〈エピローグ〉ひまわりのブーケ

 記憶を取り戻してからというもの、あの頃の思い出を時々夢で見るようになった。
 今日の夢は出会った日のこと。道に迷ったヒノワに声をかけてくれたサヤは、花をたくさん積んだ荷車を引いていた。花屋にそれらを売った後、待っていたヒノワにサヤは一本の花を差し出してきた。茶色の皿の周りを獅子のたてがみのように黄色い花びらが囲っている。
「よければどうぞ」
「くれるのか?」
「うん。君の髪の色に似ていたから、あげたくなって一本取っといた」
「ありがとう。これ、なんて花?」
「日輪草。太陽に向かって咲く花だよ」
 幸せな記憶。思い出せてよかった。
 目覚めはすこぶる良く、一日の始まりとしては最高だ。

 アデュタインから再びドンディナに来て半年。今も二人、マルルギにあるサヤの家で生活している。
 サヤは無事、国立医療院の研究員として復職できた。彼の助手をしているナギーが上司に上手く誤魔化してくれていたらしい。
 いわく、サヤは郷里の母が倒れて急遽駆けつけ、看病している。首にされると治療費が払えなくなり、充分な医療が受けられなくなるかもしれない。年老いて弱ったサヤの母を見殺しにするのか。そう涙ながらに語ったのだと、共に夕食を取ったときに言っていた。
 真っ赤な嘘を突き通してまでサヤの席を守っていたのは、ナギーがそれだけサヤを慕っているからだ。なかなか見る目のあるやつだ。
 ヒノワはと言えば、街の花屋で働き始めた。初めは失敗も多かったが、大らかな店主夫婦が親切に教えてくれ、なんとか一人で店番できるまでになった。
 なかなか順調な新生活だと思う。
 この日は二人とも休日で、朝からバタバタと動き回っていた。室内の掃除漏れなどを入念にチェックし終えたヒノワは、最後にキッチンに顔を出す。サヤは茶器を磨いているところのようだ。
「どうだ、間に合いそうか?」
「余裕。そっちは?」
「ばっちりだ。玄関前はもう一度掃いて綺麗にしたし、庭の花も生けた」
「頼もしいね」
 今日は特別な客を迎えるため、その準備で大忙しだ。ヒノワはそわそわと窓の外を覗く。
「もうそろそろかなあ。たしか昨日遅くに着いて宿に泊まったんだっけ」
「ここに泊まってもらえればよかったんだけど……。生憎客間は一つしかないからね。いっそのこともっと広い家に引っ越してもいいかも」
「嫌だよ。僕はこの家が好きなんだから。二人で暮らす分には何も不自由がない」
「まあ確かに。今のところは貯金かな」
「そうだぞ。将来何があるかわからない」
 予期せぬ臨時収入があって、今のサヤは大分懐が温かい。長年の借金生活から倹約が身についた彼が引っ越しなどと言い出したのは、そういうわけだ。
 臨時収入の出所は、ルマ・ロージアンの父であるジェダ・ロージアンだ。彼は息子が起こした事件について知り、五年前のサヤの入院費を遥かに超える額を支払うという申し出をしてきた。スーイによると、「ロージアン氏に情報を流したのは父上の指示ではないか」とのことだが、真偽は不明だ。
 サヤは受け取りを遠慮しようとしていたが、せめて入院費分くらいは支払わせるべきだろうとヒノワが主張した。あの怪我にサヤの過失は一切なく、一方的にルマが悪いのだから。結局借金として返済した分の金額——入院費と利子——だけを受け取るということで話がまとまった。
 ジェダ・ロージアンは息子の悪行に大層ご立腹らしく、今回サヤに支払った分の金額を自力で稼いでくるまで帰ってくるな、と言い放ち、邸から摘まみ出したらしい。息子のせいで長年続いてきたアデュタインとの友好関係が崩れるかもしれなかったのだ。それも当然だろう。いい気味だ。
 来客が待ちきれず、キッチンの中を意味もなくぐるぐる歩き回っていると、ちょうど十周目くらいで軽やかに呼び鈴が鳴る。
「あ、来た!」
「そうだね」
 揃ってお出迎えするため、キッチンから玄関へ。ドアを開けると、そこにいたのは兄のスーイ、そしてマリとカロ母子。
