〈プロローグ〉攫われた王子

「どこがって……、声とか目線とか……。あいつ、よく僕の手に触れてくるんだが、鳥肌が立つ。気持ち悪い」
 首筋の古傷が痛む気さえする。野犬か狼に襲われたとき出来たという傷。病がちで回復力が低下しているのか、何年も前だというのに未だ生々しい跡が残る。普段は存在を忘れているが、ふとしたときに痛みを覚える。
「手を取るのは挨拶でしょう。ひどい言い草ですね」
「だが、まあ、この結婚が王族としての務めだというなら受け入れるしかないだろう。僕は今まで何もしてこなかったんだから」
 病がちなことを理由にろくに公務を果たしてこなかった。実のところは人前に出るのが億劫で怠けていただけだ。そのツケが今回ってきたのだろう。癖になっている溜息をつく。
 着衣を整え、似合うからとカロに言われて伸ばし続けているブロンドを梳かし終わったころ、カロの母であり使用人頭のマリから声がかかる。
「ヒノワ様、スーイ様がいらっしゃいました」
「ああ、今行く」
 カロを連れ、急ぎ階下の応接室へ向かった。
 亡き母の趣味で白でまとめられたその部屋で待っていたのは、齢三十ほどの軍服姿の男。恵まれた体躯、精悍な顔立ち、威厳を漂わせた隙のない立ち姿。まさしく、そう、理想的な、民衆から望まれる「王子」がそこにいた。
 ヒノワは恭しくお手本のような礼をし、慇懃な口調で言う。
「毎月わざわざ足を運んでいただいてありがとうございます、兄上」
「体調を崩したと聞いたが」
「大丈夫です。いつものことですから」
「そうか」
「ええ」
「……」
「……」
 スーイは寡黙な男だ。ヒノワもよく喋る方ではないから、よく会話が途切れる。向かいのソファに腰掛け、彼の言葉を待った。
 正妃である第一王妃の次男で、王立軍に所属する軍人、スーイ。同じ王子でも、実質的に妾である第三王妃の子として生まれたヒノワとは格が違う。
 さらに決定的な違いが、スーイはアルファ、ヒノワはオメガであること。
 この国、及び同一民族を始祖とする近隣諸国には、男女性の他にαβΩ性という性別が存在する。アルファ、ベータ、オメガにそれぞれ男女があり、計六種類の性別。
 王侯貴族、平民を含めた国全体で言えば、人口比率はベータが大多数で、アルファが一割、オメガはそれより少ない。
 アルファ、ベータ、オメガ並び順は、そのまま社会的な序列だ。知能も身体機能も優れたアルファ、多数派で平均的なベータ、「産む性」と言われ、男性でも妊娠可能なオメガ。オメガは特殊な体質を抱え、とかく差別対象になりやすい。
 直系の王族にオメガは滅多に生まれない。優れた血を残そうと代々アルファの血を重ねているため、母親がオメガであろうと、王族にはアルファが生まれやすい。
 スーイは当然のようにアルファ。たくさんいる兄姉の中で、ヒノワだけが唯一オメガ。オメガであるが故、現国王の実子であるにもかかわらず王位継承権を持たない。それだけで異端であったし、しかも滅多に外に出ない引きこもり。問題児扱いされて当然だ。
 スーイは注意深くヒノワの様子を観察しながら口を開く。
「昨日、メサが来たそうだな」
「ええ。未熟な私を諭してくださいました」
「諭して、か。散々に嫌味を言われたのだろう。悪かったな。私からよく言っておこう」
「結構です。メサ様の仰ったことは全て事実ですので」
 さっさと結婚して出ていったらどうだ。子も産めないオメガをもらってくれるなんていい人じゃないか。王位継承権を持たぬ上に、民のためになる働きもしない役立たずのくせに、いつまでも王室に居座ろうとするな。
 ——ヒノワが結婚を渋っていると聞きつけ、邸に押しかけてきた第一王妃の三男メサは、ヒノワの顔を見るなりそう言った。
 他の兄姉の中にも同じような言葉をぶつけてくる者がいた。言わない者も、内心は皆そう思っているのだろう。
