〈エピローグ〉ひまわりのブーケ

 首をひねっていると、裏の方から出てきた人物が一行に声をかけてくる。
「ああ、お待ちしていました。さあさあ、どうぞ。入って」
 この神殿の管理人を務める男性だった。彼はいつもは誰でも開けられるはずの戸を、鍵を使って開ける。
 開け放たれた扉。中を覗き込んだヒノワの眼前に広がったのは、色とりどりの花畑。神殿の内部——机や椅子も壁面も祭壇の周りも、建物自体が温室であるかのように数え切れぬほどの花々で飾りつけられているのだ。普段は質素であるのに、別の場所に迷い込んだよう。
 圧倒され、息を呑む。
「これ……、今日は何かの祭りか?」
「祭りというか、儀式とお祝いのため、かな」
 サヤが隣に並ぶ。
「スーイ様たちやナギーに手伝ってもらって、昨日準備したんだ」
「昨日は仕事だったはずじゃ……。それに、兄上たちが到着したのは昨日の夜だったはず……」
 そんな時間などあったのか?
 スーイの訂正が入る。
「到着したのは一昨日の夜だ。この準備のために予定を早めた」
「俺は昨日仕事を休ませてもらった。初めはナギーにだけ手伝いを頼んでたんだけど……、早めに来てもらえてすごく助かりました。スーイ様は場をてきぱき仕切ってくれるし、カロくんやマリさんは手早いし」
 サヤの説明にカロが付け加える。
「サヤとナギーだけなら、徹夜でも間に合ってなかったと思うよ」
「ほんとにありがとうございます……。で、ええと、こんな風に飾り付けたのは、俺たちの式のためで」
「式……」
「新しい生活が落ち着いたらしようって言っていただろう? ちょうどスーイ様たちがこっちに来るって話もあったし、そのときどうかって手紙で相談してみたんだ。ヒノワのこと驚かせたくて、今まで黙ってた」
「……」
 日々の生活に馴染むのに精いっぱいで、言いだしっぺのくせに具体的なことは何も考えていなかった。ヒノワの知らないところで皆が動いてくれていたとは。
 サヤは隠し事が苦手なくせに、よくばれないでいられたものだ。今から考えてみれば、ここ最近ずっとそわそわしていたのは、スーイたちの訪問を気にしているからだと思っていたが、これがあったからなのか。
 彼はしきりにのきょろきょろと辺りを見渡している。
「えっと、ちゃんと神官の方にも連絡を取って、今日来ていただいているんだ。衣装もちゃんと用意してて……。あ、着替えなきゃ」
「その前に! 昨日話し合ったでしょ?」
 カロに指摘され、サヤは頷く。
「ああ、そうだった。ええと、あの」
 彼はぎこちない動きでヒノワの前に立ち、両手を取る。汗ばんだ手——緊張しているらしい。
「……自分勝手に攫ってこんなとこにまで連れてきたり、家や身分を捨てさせたり、俺のせいでごめん。ヒノワが色々なことを許してくれた分、与えてくれた分、俺も返せるように頑張るから。だから、けじめとして今日式を挙げて、ちゃんと夫婦になりたい。なってほしい」
「今更僕が否やを言うはずはないのに、どうしてそんなに硬くなっているんだ?」
「初めてのことは緊張するものなんだよ」
「そうなのか? まあ、うん、夫婦になるよ。というか、この半年間、ずっとそうだと思ってきた」
「よかった……。それから、あ、そうだ、あれだ。えっと、どこに……」
「これです、ラウェンさん」
 いつの間にか会場入りしていた医療院の助手ナギーが、サヤにさっと何かを渡す。サヤはそれをヒノワに差し出す。鮮やかな黄色の花束だ。
「これ……、日輪草?」
「ああ。その花も、ここに飾った花もほとんど研究所の温室で育てたやつなんだ。この日のために開花を調整した。特に日輪草には力を入れたんだ。ヒノワにとても似合う花だから」
「……なんか」
 笑いがこみ上げてくる。——楽しくて、嬉しくて。
「順番がめちゃくちゃだな……」
「あれ、そうだった?」
「だって、結婚式の会場に来る前にプロポーズするのが普通だし、プロポーズの返事を聞く前に花を差し出すのが普通だし」
「そういえばそうだね……。格好がつかないな。やり直す?」
「ううん、いい。サヤらしくて好きだよ。それから、僕が一方的にサヤを許したり与えたりしているわけじゃないから、返そうなんて考えなくていい。僕もたくさんのものをもらっている」
「ヒノワ……」
「なんだ、もう、どうした」
「……だって」
 彼が微かに涙ぐんでいたので、こちらももらい泣きしそうになった。まだ式が始まってもいないのに。
 しんみりしそうになる雰囲気を打ち破ったのはカロだ。
「あー、何だかふわっと始まってふわっと終わったので、僕たちも拍手のタイミングを見失いました!」
「今どうぞ!」
 パチパチパチ、祝福の音が響く。

