(3)マフラーと横恋慕

『先輩、そこにいるんですか? かわってくださいよ』
 また首を振る。
「嫌だって。お前そろそろ諦めろよ。あんまりしつこいとストーカーになるぞ」
『先輩に確かめたいことがあるんです』
「なに。俺から言っといてやるから」
『先輩のマフラー、今手元にあるんですけど、やっぱりすごくいい匂いがするんです。初めて喋ったときも、先輩はこのマフラーつけてました。そのときもいい匂いがしました。でも、思い出してみると、それ以外の時はいい匂いって思わなかったなって。このマフラー、先輩のですか? 借り物じゃなくて?』
 あのマフラーは楓が去年買った物で、シーズンオフになってからは実家に置いてあった。今シーズンは一回だけ付けて、また実家に放置していた。それを桜が勝手に持ち出して使っていたのが判明し、今日出かける前に文句を言ったのだった。楓は特に何も感じなかったが、桜の匂いが付いている可能性はある。
「……姉ちゃんだ。それ、よく姉ちゃんが家で膝掛けにしてたんだ」
『え、先輩の声?』
「スピーカーだよ。……てことは、藤谷は姉ちゃんの匂いに反応してたってこと?」
『先輩にはお姉さんがいるんですか? それじゃあ、俺の運命の人はお姉さん?』
 藤谷の声が一段高くなる。また別の方向でややこしいことになりそうで、さっさと話を終わらせにかかる。
「そうかもなー。ってことで俺のことは諦めろ。じゃあな」
『お姉さんに会わせてください!』
「やなこった」
 ほら、予想通り。楓は断固として突っぱねてやるつもりだったが、亨は敵であるはずの男にも甘い。
「俺から桜さんに話してみるよ。十中八九断られるだろうけど」
『ありがとうございます! 伊崎さんはなんて親切な人なんだ』
「お前を引き下がらせるためだよ。言っとくけど、俺だって怒ってんだぞ。もっとひどいやつを知ってるから抑えられるだけ。人のものに手を出そうとするんじゃない」
 楓に向けられた言葉ではないが、どきっとした。人のもの。楓は亨のもの。なんていい響き。
『ほんとにほんとにごめんなさい……。反省してます。もう絶対しません』
「桜さんに断られたら、もう諦めろよ」
『はい……。先輩もごめんなさい! 次会ったとき土下座します!』
「せんでいい!」
 楓は横から手を伸ばして終話ボタンをタップし、強制的に藤谷の声をシャットアウトする。
「ああ、もう……」
 亨の膝を枕にして横になり、目つきを鋭くして彼を見上げる。
「……いいのかよ。あんなこと引き受けて」
「大丈夫。会社で桜さんつかまえて、ちょろっと言うだけ言ってみるよ。たぶん、断るだろ。噂によるとかなりハイスペックじゃなきゃ相手にしないらしいし、十も年下の大学生なんかお呼びじゃないだろ」
「あのババア、ババアのくせに選り好みしてやがんのか」
 自分でもモテると言っていたが、あんな人を言い負かすのが趣味みたいな女と付き合っても、尻に敷かれて窮屈なだけだと思うのだが。
 亨は楓に野菜炒めの残りを食べさせると、大丈夫だともう一度繰り返した。
 その後、一緒に晩ご飯の片付けをして、風呂に入って、ベッドでちょっとごちゃごちゃした後に就寝した。

 驚いたことに、桜は藤谷と会うことを了承したらしい。亨によると、彼氏候補に会うためではなく、弟にちょっかいをかけた男をしばくためではないか、とのことだった。それもそれで恥ずかしくて嫌なので断りたかったが、一度会えば藤谷も納得すると亨が言うので、引き合わせることにした。楓と亨も監視役で付き添うことになった。
 場所は、大学近くの店では顔がさすため、少し離れたところにある、落ち着いたカフェにした。段取りを全て亨にさせるのは悪いので、場所くらいは楓が選んだ。
 土曜日の昼下がり。桜と途中で待ち合わせして合流し、三人で行くと、藤谷はすでに来ていた。入店してきた楓たちを見るなり、藤谷は立ち上がって床に膝をつくものだから、慌てて止める。こんなところで土下座なんてされたら、店側にも迷惑だ。無理矢理元の席に戻らせる。
 藤谷の前に桜が座り、楓と亨は彼らの後方のテーブルに陣取る。会計は藤谷に持たせるつもりなので、名物のチーズタルトとホットコーヒーを亨の分まで注文し、彼らの話に耳を集中させる。さて、藤谷はどんな風に振られるのだろう。
 いつもの大声が店内に響く。
「初めまして! 俺、あの」
「こんにちは。藤谷くん。弟がお世話になっているみたいね」
「いえ、お世話だなんて、そんな」
「皮肉よ、皮肉」
 桜の先制パンチを食らい、藤谷はわかりやすくしょげる。
「……はい」
「で、私に会いたいって、どういうご用件かしら」
「お姉さんからあのマフラーの匂いがするか、確かめたくって。すぐにわかりました。あの匂いはあなたの匂いだ。お姉さんは何か感じませんか?」
「まあね、あなた変わった匂いがするとは思うけど、それが?」
「付き合ってください。結婚前提で」
「ごめんなさいね。女一人満足に養えない子供には興味ないの。出直してらっしゃい」
 その気のない相手に気を持たせることはしてはならない、と前に桜は言っていたが、その言葉通りきっぱり断っていた。
 ざまあみろと思いながら、楓は運ばれてきたチーズタルトを一口食べる。とろける食感で甘すぎなくて美味しい。
 藤谷はぼそぼそと続ける。
「卒業するまで待っててくれますか?」
「待たないわよ。いい男がいればさっさと結婚するわ」
「わかりました。じゃあ起業します」
「……はい?」
 てっきり、わかりましたの後には「諦めます」が来るのかと思っていた。桜も同じだろう。キギョウ? 起業のことか?
「株式投資で稼いだ元手があるので、友達とインターネットサービスの会社を起こそうかって、この間話してて。社会経験があったほうがいいから、いったん就職してからにするつもりだったんですけど、お姉さんが待てないと言うなら今すぐやります。具体的にどの程度の収入がご希望ですか? 目標があった方が頑張れるので」
「……年二千万? 手取りで。継続的に」
「わかりました! やります!」
「あのね、手取りでよ。税金引かれる前は三千五百万ぐらいよ。仕事舐めんじゃないわよ」
 自信満々で宣言されて、さすがの桜も動揺しているようだ。楓にだって桜の要求がべらぼうな金額だというのは理解できる。学生が片手間にやって稼げる額では到底ない。藤谷にはまともな金銭感覚がないのか? 金持ちの家のお坊ちゃんで、万札に溺れる生活をしてきたとか。
「舐めてません。成功する見通しはあります。よし、頑張るぞ」
「自分で稼ぐんだからね? 失敗して大損したって私は知らないからね」
「大丈夫です。桜さんを養えるだけの甲斐性のある男になってみせます! といことで、ID交換してください」
 振られた瞬間こそ落ち込んでいたが、藤谷はすぐに元気を取り戻し、音量も大に戻っていた。いや、戻ったというか、今まで楓が見た中で、一番生き生きしているかもしれない。
 プレゼントはバーキンぐらい贈れとか、海外に別荘がほしいとか、自家用のヘリとクルーザーぐらいないととか、桜が無理難題をふっかけても、藤谷はすべて「わかりました!」と、監督の指示に返事をする高校球児のようにはきはき答えていた。正気だろうか。
 桜が後ろを向いて助けを求めてきたので、四人でテーブルを囲むことになった。
 そこで藤谷から改めて謝罪を受けた。真摯な態度であったので、子分ぐらいにならしてやってもいいと思った。カラオケに行ったときに楓が噛みついて出来た傷は、もう治ったらしい。回復の早さには自信があります、と藤谷は胸を張った。

