(番外編)恋しいのは

 確かに、伊月がオメガだと暴露されてから、急によそよそしい態度を取る者が増えた。軽蔑の目や好奇の目を向けられることもある。
 だが、瀬上は変わらない態度でいてくれて、本当に助けられているし、瀬上の他にも、挨拶をすれば返してくれる者はいる。聞こえてくるのは噂話程度で、直接暴言を浴びせられることはない。物を隠されたり暴力を振るわれたりという実害もない。想像していたよりはずっとマシな状況だ。それは陽介が不在の間も変わらない。
 今の状況が恵まれているだけなのかもしれないが、先のことを考えて悲観的になりすぎてもつらいだけなので、そうならないように気を付けてはいる。
『伊月には僕がいないとね』
「うん……」
 声を聞いているとむらむらが煽られて、通話をスピーカーにし、先ほどのように弄り始める。
 耳によく馴染む声が、全身を抱擁する。
『チケットを取り間違えてなかったら、今頃そっちに帰って、直接伊月の話を聞いてあげられたよね。ああ、もう、やだ。リゾート飽きた』
「……」
『延長滞在費も出すから楽しんで、じゃないんだよ、あの馬鹿従兄。こっちは早く帰りたいんだよ。ね? 伊月だって寂しいよね』
「……」
『伊月?』
「え、なに?」
『なにって返事がないから』
「……ん、別に何でも。いいから、もうちょっとなんか一人で喋ってて」
 頑なな自分の身体は、この電話の前よりは感じやすくなっているように思う。声と匂いがあれば——。でも、いくら枕をぎゅっとしたって、抱きしめ返してはくれないし、キスもできない。キスしたいな。今なら後ろを弄ってもらわなくても、キスだけでいけそう。
 彼は敏感にこちらの状況を察したようだ。
『……もしかして、一人で楽しんでる?』
「そんなこと……」
『ないことないよね。そういや、さっきからハアハア言ってるの聞こえてきてたよ。僕の声聞いてエッチな気分になっちゃった?』
「その前から……。今あんたの部屋。匂い嗅ぎたくて勝手に入っちゃった。ごめん」
『ずるい。僕はもうずっと嗅いでないのに。それで、僕の匂いくんくんしながら一人でしてたんだ』
「うん……。でも、いけなくて困ってた。こんなことしちゃうって、やっぱ俺、ビッチだからなのかなあ」
 床にぺたりと腰を下ろし、枕に頬ずりする。この枕が本物になればいいのに。今すぐ奥までぐちゃぐちゃにされたい。何も考えられないくらい「気持ちいい」がいっぱいほしい。
 セックスしたくてたまらなくなるなんて、以前の自分からは想像もできないことだ。
『なんでそんな風に思うの?』
「前はこんなんじゃなかったのに、今はすぐしたくなる。隠れてたオメガの能力が目覚めた的な?」
『それは、気持ちいいってどういうことか、知った後だからだろう? 知る前と後じゃ変わって当たり前。伊月がどんどんエッチになっていくの、僕としては嬉しい限りだよ』
「俺は困るけどな」
 したくてたまらないのに、一人で上手くできない。
 もういくらやっても駄目かもしれない。続ければ続けるほど、彼がここにいないという事実が突きつけられる。諦めよう。下半身が裸のままではいい加減寒いので、下着とズボンを身につけた。
 このまま、横になって眠りたい。勝手に部屋に入ったことには怒らなかったし、頼み事をしても聞き入れてもらえるだろうか。
「お願いがあるんだけど」
『なに?』
「今日、このベッドで寝てもいい?」
『いいよ、もちろん。今日だけじゃなくていつでも使って。そのために合鍵渡したんだから』
「……合鍵だったんだ」
『そうだけど』
「てっきり、留守を頼む、みたいな感じで、予備の鍵を預けられたんだとばかり。旅行から帰ってきたら返そうかと……」
 合鍵なんて説明もなく、何かあったら使って、としか言われなかった。合鍵を贈られるなんて、ドラマみたいだ。
 伊月の地元は、家族二世代三世代同居か高齢者のみの一軒家ばかりなので、身内以外に自宅の合鍵を渡すなんて発想が出てこない。
 陽介が会話の続きを投げ返してくるまでに間があった。また呆れられているのだろうか。
『……またそんな不思議な解釈を。鍵は返さなくていい。その部屋は自由に使ってもらっていいよ。ベッドで布団にくるまってオナニーでも何でもお好きにどうぞ』
「なんかもう萎えちゃった。でも、むずむずが完全に引いたわけじゃないし、変な感じ」
『じゃあ、そのまま土曜日まで我慢しててよ。帰ったら二人でしよ。我慢した分、きっとすごく気持ちいいよ』
「土曜日できる? 疲れてない?」
 飛行機の座席は、新幹線と違って、とにかく狭くて窮屈だ。伊月は国内旅行で最長二時間ぐらいしか乗ったことがないが、それでも腰が痛くなった。あんなところに何時間も押し込められるのだ。へとへとになって当然だろう。
 早く抱いてもらえれば嬉しいが、やりたくもないのに付き合わせるのは申し訳ない。自分の手で処理する間、寝ながら抱っこしていてくれれば、それで充分ありがたい。——本当はものすごくやりたいけれど。
 陽介からは頼もしい答えが返ってきた。
『疲れてても、伊月の顔見たら元気になるよ、主にあれが』
「陽介もそれまで我慢する?」
『する。といっても、昨日したけど』
「え……」
『あ、一人で抜いたんだよ! 他人の手は借りてないから』
「いや、わかってるけど、あんたでも一人でするんだって思って」
『そりゃ溜まれば出すさ』
 伊月だけだと言ってくれたから、それを信じてはいる。ただ、何の心配も無いわけではない。
 上着を脱いで身軽になり、布団の中に潜り込む。
「まあ、ちょっとは考えたよ。ビーチのイケイケ水着ギャルにナンパされてないかな、とか」
『ビーチになんか行ってない。今、こっち何時だと思う?』
「えっと……、時差何時間だっけ?」
『朝の四時半。君と話すために寝ずに起きててこの時間。だから、昼間はホテルで寝てる』
「え、もったいない……」
『いいんだよ。そっちの時間に合わせた方が時差ボケ少なくて済むし。だいたい、ここは海に行くか買い物行くくらいしかすることないんだよ。砂浜の砂が嫌いだから海には用がないし、買い物は初日に終わったし、今はただ一刻も早く帰国したい』
「そっか。もっと南国の風を満喫してて、トーストレベルにこんがり焼けて帰って来るもんだと」
『お陰様で美肌キープしてるよ。君には負けるけどね』
「うん、そっか。よかった、安心した」
 浮気まではいかないまでも、水着ギャルに誘われて、一緒にマリンスポーツとか、食事とか、それだけでも嫌だったのだ。
 ——会いたい。今すぐ。
 思いは同じようで、さらに伊月を安堵させる。
『早く会いたい』
「俺も」
『大好きって言って』
「帰ってきてからな」
『言ったな。約束だからね。あと、オナ禁の件も』
「わかってる」
 眠くなるまで、その後もう少しだけ喋った。ただただ土曜日が待ち遠しかった。

