(4)やきもち

 ナオはまた何か言おうと口を開きかけたが、廊下の曲がり角から弟が姿を見せて、そちらに意識が移った。
「あ、帰ってきた」
 相田は一人ではなく、とある男と楽しげに話しながら歩いてきた。こちらに気づくと、相田は駆け寄ってくる。
「凛太もナオ兄も、男二人で何だよ。こんなとこで盛り上がってたのか?」
「男子連中が僕を邪魔だって追い出そうとするから、慰めてもらってたんだよ」
 嘘が下手な凛太の代わりに、ナオが作り話をしてくれる。相田は手を叩いて喜ぶ。
「はは。ざまあみろ。たしかに邪魔だわ」
「幹事に対してひどいやつだな。ところで、その方どなた? 知り合い?」
 相田に追いついてきた男に、ナオは目をやり、会釈する。
「高校の早瀬(はやせ)先生だよ。トイレの前で会っちゃってさあ。懐かしくって連れてきちゃった」
 懐かしい、と相田は言うが、彼の後ろにいるのは凛太にとって全く懐かしくない顔だった。三日前にも会って彼と——脩と一緒の時間を過ごした。
 脩には、相田やその仲間たちと夕飯を食べるという話はしたが、店の名前までは伝えておらず、ここで会ったのは予想外だったはずだ。しかし、大して驚いた様子はない。凛太も自然に振る舞おうと努め、興奮気味の相田のお喋りに耳を傾ける振りをする。
「先生も大学の時の友達と飲みだって。先生、ちょっとこっちに混ざらない?」
「なんでだよ。大学生の出会いの場におっさんが乱入してどうするんだ。こっちはもうすぐ移動だしな」
「久しぶりに話したかったのになあ」
「校舎近いんだから、またこっちに遊びに来ればいいだろ。ところで、酒飲んでないだろうな。ティーンエージャーよ」
「飲んでません! コーラとウーロン茶だけです」
「よろしい。じゃあ、彼女作り頑張れ」
「はい!」
 去り際、脩は手を振りながら、凛太に視線を合わせ、口だけ動かす。おそらくこう言った。『出てこい』。このまま一緒に帰ろうということだろう。途端に胸が騒ぎ始めてそわそわする。
「高校の先生? 僕の時にはいなかったと思うけど」
 ナオの問いに、弟が答える。
「俺たちが高二の時に来たから、ちょうどナオ兄が卒業した後だよ」
「へえ。結構かっこいいね」
「そうかあ?」
 失礼な、かっこいいだろと言いたかったが、もちろん口には出さない。
 主観たっぷりの凛太とは違い、相田家のモテ王子は冷静に分析する。
「なんだろう、かっこいいけど男前すぎなくてちょうどいい」
「何目線だよ」
「女子目線。彼氏にするにはちょうどいいってこと」
「ああ、なんか似たようなこと言ってた女子がいたわ。ナオ兄、ちょっと見ただけなのに、なんでそんなんわかんの?」
「いいかい、レオ。モテるにはまず女心を理解することだよ」
「なるほど。……て、なんかむかつくわ」
 相田は兄を肘で小突く。
 相田兄弟にはまだもう一人ミオという弟がいるが、時にいがみ合いながらも、なんだかんだで皆仲が良く、一人っ子の凛太は少々うらやましかった。
 彼らの会話の隙間を見つけ、割って入る。
「僕、そろそろ帰るね」
「もう? 次カラオケ行くみたいだけど。なあ、ナオ兄」
「うん、その予定」
「時間だから帰る。まあ、頑張って、相田。また月曜日、結果聞かせて」
「その前にメールするし」
「そう。ナオ兄も今日幹事ありがと。ごちそうさま」
 急に慌て始めた凛太を不思議そうに見る兄弟に礼を言い、個室からコートと鞄を取ってきて足早に店を後にする。外で脩が待っているはず。そう思うだけではやる心を抑えきれない。
 
