。普段は見えないが、一時も航から離れず共にあり、その端はヨマが握っている。
 実は何年か前にも、街中でこの糸の存在に気づき、航を解放しようとする人がいた。人間を頼ったって助けてくれない、とヨマは以前言っていたが、お節介焼きはこの世界にもいるようだ。
 しかし、このか細い糸は見た目に反して強靱で、決して外れることはない。無理に切ろうとしようものなら——。
 受け取るのは気持ちだけでいい。首を横に振る。
「いえ、俺は大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「大丈夫なものか。逃げるとどうなるかと脅されているんだろう。我々が必ず……」
「いえ、必要ないです。急いでるから、行きますね」
 早くこの場を離れないと。無闇に被害者を出すべきではない。
 以前、同じように声をかけてきた人は、いきなり糸を切ろうとして失敗し、刃に変わった糸によって殺された。この糸には害されそうになると自動的に攻撃を返す魔術が組み込まれているらしい。
 早足で立ち去ろうとしても、青年はついてくる。
「こんなことをいきなり言う相手を信用できないのはわかるが、どうか任せてくれないか。僕は君のような子を何人も助けたことがあるんだ」
 説得が続く。いい人なんだろう、きっと。だから、死んでほしくない。
 さりげなく周囲を確認し、最適なルートを探す。あの左手の細い路地、人気店でもあるのか混雑しているし、いいかも。今日はまだあまり買い物しておらず、肩掛け鞄は重くないから、不意を突けば切り抜けられるはず。
 直前まで普通に歩き、通り過ぎると見せかけて方向転換、急加速する。
「あ、君!」
 ごめんなさい、と心の中で謝りながら、人々を縫って走る。今もトレーニングは続けているから、元陸上部の脚力が大幅に落ちていることはあるまい。
 どうやら上手く人混みに紛れられたようで、追いかけてきてはいないよう。速度を緩める。通行人の中には、混み合った場での全力疾走という迷惑行為に、不審と非難の目を向けてくる人がちらほらいたため、ここも早く離れた方がいいかも。
 小走りできょろきょろしていたのが悪かったのか、誰かにぶつかる。
「すみません……」
 反射的に謝って、相手を見上げる。ヨマがいた。因縁をつけて絡んできそうな輩でなかったのは幸い。
 彼は航の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「お前もようやく人を見る目がついてきたようだな」
「何のこと」
「さっきの男のことだ。上手く逃げたな」
「あんないい人、俺を助けようとして死なせるのは申し訳ないから」
「なんだ、わかっていたわけではなかったのか。ちょっと来い」
 手を掴み、ぐいっと引かれる。
「どこ行くの?」
「付いてくればわかる」
 黙々と歩き、連れて行かれたのは市場の外れ、薄暗い路地裏。市場の賑わっているエリアに比べ、明らかに治安が悪そうだ。
 ゴミが散らかっていて不衛生だし、水溜まりが臭うし、壁に下品な落書きがあるし、目つきの悪いごろつきみたいなのがいるし。何なんだろう、ここ。行きたくないなあ。
 足取りの重い航には構わず、ヨマはどんどん奥へ。路地を一本曲がるごとに狭く暗くなる。
「こういうとこってスラムっていうんじゃないの? 大丈夫なの?」
「これがスラムなものか。ただ汚いだけだろう。夜になるとこの辺りは飲み屋街になるんだ」
「まだ店開いてないじゃん。何の用事? 帰ろうよ」
「怖いなら抱っこするか」
「しなくていい」
 さすがに城の外であれを誰かに見られるのは恥ずかしすぎる。
 不満であろうが、置いて行かれるのは嫌なのでどうしようもなく、ぶすっと膨れたままついていく。
 不穏な雰囲気のある場所にも関わらず、なぜか道端に一人で立っている女がちらほら出てくるようになったあたりで、その中の一人がヨマの腕を引く。胸元が派手に開いた服装の、化粧の濃い魔族の女だ。彼女はしなを作って艶っぽく笑う。
「お兄さん、相手を探しているなら、あたしはどう?」
 その誘い文句でわかってしまった。彼女も、あの女性たちも客を探す商売女だ。
 好みではないのか、ヨマは手で追い払うような仕草をする。
「間に合っている。ところで、人間を買える店はどこだ」
「あんたも人間目当て? こんなにいい女を目の前にしてよくもまあ」
「どこだと聞いている」
「通りの奥の赤い看板の店だけど……」
 女はそこで初めて航をちらっと見る。
「ああ、そうか、売りに行くってこと。でも、気をつけなさいよ。あたしは密告しやしないけど、バレたら色々厄介なんだから」
「言われるまでもない」
 彼はまたすたすたと歩き出す。粘っても無駄だと判断したようで、女はすんなり行かせてくれる。追うしかなく彼を追った。
 人間が買える店——。
「……娼婦を買いに行くのか? そんなの一人の時に行けよ。なんで今」
「娼館は好かん」
「じゃあ、なに、ほんとに俺のこと売りに行くわけ?」
「そうしてほしいか」
「嫌だよ。今より明らかに待遇悪そうじゃん」
「まあ当然それはそうだろうな。ああ、あそこだな」
 彼の指差す先、通りの突き当たり。来るときに目にした小汚い飲み屋の多くと、大して変わらない外観の店がある。看板は……、小さな立て看板が赤。航の視力では書いてある文字までは見えない。その店の二軒手前でヨマは立ち止まる。
 よく見ると、店先の柱の陰で話し込む男が二人。一人はさきほど航に話しかけてきた人間の青年、もう一人は面識のない魔族の中年男。
