(番外編)恋しいのは

 十月も末になり、大分肌寒くなってきた。
 瀬上と共に学部棟を出た伊月は、冷たい風に強く煽られ、自分の両腕をさする。厚手のパーカーを羽織ってきてよかった。昼間はともかく、夕方になってくると外は寒く、瀬上のように長袖のTシャツに薄手のカーディガンだけではつらいと思う。
 瀬上は「寒さに強いので平気だ!」と言い張っていたが、おそらく無意識だろう、両手を擦り合わせていた。風邪を引かないといいが。
 五限終わりで家路につく学生たちに混じり、二人肩を並べ、正門まで歩く。いつもより心持ち早足の瀬上は、スマホのロック画面をチェックして、何も通知がなかったのかすぐに仕舞う。
「今日だっけ? 堂島さんが帰ってくんの」
「ん、土曜日」
「あれ? 初め水曜日に帰ってくるって言ってて、飛行機飛ばなくて木曜日になったんじゃなかった?」
「そのつもりだったらしいんだけど、チケット取り間違えたらしい」
「へえ、災難だな」
 陽介は従兄が海外挙式をするということで、現在常夏の国にいる。先週日曜夜の便で出発した。「海外挙式っていうだけでも迷惑なのに、平日なんて何を考えてるんだ!」と随分お怒りのご様子だった。
 夏穂は連ドラ撮影中で仕事を休めず、下の妹弟は受験生のため学校を休めない。兄弟のうち、一番自由が利く陽介が、代表として両親と共に出席することになったそうだ。
 当初、水曜日夜に帰ってき次第会う予定だったのだが、「荒天でフライトキャンセルになって、帰ってくるのは明日になる」と電話が来たのが水曜日早朝のこと。
 そして、木曜日、つまり今日、また早朝に陽介から電話があった。チケット予約を買って出た従兄が日付を間違え、現地金曜日昼過ぎ出発、土曜日夕方着の便を取っていたらしい。取り直そうにも、木曜日着、金曜日着の便に空きはなし。「自分で取ればよかった!」と陽介は荒れていた。
 ちなみに、先週土曜日、伊月は母方の曾祖母の法事があったため、泊まりがけで遠方の祖父母の家に行っていた。帰ってきたのは日曜日の夜で、陽介の出発と入れ違いになったため、彼とは土曜日から会っていない。あれから六日が経った。
 ため息をついた伊月を、瀬上は何を勘違いしたのか、ニヤニヤして覗き込む。
「寂しい?」
「別に……、そんなことない。電話もメールもしてるし」
「そうなの? なんかいっつもべったりって感じだったからさあ。夜しくしく泣いてんじゃないかって心配だったの」
「そんなに言うほどべったりじゃない。あっちはあっちでリゾートを満喫してるんだろうし、俺も適当にやるわ。こんがり日焼けして帰ってきたら、思いっきり笑ってやるんだ」
「こっちはこれからどんどん寒くなんのにな。こんがりだったら、確かに面白いわ」
 電話では早く帰りたいと言っていたが、陽介がいるのは人気の南国リゾート地。眩しい陽射し、抜けるような青空、煌めく海、白く美しい砂浜、陽気な音楽に美味しい食事。楽しくないはずがない。
 しかも、旅費は新郎新婦持ちらしい。羨ましすぎる。どんなセレブだ、新郎新婦。
 スマホが振動し、瀬上は再度チェックする。
「……あ」
「なに、カナちゃんからメール? 今日デートなんだろ」
「うん。今こっちに着いたって」
「え、来てんの?」
「正門の脇にいるらしい。うちの大学見てみたいから、用事が早く終われば来るかもって言ってたんだ」
「へえ。会いたい」
 瀬上が件のガールフレンドのことを可愛い可愛いと絶賛するので、ずっと会ってみたいとは思っていた。
「紹介するよ。めっちゃ可愛いからな。惚れんなよ」
 正門を抜け、二人してきょろきょろしていると、小柄な女の子が駆け寄ってきた。満面の笑みで、こちらに手を振る。
信治(しんじ)くん!」
「あ、いたいた」
 伊月たちと同い年で、専門学校に通っているというカナちゃんは、ショートカットで丸顔の、愛嬌の塊のような人だった。
 三人でお茶をしたいとカナちゃんが言い出し、駅前のカフェで三十分くらい話をした。瀬上とカナちゃんは本当に仲が良く、いい雰囲気で、伊月は羨ましくなった。