 
 駅ビルに入るその居酒屋を出てきょろきょろしていると、二軒離れた店の前で脩が手招いているのを見つけた。視線が合うと、脩は歩き出したので、走って追いつき、隣に並ぶ。
「お待たせ」
「ああ」
 こちらに目を向けず、彼は短く応じる。
 予期せぬ出会いが嬉しくて、抱きついて喜びを表現したいところだが、我慢する。金曜日の夜、飲食店の密集するこのフロアは、同じく飲み会であろうサラリーマンや学生たちで賑わっている。さすがに人目がありすぎる。
 まずはビルから脱出すべく、エスカレーターを乗り継いで地下まで降りていく。
「偶然だねえ。脩ちゃんも同じとこだったんだ」
「ああ」
「ここの料理美味しかったよね。まあ、脩ちゃんには負けるけど」
「そうか」
「……どうしたの? なんか変だよ」
 話に全然乗ってきてくれず、凛太の方を見てくれない。むっと唇を引き結んでいて、怒っているようにも見える。
「まず言い訳ぐらいしろよ。聞くだけ聞いてやるから」
「何の?」
「合コンだったんだろ。相田が言ってた」
 ということは、凛太が合コンに参加したことを怒っているのだろうか。しかし、少し考えればわかるはずだ。凛太が男女の出会いの場に望んで行くわけはない。
 脩がどんどん早足になるので、リーチの違いで小走りにならざるを得ず、危うく人にぶつかりそうになる。
「相田がちゃんと説明してくれなかったから、知らずに行ったんだよ。だいたい、僕が女の子に興味ないの知ってるでしょ? なんかアプローチされてたらしいけど、全然気づかなかったし」
「お前、言い寄られたのか」
「だから女の子にね? 全然まったくこれっぽっちも嬉しくないけど」
「へえ、そう、ふーん」
 今日の脩はおかしい。いつもはこんなことで不機嫌になったりしないのに。コートを遠慮がちに引っ張ってみるが、それでもこちらを向いてくれない。
 地下街と繋がった出口からビルを出て、いつも使っている路線の乗り場に向かう。少々離れており十分弱かかる道のりを、はぐれないように付いていく。
「なんで怒るの。今日は相田に頼まれて行っただけだよ。脩ちゃんが飲みに行く予定じゃなきゃ、あんなとこ行かなかったし」
「じゃあ、あいつは? 廊下でお前と喋ってた」
「ナオ兄? あの人は相田のお兄さん。中学でも高校でも大学でも先輩。相田の家にはよく遊びに行ってたし、親しいの」
「初恋の人だったり?」
「なんでそんなこと聞くの?」
 浮気を疑われているようで気分が悪い。わざと歩みを遅くすると、脩は振り向いてやっと凛太の方を見た。だが、つっけんどんな態度は変わらない。
「何してんだよ」
「脩ちゃんにはいっぱい初めてをあげてるのに、まだほしいの?」
「できれば全部」
「そんなに僕が好き?」
「好きだよ」
 てっきりはぐらかされるかと思っていた。思いがけない愛の告白に、一瞬ここはどこなのか忘れそうになる。お互いごく小さい声で話してはいたが、それでもそれは凛太の耳と心にまっすぐ突き刺さってきた。
 知らなかったとは言え合コンに行ったというのは事実なのだから、こちらまで喧嘩腰になるのはやめよう、と思い直し、また彼の横に並ぶ。
「ナオ兄のことは好きだけど、ただの憧れみたいなもんだったよ。中学生のとき、当時付き合ってた彼女の話を聞いても、大人でかっこいいなあ、くらいにしか思わなかった。これって恋じゃないでしょ? ……あ、でも」
「なんだよ」
「今日ちょっと口説かれちゃった。一回お相手願いたいとか何とか。冗談だと思うけど」
「……あのガキ」
 脩の顔つきがさらに険悪になる。余計なことを言ってしまったようだ。嘘や隠しごとは無しにしようと決めてはいるが、言うのは今じゃない方が良かった。必死に慣れないフォローに回る。
「だから、絶対本気じゃないって。仮にナオ兄が本気だとしても、僕にその気がないんだから問題ないでしょ」
「でも、お前イケメン好きじゃん。顔だけ俳優がいっぱい出てる恋愛ドラマ、めっちゃ真剣に見てる」
「あれは別に俳優だけが目当てじゃなくて、ラブストーリーのシチュエーションにドキドキするっていうか……。えっと、あの、脩ちゃんも、じゃなくて脩ちゃんのほうがかっこいいよ? ナオ兄もかっこいいって言ってたし」
「ああ?」
 どうやらまた余計な発言をしてしまったらしい。もしかして、今日はこのままずっとこの調子なのだろうか。せっかくの週末なのに。
「……ナオ兄の部分はナシで。怒んないでよ。僕が悪いんじゃないでしょ」
「そうだけど……、いや、そもそも合コンになんて行くから」
「だから、知らなかったんだってば! もう、脩ちゃんしつこい。そんなにやきもち焼きだなんて知らなかった」
「かっこいい脩ちゃんじゃなくて悪かったな。でも、俺は元々こんなんだ。いつもいつも余裕あるわけじゃないし、それほど大人なわけでもない」
 むくれた彼の横顔をじっと観察する。頬が赤みを帯びているように見える。お酒の量がいつもより多かったのかもしれない。酔っているせいで本音が出やすくなっているのかも。そういえば、以前にもこんなことがあったように思う。酔った脩は少しだけ我が儘で甘えたがりになる。
 もしかしたら、怒っているのに加えて、甘えたい気持ちもあるのか。凛太もときどきやる。甘えたくて、実際の感情以上に怒ったり拗ねたりすることが。だとすれば、対応を変えてみよう。
 人が少ない連絡通路に入ったので、そっと手を掴み、一人で特訓して鍛えた上目遣いで、できる限り丸く聞こえる声を出す。
「僕はやきもち焼きの脩ちゃんも好きだよ」
「……」
 脩はこちらに目をやり、またすぐ逸らす。
「脩ちゃん」
「かわいいこと言うから」
「言うから?」
「キスしたくなっただけ」
「いいよ」
「家に帰ってからな」
「こっち」
 連絡通路の終わりにある、さらに人気のないエレベーター前の、防火扉の影になったところに連れて行き、背伸びしてキスをする。人が来ないうちにすぐ離れ、首を傾げて彼を窺う。
「機嫌直った?」
「……悔しい。かわいい」
「それって機嫌直ったってこと?」
「うーん……」
「合コンなんて行ってごめんね。次からよく確認する。プリン買ったげるから許して」
「なんだそれ」
 やっと彼の口元が緩む。作戦は効果てきめんだ。
「脩ちゃん、甘えたいみたいだから、子供扱いしてあげようと思って」
「だからプリン?」
「うん。何でも好きなの選んでね」
「コーヒーゼリーがいい」
「それってプリンじゃないよ」
「ゼリーはプリンの親戚だろ」
「他人です。それに苦いから美味しくない」
「バカ。それがいいんだって」
 いつもの掛け合いをしながら通路を抜けると、ようやく目的の路線の駅構内にたどり着く。ここから電車で十五分、さらに歩いて四、五分。早く家に帰りたい。
「やきもち焼きの脩ちゃんも好きだし、甘えたがりな脩ちゃんも好きだよ」
 プリンの袋を下げて夜道を歩きながら言うと、脩は恥ずかしいのか「そうかよ」とだけ返した。
 今週も楽しい週末を過ごせそうでほっとした。

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