〈プロローグ〉攫われた王子

 灰色のつまらない世界には飽き飽きしていたから、邸の庭に色とりどりの花を植えた。視界を覆い尽くす様々な彩り。美しい色で溢れているはずなのに、それでも世界は灰色のままだった。
 快も不快もなく、ただ諦めだけをヒノワの心に植え付けていく、灰色。楽しい、胸が躍る、うきうきする——そんな気持ちを、子供の頃は確かに知っていたはずなのだが、小さな穴の空いた砂袋から中身がこぼれ落ちるように、ヒノワの心は年々それらを取りこぼしていった。
 つまらない毎日。本当に——実に。だから、こんな状況に陥っても、大して焦りはしなかった。
 二ヶ月に一回の「義務」を果たすため、馬車で王宮へ赴く途中のこと。街の外れにある人気のない森の近くに差し掛かった時、突然馬車が止まった。
 それ自体は珍しいことではないが、しばらく待っても再び動き出す気配がない。
 同乗していた従者の少年、カロは首を傾げる。
「どうしたんでしょう」
「さあ、故障かな」
「昨日点検したところなんですけどねえ」
 カロはカーテンを開け、窓から外を見る。そして、血相を変えて振り返った。
「わあ、ヒノワ様、大変です! 護衛の者が倒れています!」
 馬車には騎乗の軍人が二人護衛としてついていた。
 身内から邪魔者扱いされているものの、ヒノワはこの国の王族の端くれには違いないから、下手に誘拐などされようものなら大きな騒ぎになる。無用なトラブルを防止するためには必要なことだ。
 ヒノワの側の窓からも外を確認すると、もう一人の護衛とその馬も倒れていた。
「いったい何が……」
 カロの声は微かに震えている。まだ十五だ。致し方あるまい。
「ヒノワ様……」
「そうだな。無差別の物盗り。あるいは、僕の素性がわかった上でやっているとしたら……」
 前者だとすると、今ここで金品を要求される。後者だとすると、拉致されて身代金を要求される。あるいは受刑者釈放などの要求が来ることも考えられる。
 普段と変わらないヒノワの泰然とした様子に、カロはさらに焦り出す。
「なんでそう落ち着いていらっしゃるんですか。逃げないと!」
「無駄だよ。我が国の王立軍の兵士は優秀だぞ。彼らをこうも簡単に倒してしまう相手など、僕たち二人じゃどうしようもないさ」
「確かにそうなんですけど! ああ、もうー」
「この場で金品を要求されたら、有り金を全部渡してしまえ。攫って人質にしようとするなら、お前たちだけでも解放するよう僕が交渉する。人質は僕一人で充分だ。安心しろ」
「全然安心できません。お金を渡すことには同意しますが、ヒノワ様を犠牲にしてまで助かろうなんて思いませんよ。……それにしても遅いな」
「ああ。来ないな」
 馬車を止め、護衛を倒し、御者が無事かはわからないが、こちらの様子を見に来ないことを考えると動けない状態にはなっているだろう。そこまでしておいて、馬車の中の人間に何の要求もしてこないなんて。
「僕、見てきます」
「おい、待て」
 制止が間に合わず、カロは不用意に扉を開けた。流れ込んできた生暖かい風。風に乗ってやってきた、懐かしい——なぜか懐かしいと感じてしまう花の香り。
 直後、強い眩暈に襲われ、頭がぐらりと傾いだ。
「ヒノワ様……」
 カロが座面に倒れ込む。
 もしや何かの薬品か、そう気づいたときには遅かった。意識が混濁していく。座っていられず、カロを庇うようにして、彼の上に覆い被さる。
 眠らせてから攫うつもりか。なるほど、いい作戦だ。だが、残念だったな。同じ王子を攫うにしても、別の者にしておけば、もっと絞り取れただろうに。あいつらは、厄介払いが出来て清々すると、身代金を出し渋る可能性すらある。
 その時は犯人に殺され——ても、まあいいか。こんな人生いつ終わったって。あのいけ好かない男との結婚からも逃れられる。そうだ。犯人にはむしろ、感謝、しないとな……。