 その翌日の日曜日、亨宅でおうち焼肉のはずだったのだが、買い物の相談を聞かれてしまい、桜も参加したいと言い出して退かない。桜が亨宅に来るのは何となく嫌だったので、急遽店を予約し、亨の提案で実琴と慶人も呼んだ。当日、ちゃっかり藤谷も混ざっていた。
 当初の予定とは違うが、皆でわいわい楽しいお誕生日会にはなった。発情期予定期間明けで酒も入り、ふわふわ良い気分だ。
 その帰り、亨と二人、マンションの最寄り駅から少し離れたパン屋に寄った。誕生日会の最中に食パンの美味しいパン屋を実琴に教えてもらったので、さっそく試してみることにしたのだった。遅くまで営業していてありがたい。
 パン屋の袋を持って夜道を歩きながら、吐く息は白い。日中はそれほどでもなくても、日が暮れると途端に気温が下がる。
「……寒い」
「マフラー出せば? 藤谷にもらってたじゃん」
「やだよ。ダサい」
 藤谷から、誕生日プレゼントとしてマフラーを贈られた。楓が忘れていったマフラーは口に出せないあれこれに使ってしまい、返すに返せなかったなどと言うので、思い切り頭をはたいてやった。正確にはプレゼントではなく弁償ではないか。もらったマフラーは趣味に合わなかったが、部屋の中の防寒ぐらいには使えそうだった。
 桜を前に終始はしゃいでいた藤谷の様子を思い出す。
「姉ちゃんと藤谷、付き合うと思う?」
「今日だって軽くあしらわれてたしなあ。難しいかもな」
 桜は藤谷に独特の匂いは感じるようだが、強く惹きつけられるということはない様子だった。昨日は藤谷のあまりのポジティブさに驚いたものの、早くも耐性が出来たようで、手慣れた態度で求愛を躱し続けていた。
「慶人は運命かもしれないから付き合ってみるべきって力説してたけどな」
 まだ藤谷が雄として成熟していないから魅力を感じないのであって、桜が大人にしてあげれば解決、と持論を展開して、実琴に踏み込みすぎだと叱られていた。
 吐く息を追って空を見上げると、星は遠い。街路樹の電飾の方が安っぽいが煌びやかだ。
「……運命って何なんだろ」
「信じてないんじゃなかったの?」
「信じてないけど、藤谷や慶人があんまり言うもんだからさ」
「運命ってカミサマが決めるものなんだろ。だったら、それが運命かどうかなんて、カミサマじゃなきゃわかんなくね?」
 それはまあそうだろう。わからないのだから、運命かどうかで騒ぐのはナンセンス、と亨の言いたいことはそういうことではないらしい。
「お互いすごく好きっていう奇跡的な偶然がそこにあるなら、それを運命だって信じておけば、カミサマから応援されてるみたいで幸せなんじゃないかって、そういう話なんだと思う」
「そうなのかな」
「そうだよ」
 彼は背をかがめ、楓の頬にさっと口づける。
「バカ。外でやめろ」
「誰も見てないじゃん。俺は信じてるよ。運命の人の話」
「……へえ、そうかよ」
 嬉しいくせに恥ずかしくて目をそらしてしまうのは、まだまだ抜けきらない楓の悪い癖だ。
 マンションに続くこの道を一緒に歩き始めて、もうすぐ一年になる。紆余曲折あれど、奇跡的な偶然は多分ずっと続いていく。楓もそれを信じてみることにした。

1 2 3 4 5