(番外編)初めての夜のこと

 故郷のユリスにいた頃は、身近に本があるような環境ではなかったが、最近のリタは読書家だ。今日も一通りの家事を終わらせてから、居間でゆったり本と向き合っていた。
 町娘ジュリエットと貴族の坊ちゃんエリックが身分の差を超えて惹かれあうラブストーリーで、図書館で借りてきたものだ。
 アルもたくさんの本を所有していたが、彼から借りるのは早々に諦めた。暗号のように難解な本ばかりで、理解できる単語がほとんどなく、どれもこれも一ページ目で挫折してしまった。
 今読んでいるものはアルの本より遥かに易しいが、わからない言葉はぽつぽつ出てくる。無理矢理読み進めるのにも限界が出てきた。この本もリタにはまだ早かっただろうか。
 先の方までめくって挿絵だけ見ていると、二階でドアの開閉音がして、顔を上げる。階段と廊下を移動する足音の後、アルが居間に姿を見せる。
「おや、勉強かい」
「うん。どうしたの、アル。お茶? 入れる?」
「いや、欲しいなら自分でやるから。そろそろ夕飯の買い物の時間かと思ってね」
「そうだねえ。一緒に行ってくれるの?」
「ああ。ちょうど必要なものがあって」
「行こう行こう」
 本を閉じて置き、腰を上げる。
 このところアルはまた書斎にこもりきりになっていた。忙しいようだ。おつかいぐらいいくらでも言いつけてもらって構わないのだが、もしかしてリタが寂しい思いをしているのを察して、出かける時間を作ってくれたのだろうか。気を遣ってもらうのは嬉しいような申し訳ないような。でも、やっぱり嬉しい。
 アルはテーブルに置かれた本の赤い表紙に目を留める。
「それ、何を読んでたんだい」
「ん、司書さんおすすめの恋愛物を借りてきた」
「野薔薇の姫君、誓いの純潔……って、なにこれ」
「女学生の間で流行ってるんだって。司書さん、すごく詳しくていろいろ教えてくれる」
「新婚初夜云々の本も?」
「そうだよ」
「まったくうちの子に何を……」
 彼は深々と溜息をつく。
 変なの。うちの子、なんて母親みたいだ。リタは母を知らないが、孤児院の近所の女性が子供に言っているのは何度も聞いたことがある。リタはまだまだ色々と教えてもらうこと多く、未熟だからだろうか。たくさん学んで早く賢くなろう。
 この機会に少しだけ質問しようと、再び本を手に取る。
「でね、わかんない言葉があるんだ」
「どれ?」
「これ」
 パラパラとページをめくり、見慣れない綴りの単語を指さす。アルはそれを覗き込んで頷く。
「没落、だね。没落貴族。落ちぶれて偉くなくなった貴族のことだよ。ジュリエットという人が没落貴族の娘だった、ってことみたいだね」
「なるほど。だから、ジュリエットはお姫様ってことなのか」
 さらにもう数ページめくる。
「じゃあ、これは?」
「どれどれ」
 アルは横から前後の内容に目を通し、渋面を作った。
「……近頃の女学生はこんなのを読んでるのか」
「ここら辺からわからない単語が連発するんだ。ねえ、これ何?」
「屹立、だね」
「キツリツって何?」
「山とかがそびえ立っていることだね」
「これは?」
「蜜壺」
「蜜の入っている壺?」
「その通り」
「……なんで突然山とか壺が出てくるの?」
「これは比喩表現だよ。あるものを別のものに喩えているんだ」
「何を何に喩えてるってこと?」
「それは読者自身が感じ取ることだよ」
「えー」
 屹立で蜜壺を——、山で壺を掻き混ぜるってどういうことだろう。蜂蜜を混ぜるときに使うのはハニーディッパー。山はハニーディッパーのことか? ハニーディッパーに山の要素は全くないように思うが。
 先端が山のような形のディッパーでとろとろの蜂蜜を掻き混ぜているシーンを想像しようとしていると、お腹が空いてくる時間帯、蜂蜜入りのカップケーキが食べたくなってきた。
 いやいや、駄目だ駄目だ。本に集中。せっかく教えてもらえるチャンスなのに。
「あとはね、これとか」
「破瓜……、いや、もう他のページにしない?」
「ハカって何?」
「女性が純潔を失うこと。タイトルに誓いの純潔って入っているのに、序盤で早速失ってるってどういうこと?」
「つまり、初めてエッチしたっていう?」
「そういうことだね」
「ほうほう」
 言われてみれば、直前のページにジュリエットとエリックが抱きあっている挿絵がある。
 ディッパーで蜂蜜を……、ああ、そうか、そういうことか。そそり立ったものをとろとろの場所に出したり入れたりして掻き混ぜていたわけか。なんというか、とてもエロティックだ。ドキドキする。
 好きな人との初めてはさぞかし幸せなはず——、しかし、ジュリエットは痛みで涙をこぼした、とある。かわいそうに。
「僕の破瓜は痛くなかったよ。すっごく気持ちよかった!」
「破瓜って女性限定の話なんだけど……、まあ、痛くなかったならよかった」
「ねえ、ジュリエットが痛がってたってことは、エリックが下手くそだったってこと? 蜜壺っていうくらい濡れてたのに痛いってよっぽどじゃない?」
「知らないよ。僕はその本読んでないんだから。勉強なら、もっと健全な本にすればいいのに。知らない国を冒険する物語とかわくわくするやつ」
「だって、こういう本って閨事の勉強になるし」
「本の内容を鵜呑みにするのはやめなさいね。女と男じゃ身体も違う。実際にやると危険なことをやってたりもするし、聞きたいことは僕に聞けばいい」
「こう、知らないうちに上達して誉められたいんだ。サプラーイズ!みたいな」
「やめなさいって。自分で育てたって感じがすごくいいのに。他の男の知識なんか、君は入れなくていい」
「書いてるの男の人なの?」
「著者名がダスティンってなっているから男なんじゃない」
「へえ」
 会ったこともない男に、アルはやきもちを焼いているのだろうか。意外、でもないか。以前からアルにはそういうところがあった。何でもないことに嫉妬するような。
「ほら、行くよ、買い物」
「うん」
 促され、リタは鞄を取りに二階へ上った。