 式にはハンナら他の元使用人たちも、少し遅れて来てくれた。世話になっている花屋の夫婦にはナギーが声をかけてくれており、列席してくれた。
 誓いの式の後、神殿の庭にテーブルを出して立食パーティーが催される。料理はスーイが手配してくれていた。滞在中のホテルのレストランからシェフを呼んでくれたらしい。優秀な兄の準備の良さに感心しきりだ。
 陽気な花屋の主人を中心に、酒が入って盛り上がる列席者たちから離れ、ヒノワはサヤを連れて神殿の裏手へ回る。
 管理人の趣味で設置されたというウッドデッキは、マルルギの街並みが一望できる隠れた絶景スポットだ。
 風が強く、髪と衣装の裾をはためかせる。ドンディナ式の純白の婚礼衣装は緻密な刺繍が美しく、サヤはかなり張り込んだに違いない。いったいいつから用意していたのやら。
 傍らに目をやると、美しい演奏に聞き入るかのようなうっとりとした表情で、彼はこちらを見つめていた。普段からわかりやすくはあるが、こうも感情をあからさまにされると、さすがに照れてしまう。
「……そんなに気に入ったか?」
「綺麗だよ、ヒノワ」
「それはどうもありがとう。サヤもいつにも増していい男だぞ」
 彼の方も揃いの衣装を身に纏っていた。いつもは簡素な装いばかりのため、今日は別人のようでどぎまぎしてしまい、着替え終わった後の彼のことはあまり直視はしないようにしていた。父王との謁見の際に着用していた借り物の礼服ともまた違って、彼の身に合ってよく似合っている。
 揃いの婚礼衣装を着て、祭壇の前で誓った。これでもう正真正銘、正式な夫婦。
「……あの夢は、過去の記憶であり、予知夢でもあったのかも」
「何のこと?」
「初めて出会った日のこと、覚えているか? 今朝方当時の夢を見たんだ。サヤは僕に日輪草を一本くれた」
「んー、そんなこともあったね」
「今日も日輪草をもらった。不思議な一致だと思って」
「ほんとだね。……君に初めて花を贈ったあの日から、こうなることは決まっていたのかな」
「そうかもしれないな」
 随分遠回りをしてしまったけれど、行き着くところに行き着いた。この人がずっとヒノワを諦めずにいてくれたから。
 ——母上、見てくださっていますか……?
 首から下げたロケットペンダントに、そっと掌を当てる。手紙と一緒に邸宛に送ったこのペンダントは、ドンディナへ出立する前にカロから返却された。母の肖像画はちゃんと元に戻してある。
 彼女は不幸な道をたどってしまったけれど、ヒノワは己の片割れとは決して離れぬと誓うから。
 さっと彼の横顔にキスをする。
「……ん?」
「ありがとう」
「あ、うん、こちらこそ」
 今日がまた新たな始まり。この先、再び逆境に苦しむことがあるかもしれないが、彼となら何だって乗り越えられる気がした。
 そうして、カロが探しに来るまで、これから長く暮らしていくことになる街の風景を、並んで眺めていた。

予期しない問題が発生しました。後でもう一度やり直すか、他の方法で管理者に連絡してください。
1 2