 突然の訪問は迷惑だが、不思議なことに、彼らから言われた内容にひどく腹が立ったり傷ついたりすることはなかった。本当のことだから。
「子を産めぬオメガなど何の価値もない」
「発情期が来ないのだったか? 治療次第で来るようになる可能性も」
「ないでしょうね。十九になるまで一度も発情期が来ないなんて、見えないだけでどこか身体に不具があるとしか思えない」
 発情期——「産む性」と言われるオメガだけに訪れる、特に妊娠しやすい期間のことだ。
 発情期が来る身体になったということは、子をなせるだけ成熟したということで、発情期が来ないということは、子をなす能力がないということ。
 スーイの顔に微かに浮かんだのは、哀れみか悲しみか。
「お前はどうしてそう自分を卑下する」
「身の程を知っているだけです」
「……結婚の話、嫌なら私から父上に話しておくが」
「今回の縁談が流れたとして、それでどうなります。また新しい話が来るだけでしょう。早く厄介払いできた方が父上も嬉しいのではありませんか」
「厄介などと父上は思っていらっしゃらないよ。定期的にお前を王宮へ呼び出すのも、お前の様子見に私を寄越すのも、お前のことを気にかけている証拠だ」
「どうだか」
 ならどうして兄姉はあのような態度を取る。どうして父は彼らを諌めようとしない。兄姉の中でこのスーイは別だが……。実直な性格故、兄弟は平等に扱うべきという考えが強いのだろう。
「もういいのです。何もかも、どうでも」
 ヒノワの呟きにスーイが反応する前に、ドアがノックされる。
「スーイ様、ヒノワ様、お話中失礼いたします」
「マリか。どうした」
 スーイが応答すると、ドアが開きマリが顔を出す。
「たった今ロージアン様がお越しになりまして……」
「ああ、なら私はそろそろ」
「いえ、兄上、いてくださって結構です。というか、いてくださった方が有難いです」
「あの、スーイ様、ヒノワ様はまだ少しお加減が悪いのです。お時間があればあの方のお相手を……」
 隅に控えていたカロが、遠慮がちに口を挟んできたのを、慌ててマリが止めた。
「こら、差し出がましいことを……。申し訳ありません、スーイ様」
「いや、構わんよ。今日は時間がある」
「ありがとうございます、兄上。自分にそぐわぬ賛辞の嵐を延々と聞いていると、ひどく息苦しく感じるのです」
「そのようなことでは到底結婚できまい」
「意に添わぬ相手との結婚などよくあることです。慣れれば済む話だ」
「……ヒノワ」
 スーイはどんな言葉を掛けてやればいいか迷っているようだった。別にヒノワは何も求めてはいないのに。
 沈んだ室内の空気とは対照的に、上機嫌なロージアン——ルマ・ロージアンが応接室へと入ってきた。
 今日も今日とて大きな花束を持参してきて、それがいかにヒノワの美しさを引き立てるかを、大仰な身振り手振りを交えて語った。自分たちは運命なのだとも。
 アルファとオメガには、神によって結びつけられたような奇跡的に相性のよい組み合わせが存在するという。運命の二人は出会った瞬間から抗いようのない強い力で惹かれあうらしい。古くからあるお伽話めいた伝承。
 ヒノワはオメガ、ルマはアルファ。彼はその間に特別な繋がりを作りたいらしいが、しかし、惹かれ「あう」のが運命なら、彼とヒノワの間には運命などないに違いない。彼の方はどうであれ、ヒノワはこの男に麦の一粒ほども魅力を感じない。だが、彼の言葉を否定するのも億劫だった。
 ——どうでもいい……。
 色を失った灰色の心のまま日々を過ごしていれば、きっといつかは煩わしいとも思わなくなるだろう。ただそこにいて、何かを喋っている存在だと認識していればいい。
 スーイが話をしてくれたので、ヒノワは終始適当に聞き流していた。
 そんな風に全てに投げやりになっていた頃だった。「事件」が起こったのは。

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