 いつからだろう。世界が灰色になったのは。母の遺骨を抱いて、療養先である隣国から帰国した辺りか。
 以降、無気力、無感動に生きてきたヒノワであったが、その様子を邸の使用人頭であるマリ、そしてその息子のカロはひどく心配していた。それを申し訳なく思う程度の感情は残っている。
 ことあるごとに、過保護なほどに、彼らはヒノワの心配をする。昨日もそうだった。
 朝というには遅く昼というには早い時間帯、寝室まで様子を見にきたカロは、ヒノワの着替えの準備をしながら問う。
「もうお加減はよろしいのですか?」
「ああ、問題ない」
 食べることが面倒で、食事の量が少ないせいか、ヒノワは体調を崩すことが多かった。前々日も熱を出して寝込んだが、今はもう平熱だ。それでもカロは心配なよう。
「母も言っていましたが、スーイ様のご訪問、また日を改めていただいた方がよろしいんじゃ……」
「あの人は義務を果たせばいつもすぐに帰るだろう。負担にはならない」
 父王からの言いつけで、兄スーイが邸に引きこもりがちなヒノワの様子を見に来るのは、一ヶ月に一回の恒例行事になっていた。
 第一王妃と第二王妃は王宮に住んでいるが、第三王妃であったヒノワの母は、初めての子であるヒノワが産まれた時分から、王都とほど近いこのカカリイという小さな街で、別邸を構えて暮らしていた。母の死後も邸を引き継いでそのまま住んでいる。
 ヒノワが寝巻きを脱ぐのを手伝い、カロは慣れた手つきでシャツに腕を通させる。
「でも、絶対あのお話もされますよ。昨日のメサ様みたいに」
「聞き流せばいい」
「聞き流していたら、本当に結婚させられますよ。近頃は民の間にも噂が広がって、末の王子様がご結婚なさるって、街はすっかりお祝いムードです」
「お前は僕の結婚には賛成じゃなかったのか?」
「そりゃあ良縁だと思いますけど、ヒノワ様が嫌がっていらっしゃるなら……」
 相手は隣国ドンディナの貴族で、国家元首である執政の長子、さらにはヒノワの母方の親戚筋。身元は確かだし、年齢も近く、人柄もいい、らしい。確かに申し分ない良縁。
 だが、ヒノワの個人的な感情を言うならば。
「まあ、嫌だな、確かに」
「ヒノワ様がそんなに好き嫌いを仰ることはめずらしいでしょう。いつも人形みたいに感情を表に出さないのに、よっぽどお嫌なんですね」
「相手の思惑が見えないからな。いくらこの国の王族とは言え、子も産めぬオメガなど妻に迎えて何になる? しかも妾ではなく正妻に、とあの男は言っていた。何か裏があるとしか思えない」
 男でも子を産める「産む性」であるオメガ——ヒノワが持って生まれた性。男が男に嫁ぐことなど通常はあり得ないこと。だが、片方がオメガという特殊な性であれば成立する。
 民の事情は知らないが、王族や上流貴族、しかもその長子であれば、後継者となる子を成すことは最大の義務だ。石女であることを理由に離縁されることも珍しくないのに、一国の国家元首の子息が最初から産めないとわかっている人間を妻に迎えるなど。
「それはヒノワ様のお美しさに魅せられたからなのだとあの方は」
 話しながらも、カロの手が止まることはない。一つ一つヒノワのシャツのボタンを止めていく。
「美しいものか。あれはただの世辞だ。本気にするものじゃない」
 笑うことさえ滅多になく、親しい使用人の前以外ではいつも陰鬱に黙り込んでいる。愛玩用や観賞用には不向きだ。
「それに、何だか気持ち悪い」
「あの方がですか? どこがです。僕には物腰柔らかな好青年に見えますけど」

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