 今でこそ触れるのも触れられるのも日常になったが、リタとアルにももちろん「初めて」はあった。
 初めて身も心も結ばれた——、有り体に言えば、お互いに求め合った上で身体を繋げたのは、恋人になってすぐのことではなく、半年ほど経った後のこと。
 自分を受け入れさせることに、アルは当初ものすごく慎重だった。まずは後孔以外の部分で性感を教え、リタの身体が貪欲に変わってきたころ、ようやく指を入れられた。徐々に開かれ、指を招き入れることに悦びを覚えるようになってからも、なかなかその時は訪れなかった。
 アルが一番気持ち良くなれるもので、リタの中を埋めてほしい。ちゃんと繋がりたい。そうしないと、きっとずっと恋人になったという実感が持てないまま。そんな気がして、ベッドの上で何度せがんでも、彼は頑なだった。
 アルの仕事が立て込んでいるときは触ってさえもらえなくなり、さらに不安になった。一生懸命働いてくれているのだから、寂しい、構ってほしいなんて、本当は思っちゃいけないのだろうけど。
 ——もやもやしたもどかしい思いと戦っていた、そんなある日の夜。
 明かりの漏れる書斎のドアに、小さく「おやすみなさい」を言ってから、自分の寝室に入る。この日も一日こまごまとよく動き回っていたので、ほどよく疲れている。独り寝の寂しさで胸が苦しくなる前に眠ってしまえるだろう。
 毛布の中に潜り込み、壁の方を向いて横たわった。一人のときは尻尾を抱き込み、丸まって寝るのが癖だ。目を閉じ、獣の耳も伏せさせ、四肢の力を抜く。眠りはすぐにやって来て、ふわりとリタを包む。
 夜中に目を覚ますことなど滅多にない。いつもは朝の鐘の音が鳴るまで夢の中。だが、この日はドアの開く音がリタの眠りを途切れさせた。
 微かな足音と気配が近づいてくる。この家の住人はリタとアルの二人だけだから、入って来たのはアルに違いない。ここはリタ個人の寝室だが、疲れが溜まっていて間違えたのだろうか。
 ベッドの端が沈む。座ったらしい。手が柔らかい癖っ毛を優しく撫でる。——もしかして、部屋を間違えたのではなく、リタの様子を見に来てくれたのか?
 薄目を開けて寝返りを打ち、彼の方を向く。
「……アル」
「ごめん、起こしたね」
「もう寝るの?」
「ああ。キリがいいところまで終わったから」
「じゃあ、ここに来て」
 端に寄って毛布を捲り、空いた場所をとんとん叩く。
「ほらほら」
「ここはあっちのベッドより狭いだろう」
「くっついたらいける」
「そうだね。君は寝相がいいから大丈夫かな」
 隣にアルが来てくれる。久しぶりだ。触れ合いに飢えていたから、くっついていられるだけでも今は嬉しい。
「お疲れ様、アル」
「君もね。ああ、さっきみたいに壁の方を向いててくれた方が寝やすいかも」
「んー」
「そう」
 背中を向けると、アルの腕が前に回ってきて、ゆるく抱っこされる。向かい合うよりこちらの方が密着できていいかもしれない。
 大好きな人の温もりには、きっとどんな毛布だって敵わないだろう。夜の肌寒さも寂しさも、あっという間に追い払ってしまうのだから。久しぶりにいい夢が見られそうだ。
 リタはあくびをして、再び目を閉じる。
「おやすみ」
「……うん、おやすみ」
 眠りは然して遠いところまで行っておらず、すぐまた戻ってきて、リタを寝かしつけようとする。導かれるままうとうとしていると、アルの声が耳の奥に滑り込んでくる。
「……もう寝た?」
「まだ……」
「ちょっとだけ触っていい?」
「ん、なに?」
「触るだけにするから」
「別にいくらでも……」
 アルに触られるのは大好きだ。わざわざ許可を取ってもらわなくたっていい。
 胸から腹にかけて、寝間着の上を遠慮がちに彼の手のひらが動く。
「そんなんでいいの?」
「いいの。やめどころがわからなくなる。疲れたから、ちょっと癒されたいだけなんだ」

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