 可愛い彼女のいる瀬上が羨ましいのではない。これからデートするという彼らの状況が羨ましいのだ。
 ——会いたいな……。
 南の空の下で、あの人は今何をしているのだろう。

 自宅に帰り着き、黙々と課題をこなす。週末は陽介が帰ってきてバタバタするだろうから、今抱えている分は終わらせておきたいのだ。
 何とか片付けてしまったところで、ノートパソコンを閉じ、夕食を取ることにする。
 今日は駅前のお弁当屋さんのスタミナ弁当を選んだ。あのお弁当屋さんの中で一番好きなメニューなのだが、最近は食べていなかった。ニンニクたっぷりの豚肉炒めのせいで、食べ終わった後の口臭が気になるから。だが、今日も明日もキスする予定がない。心置きなく堪能できる。ぺろりと完食してしまった。
 風呂に入った後、歯磨きしながら、いつもの習慣でテレビ番組の録画を見始めた。バニバニ出演の音楽番組だ。夏穂出演の連ドラは、陽介が帰ってきてから一緒に見ようと決めていた。
 未視聴の録画を消化してしまって、バニバニ関連の過去の録画を遡って見ていく。
 大好きなバニバニの映像を楽しめないことは決してないのだが、一人だと時間が経つのがとても遅い。陽介の部屋にいる時だと、夕飯を食べて少しゆっくりしていたら、すぐに寝る時間が来てしまうのに。
「電話したいな……」
 昨日一昨日は、夜十一時頃に向こうから電話が架かってきて、眠くなるまで喋っていた。今架けると、寝る時間までかなりある。眠くなる前に切らなければならなくなる。できることなら、声を聞きながら寝たい。
 欲を言うなら、声だけではなく、あの匂いも嗅ぎたい。出発前に匂いのするものを残しておいてもらうんだった。もう六日も嗅いでいない。六日も。
「……そういえば」
 何かあったら使って、と陽介宅の予備の鍵を預かっていたのだった。少しだけ——、匂いを吸い込みに行くだけならいいだろうか。匂いのついたものを持って帰りたいくらいだが、それは我慢するから。
 思いついたら、居ても立っても居られず、上着を羽織り、鍵と財布とスマホだけ持ち、部屋を飛び出した。
 小走りで駆けて、陽介宅へとやって来る。
 鍵を開けて玄関に入り、大きく深呼吸。吸って吐いて、吸って吐いて。甘く優しい匂いが肺を満たしていく。しかし、物足りない。もっと濃い匂いがいい。
 靴を脱いで上がり込み、居間へ行く。明かりをつけて、ここでいつもしているように、カーペットの上に座りこむ。とても落ち着く。この心地良い空間で時間を潰して、十一時前になったら帰ろう。
 テレビをつけ、ぼんやりと流し見しているうち、一時間のバラエティ番組が終わった。ニュース番組に切り替わり、画面中で、不祥事を起こした企業のトップが謝罪している。チャンネルを変え、他に何か明るくなるような番組を探すも、めぼしいものがない。
「……はあ。どうしようかな」
 いつも二人で過ごしている空間に一人だけというのは、やはり物足りない。時間が経つごとに違和感が大きくなる。
 寝室のドアを見つめる。あそこの匂いが一番濃い。行きたい。行ってもいいだろうか。しかし、あそこに入ったら、朝まで出てこられなくなる気がする。匂いを堪能しているうち、リラックスしすぎて、ぐっすり眠りこけてしまうだろう。
 部屋の主がいないのに、勝手に入った上に勝手に泊まるなんて、バレたら嫌な顔をされるかもしれない。伊月なら嫌だ。隠してあるバニバニグッズを見られたくない。陽介にだって伊月に見られたくないものくらいあるはず。
 陽介が帰ってくるまで、あと二日あるとはいえ、滞在時間が長ければ長いほど伊月の匂いが残る。おそらく泊まればバレる。彼はおそろしく鼻がよく、伊月の体調が悪いとか、嫌なことがあったとか、些細な匂いの変化から言い当ててしまうことがあるのだ。
 しばし葛藤するも、結局誘惑に負けた。寝転ばなければいい。寝転ばなければ寝ない。匂いだけ嗅いで、鼻が満足したらさっさと帰ろう。そうしよう。