 さきほどの青年は苦り切った顔で苛々と壁を蹴る。
「くそ、何だあいつ、逃げ足が速すぎるんだよ。魔術を発動させる隙もなかった」
「惜しかったな。まあ、また捕まえたら来てくれ。質が良ければ高く買うぞ」
「ああ」
 なんだ、そういうことか。こいつが航を娼館に売り飛ばそうとしていたのか。ヨマはこれを見せたかったわけだ。まだまだ自分はこの世界に馴染みきれていないようだ。いい人だから死なせたくないなんて思って損した。
 凝視されているのに気づいたのであろう、目が合う。
「あ、お前……」
 航はヨマの腰に腕を回し、肩に頭をもたせかけて、青年に向かって舌を出す。庇護者が強力だからこそできる挑発。彼は眉をつり上げはしたが、襲いかかっては来ない。ヨマが自分より格上か下かわからないからだろう。
 さも愉快そうにヨマは囁く。
「どうする。どうやってほしい?」
 殺し方のリクエストを聞いているのだ。八つ裂きにしてでも火だるまにしてでも、何でも聞いてくれるだろうが、生憎航はスプラッタは好きじゃない。
「あんなの相手にすんなよ。それより、まだほしいのがあって……」
「買い物に戻るか」
「うん」
 青年は追っては来なかった。とりあえず今日は死なないだろうけど、多分数日後にはこの近くの路地にでも転がっているんだろうな。
 帰り道、ヨマは語った。
「この世界で生まれた人間でも、魔族とのセックスに嵌まって、体液依存になる奴はいる。そういう奴は普通の生活は送れないから、ああいう娼館で魔族相手に身売りするしかなくなるんだ。依存から抜け出せなくなった奴を攫って売って小銭稼ぎをしているのもいる。魔族に飼われているお前は体液依存に違いない、とあいつは判断したんだろうな」
 世界の闇だな。覗きたくはないし、ましてや引き込まれたくもない。

 帰城後。日は暮れ、真夜中。目が覚めた航はベッドを抜け出す。
 隣にはついさっきまで裸で絡み合っていた男。いい加減、寝顔も見慣れた。起きているとき以上に無表情で、可愛げが全くない。磁器製の作り物みたい。
 航が反撃してくるなどとは思いもせず、傍らで静かに眠っていることに、ここに来た当初は無性に腹が立ったものだが、今はそういった感情は湧かない。いるのが当たり前になってしまった。
 シャツを一枚羽織ってからバルコニーへ。涼やかな風が伸びた髪を乱す。見上げると、夜空には無数の星。天然のプラネタリウムというやつだ。街灯もないここでは、夜はより暗く、星は比較にならぬほど多い。
 星座なんてオリオン座くらいしか知らないが、こちらの世界の空にも確認できる。月だってあるし、この世界は地球とはまったく別の世界というわけではないのかも。パラレルワールドみたいな。繋がっているのに、迷い込んだら戻れない異界。
 自分の呼吸音も聞き取れるくらいの静寂。ここでは航が唯一の異物。航はひとり。夜空の純黒は人を感傷的にさせる。
 カタリ。昼間では聞き逃すであろう小さな物音でも、耳は敏感に拾う。振り向くと、ヨマがバルコニーに出てくるところ。
 黙してゆったりと近づいてきて、航の目の前に立つと、背をかがめ、舌先で目元を舐めてくる。泣いていたらしい。
「怖かったのか」
「何が」
「売り飛ばされそうになったことだ」
「それはあんまり。そうだな。今は怖い、とかじゃなくて、寂しい」
「私がいるのに何故」
「さあ、なんでだろうなあ」
 わかるような、わからないような。言語化するのは難しい。それに、そんな心の奥に詰め込まれて皺くちゃになったものまで、彼が知る必要はない。
 さらりと流して終わらせればいい話題なのに、彼はしつこい。
「説明を放棄するな。考えろ」
「やだよ。なんで」
「そうやってお前はいつも、どこかで私を拒絶する。大事にしろと言うから大事にしてやっているのに、いつまで経っても手に入らない」
「手に入れただろ。力尽くで奪ったくせに」
「それはお前の全部じゃない」
「強欲」
「そうだ。何を今更」
「手に入らないから固執してるんだろ。手に入ったら途端に要らなくなって捨てるよ」
「意固地はお前の戦略なのか? とんだ策士だな」
「そんなんじゃない」
 それが出来るくらい器用な人間なら、生きやすさも違ったのかな。
 風に当たりすぎて冷えてきた。温もりを求め、傍らの男に寄りかかる。
「あんたは俺の何がいいの」
「さあ」
「いや、あんただって説明を放棄してんじゃん」
「仕返しだ」
「手頃な代わりが現れないから、側に置いてるだけ?」
「代わりが欲しいとは思わない。探していないし、探しても恐らく現れることはない」
「疑わしい」
「私は金にならない嘘はつかん。なんだ、口説いてほしいのか。お前だけだと?」
「まさか」
 安っぽい言葉なんて欲しくない。欲しいのは——、何だろう。何を求めているのだろう、自分は彼に。信じさせてほしい。全部預けても大丈夫なのだと。でも。
 思考が深く沈んでいくその途中、彼は航の背をたたく。
「寝直すぞ」
「もうちょっとここにいる」
「いいから来い。寝る」
 担ぎ上げられ、ベッドへ強制運搬される。
 広いのに、わざわざ隙間なくくっつく。抱き込まれて動けない。
「苦しいよ」
「この方が眠れるだろう」
 確かに、落ち着かないときは狭苦しいところの方がよく眠れたりはするけれど。
 七年という年月は、自分たちの関係をも確実に変化させていた。

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