 お言葉に甘えさせていただいて、金曜日も陽介宅に泊まった。もちろん、我慢するという約束は守っている。
 明けて、いよいよ土曜日。陽介が乗った飛行機は、午後六時頃着らしい。帰ってくるのはそれより大分後になる。電車の到着時間がわかったら知らせてくれるというので、駅まで迎えに行くつもりだ。
 午前中は掃除と洗濯をして忙しく過ごした。木曜日と金曜日に部屋を使わせてもらったから、せめて綺麗にしておかないといけない。
 午後からは夕飯の買い出しだ。それだけだと時間が余りすぎるので、スーパーに寄る前に駅前のカラオケボックスに行った。陽介がいないうちに、一人でしかできないことをやっておこうと思ったのだ。フリータイムで入って、久々に思う存分バニバニ曲を熱唱する。
 伊月は一人カラオケ派だ。理由は単純、握ったマイクは離したくないから。それに、伊月が振り付きで全力を出して歌うと、経験上、同席者には大抵引かれる。愛が滲み出しすぎてしまうらしい。引かれて恥ずかしい思いをするくらいなら、他人に目を気にせず、一人で思い切り歌った方がいい。
 陽介は伊月を側に置きたがり、休日に伊月一人で外出するのを嫌がるから、彼のいない今はカラオケを満喫するチャンスなのだ。
 大いに歌って踊ってから、カラオケボックスを出る。帰りにスーパーで買い物し、陽介宅に帰ってきたのが夕方。炊飯器に洗った米をセットし、風呂に入って髪を乾かした後は、もうすることがない。
 まだ到着予定を知らせるメッセージは来ない。さて、何をして待っていよう。カーペットに座って考えていると、昨日ドキドキしてあまり眠れなかったためか、睡魔が忍び寄ってくる。船を漕ぐ、はっとして時計を確認する、また船を漕ぐ、を繰り返し、いつの間にか深く寝入ってしまっていた。
 目を覚ましたのは、八時二十分。スマホに陽介からメッセージが来ていた。『八時三十二分着の電車に乗った』とある。——あと十二分。
 鍵とスマホと、念のため財布を持ち、上着を羽織って大急ぎで出発した。
 幸い、電車到着の二分前に着いた。南口改札の前で待つ。胸が高鳴って、はやる心を抑えきれない。もうすぐ会える、もうすぐ会える、もうすぐやれる、違った、会える。
 改札の向こうから人の群れがぞろぞろと歩いてくる。その中に陽介がいるのはすぐにわかった。目が合う。彼は改札を抜けて、スーツケースを引きずりながらこちらにやって来る。とても疲れた様子であるのは、雰囲気ですぐ察せられた。
 やはり、伊月の溜まった性欲を発散させるのに付き合わせるのは、可哀想かもしれない。今日は何も言わず寝かせてあげるべきだ。そうだ、そうしろ、それが愛情というものだ。
 なるべく普段通りにするよう心がけつつ、明るく言う。
「おかえり」
 実に八日ぶりの再会だというのに、陽介はどこか不満げだ。
「ただいま。……なんだ。もっとそわそわして待っててくれてると思ってたのに」
「そわそわしてたぞ」
「嘘。だってさっきまで寝てただろう。ほっぺに寝跡、髪に寝癖、ついてる」
「ああ、昨日そわそわして、あんまり眠れなかったから。気を抜いたらぐっすり」
 ちらっと鏡ぐらい見てから出てくるんだった。癖っ毛を全体的に触ってみると、確かにいつもと違う方向を向いている部分がある。
 陽介は手元でちらりと時間を確認した。
「ふうん。まあいいけど。晩ご飯どうする? 適当に食べて帰ろうよ」
「家で食べないのか?」
「なんか用意してくれたの?」
「米炊いて、冷凍食品買っといただけ。あんたが食べるかどうかわかんないから、手作りなんかしない方がいいと思って」
「じゃあ、それはまた食べるとして、今日は外で食べよ」
「いいけど、なんで?」
 本音を言うと、早く二人きりになりたいので、家で食べたい。
 スーツケースに体重をかけ、彼は軽くため息をつく。
「すぐに家に帰ったら、食いっぱぐれちゃいそうだから。晩ご飯より先に君を——」
「わあ、外でそういうことを言うなって何度言えば」

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