 手紙のやり取りはしていたが、実際に会うのはヒノワが邸を出てから初めてで、実に半年ぶりだ。生活が安定し始めたあたりから、ずっと会いたいとは言っていたのだが、スーイの予定が合わずに今日まで伸びた。
「いらっしゃい、みんな」
「お招きいただき感謝する」
 そうスーイが言い終わる前に、カロが飛び出し、抱きついてくる。
「ヒノワ様、寂しかったですー」
 マリはぎょっとして息子の襟首を引っ張る。
「こら、やめなさい!」
「いいよ。僕はもう君たちの主人じゃないんだから」
「しかし、今のご主人様の弟君です」
「私は構わないと思うがね」
「ですよね、スーイ様!」
「カロ、調子に乗るのはおやめなさい」
「まあ、とにかく中に入って」
 懐かしいやり取りに目を細めながら、居間へと案内する。
 この人数だと座る場所が足りないので、前の休日にサヤが丸椅子を庭で手作りしていた。実に素晴らしい生活能力の高さ。日々感心させられている。
 多才な彼が腕を振るい、客人に出すものとして用意したのが、ベリーのケーキと、ケーキに合うようブレンドしたという薬草茶。
 この中で間違いなく一番舌が肥えているスーイが口にするのを、ヒノワまでドキドキして見ていた。
「……うまいものだな。これをサヤが一人で作ったのか」
「はい。家庭の味って感じで王子様にお出しするのは恥ずかしいんですが……」
「恥ずかしいものか。店が開けそうなくらい出来がいい」
 ちゃっかりヒノワの隣を陣取っているカロも、それに賛同する。
「ほんと、おいしい。なかなかやるね。まあ、ヒノワ様も召し上がるんだから、これくらいはやってもらわないと」
 スーイもカロも順調に皿の空きスペースを増やしていたが、マリの皿はそのままだ。
「マリ、どうした。食べないのか?」
「スーイ様やヒノワ様と同じテーブルで物を食べるなんて、恐れ多くて。カロは随分スーイ様に甘やかされて、そういう感覚が麻痺しているのです」
「スーイ様はそれでいいっておっしゃるもん」
「まったくあなたって子は。身の程をわきまえなさい」
「まあまあ。マリ、気にせず食べて。今日ぐらい仕事を離れるといい」
「ありがとうございます、ヒノワ様……。サヤさんがせっかく作ってくださったのですものね」
 彼女は少しずつ口に運び始めた。
 この様子だと、カロもマリもスーイのところで上手くやっているようだ。手紙でそう報告されてはいたのだが、彼らの間に流れる暖かな空気を直接感じることができて安心した。
 最初に食べ終えたスーイは、まずサヤに視線をやり、それからヒノワを見た。
「今日この後のことなんだが、何か予定はあるかな」
「特には。よければ街を案内しようかと思っていたんですが」
「案内はいい。そのかわり、我々に少し付き合ってもらえるか」
「どこか行きたいところでも?」
「そんなところだ」
「ふふ、とっても素敵なことが起きますよ」
 カロはうきうきと声を弾ませてヒノワの腕を取る。
 素敵なこと? 何だろう。演奏会のチケットを取っているとか? 舌だけではなく耳も肥えているこの兄を満足させられるような演奏家は、こんな地方の街には来ないと思うが。では別のことか。
「何なんだ、それは」
「秘密です! 行ってみてのお楽しみ。ねー、スーイ様」
 まあいい。行けばはっきりすることだ。

 連れて行かれたのは街の北の外れ。街全体を見渡せる高台の上にある小さな神殿だ。自宅があるのは南側なので、到着までだいぶ歩かされることになった。
 この神殿には、建物の手入れや掃除をする管理人はいるが、常駐の神官はおらず、周辺の街の神殿と掛け持ちで、何日かに一回来る程度だ。神官や管理人が不在の時でも、日中であれば街の住人の出入りは基本的に自由だ。
 ここが行きたかった場所? 祈りの場にふさわしい静謐な空気はあるが、小さく簡素な建物で、観光向きではないはず。

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