 誰に監視されているわけでもないのに、そっと寝室のドアを開け、忍び足でベッドの側へ近寄る。
 枕を持ち上げると、初めて陽介が伊月の部屋に来たときにしていたように、枕に顔をうずめた。さらに、枕を縦にして抱きつく。枕の体積が半分になるくらい、ぎゅっと抱きしめ、くんくん嗅ぐ。これはいい。実物には及ばないが、それに近い濃さだ。
 すると、身体は正直なもので、如実に反応を示す。
「あー、まずい……」
 眠くなるどころか、下半身が起き出してきてしまう。この部屋でこの匂いに包まれて、何度もした。したい。今すぐしたい。ものすごくしたい。もう六日もしていない。どうしよう。我慢できない。
 その誘惑にも、やはり伊月は負けてしまうのだった。この匂いは、伊月を欲に対して従順にさせる力を持っている。どうやって欲求を抑えるかではなく、いかに早く終わらせて短時間で帰るか、その方法を考え始める。
 寝そべったら終わった後そのまま寝そうだ。しばらく考え、いい案が浮かんだ。ベッドの端に枕を置き、その前の床に膝を突く。側にはしっかりボックスティッシュをスタンバイさせておき、枕の上に顔を乗せる。なかなかいい感じだ。端から見ればかなり間抜けだろうが、観客などいないので構わない。
 顔を枕にうずめたまま、背中側からズボンの中に手を伸ばす。だが、穿いたままだとやりづらい。ズボンも下着も脱いでしまう。早く終わらせよう。溜まっているものを出せばすっきりするのだ。いつもそうだ。
 猫のように尻を突き出し、割れ目に指を滑らせる。たどり着いた穴にずっぽりと差し込む前に、穴の表面を軽くマッサージしてから、円を描くようにして口を拡げる。それだけで身体は準備を始めて濡れてくる。
 指を入れ込む。中指と人差し指くらいは余裕だ。ゆっくり出し入れすると、柔らかな壁がくちゅくちゅと指をしゃぶる。後ろから弄られているみたい。そういえば、初めてしたときはバックだったな、と思い出す。
「あっ……、ぁ……」
 指を押し進めながら、弱い箇所を探る。そこを一撫でしてみると、呼び掛けに応えるように子宮が収縮した。陽介の手つきを真似て、弱く叩いてみたり、ぐるりとなぞってみたりする。
 気持ちいいことは気持ちいいのだが、上限がある感じで、否応なく高みに引っ張り上げられるような、あの感覚がない。ひどくもどかしい。
「なんで……」
 こんなのじゃいけない。同時に前もこすってみるが、あまり効果は無い。やっぱりやめておけばよかったか。中途半端に火がついて、くすぶって、燃え上がりもしなければ消えもしない、この状態が続くのはつらい。
 彼が帰ってくるまであと二日もあるのに。帰国当日にできるならまだいい。その日は疲れていて、抱いてもらえないかもしれない。
 過去の情事を思い浮かべながら、しばらく続けてみるが、状況は変わらない。そろそろ手が疲れてきたころ、スマホの着信音が鳴った。電話だ。もうそんな時間か。
 ティッシュで指を拭き、上着のポケットからスマホを取り出す。画面に表示されているのは陽介の名前だ。すぐさま応答する。
「……はい。もしもし」
『伊月? どうしたの。寝てた?』
「ううん。起きてた」
『そう。なんか眠そうな声だったからさ。何してたの。課題終わった?』
「うん。やらなきゃいけないことは終わった」
『なんか元気ないんじゃない?』
 一日ぶりに聞く彼の声にほっとして、力が抜ける。オナニーでいけません、といきなりぶっちゃけるのは躊躇われ、適当に濁す。
「ちょっと困ってて……」
『なに? 大学で誰かに何かされた?』
「ううん。それは大丈夫」
『じゃあ、何に困ってるの』
「大したことない。大丈夫」
『心配だなあ。無理してない?』
 帰国が延び延びになり、陽介は伊月の大学での様子をとても気にしているようだった。彼の不在を狙って、伊月が虐められていないか心配なのだそうだ。

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