(番外編)思い出の海

 その日も畑仕事に精を出していたゼノは、農園の娘ユマから声がかかり、作業の手を止めた。お待ちかねの休憩時間。小屋の横に置かれた長椅子に座り、ミッシュ、ゼノと共にゆっくり一息つくことにする。
 水を一気飲みしてから、ミッシュはさっそく口を開く。
「そうだ、まだゼノには言ってなかったんだった。バロに恋人が出来たんだよ」
「え、よかったじゃん。誰?」
「ユマの友達。紹介してもらったんだって。それがさあ、めっちゃ可愛いんだよ。あー、悔しい。先越されたー!」
「なんでオッケーもらえたのかよくわかんないんだけど……、ははは」
 バロは照れて頭をかく。
 ミッシュの口振りでは、彼はバロの恋人の顔を知っているらしい。
「ミッシュは会ったの?」
「会ったよ。昨日お昼寝子猫亭で晩ご飯食べてるときにバロが連れてきたんだ。もう、周りは恋人持ちばっかり! 俺の方が絶対いい男なのに、なんで俺だけ一人なんだろ。見てよ、この毛並みの艶!」
「ミッシュはよく手入れしてあって綺麗だよね」
 ナジの方が綺麗だが、とは言わないでおく。好みなんて人それぞれだ。
「あのお子ちゃまなリタまで相手いるって言うしさあ。ねえ、どんな人なの?」
「それ、俺も気になってた」
 噂好きのミッシュだけではなく、バロも興味があるようだ。リタの恋人、アルと呼ばれていた少々風変わりな男——。
「うーん、真面目で頭良さそうな雰囲気だったな。学者っぽい。リタはしきりにかっこいいって言ってた」
 そこまで言うほどでもないとは思ったが、ナジによると恋する相手に対する評価は甘くなるらしいので、そういうことなのだろう。
 ミッシュは硬くなったパンを再利用したラスクをかじり、口をもごもごさせながら、こちらに身を乗り出してくる。
「それで? ゼノはその人と話したの?」
「少しだけね。あんまりお喋りなタイプではないみたい。あっちにいるとき、一回四人で出かけたことがあったんだけど……」
「四人でって、ゼノとリタとリタの彼氏と?」
「ナジさん」
「ナジさんそういうのにも行くんだね。和気藹々とした集まりは苦手なイメージ」
「行ってきていいかって聞いたら、一緒に行くって言うから。フィーにも一応声かけたんだけど、部屋で寝てるって言われた」
「フィーってウィンスと入れ替わりで行ったやつ? そりゃまあ、ダブルデートに一人混じる勇気は俺だってないな」
「あのときはまだ俺たち付き合ってなかったよ」
「んー、じゃあ、いつから? レレシーに帰ってきた時点では付き合ってたよね? ナジさんが浮気したって、うちで大暴れしたもんね?」
「大暴れはしてない……。まあ、恋人かどうか微妙な時期もあったっていうか、うん……」
 身体だけの関係をだらだら続けていたなど、いくら仲のいい友人でも言えない。
 まごつきだしたゼノに、バロが助け船を出してくれた。
「なあ、それで、四人でどこに行ったんだ?」
「ふふふ、聞いて驚け。海だよ、海。『勇者マルケスタの冒険』に出てくる海!」
「ああ、院長先生が読んでくれたやつ? ミッシュも覚えてる?」
「もちろん。あれはすごくわくわくした。ゲオルトは海が見られるんだっけ」
「ユリスとは違って広い国だからな。楽しかったなあ……」
 思い出すたび、寄せては返す波の音が頭の中に響き始めるのだ。

 市場でリタと再会し、彼の新しい家を訪問してからというもの、仕事終わった後、毎日のように彼の元へ入り浸るようになっていた。何か特別なことをするわけではなく、夕飯までの間他愛ないお喋りをするだけだ。その場にリタの恋人が現れることはほとんどなく、いつも二人きりだった。
 この日も、リタの家の居間で、のんびりと夕飯のメニューについて話していた。
「院でリタが作ってくれた兎肉のシチュー、美味しかったなあ」
「あれ、今でも時々作るよ。アルも好きなんだ。こっちの料理のレシピも結構覚えたよ。図書館でレシピ本を借りてきたりして。ほら、これとか」
 テーブルの上に乗った数冊の本のうち、リタは一番薄い本を取ってぺらぺらめくる。見たところでゼノにはさっぱりだ。ゼノにとっては難解なその本より、別の本に目が惹きつけられた。鮮やかな青の装丁が美しい分厚い本を指して問う。
「これは何の本?」
「ああ、小説だよ。『勇者マルケスタの冒険』」
「あ、知ってる! 子供の頃に読んでもらった。中身はゲオルト語?」
「うん。こういうので言葉の勉強をしてるんだ。大分色んな本を読めるようになってきたんだよ」
 リタが取って渡してくれたので、適当なページを開いてみる。挿絵に見覚えがあった。
「偉いなあ。俺は喋るのに必死で、ゲオルト語の読み書きは全然。商品の名前とか、数字とか、商売に必要な部分しか」
「興味のある内容の本だったら、単語とか言い回しとか、割と頭に入ってくるよ。覚えた言い回しを会話でも使ってるうちに、両方上達していくんだ。わかんないとこがあったら、アルが教えてくれるんだよ」
「優しく教えてくれそうでいいな」
「優しいよ、アルは。物知りだしかっこいいし頼りになるし、最高の旦那様なんだから」
 リタはうっとりと語る。再会する前は、奴隷として扱われてつらい思いをしていないかと胸を痛めていたものだが、彼に幸せを与えてくれる伴侶が出来たとわかって安心した。
 彼は大きな目で可愛らしくこちらの顔を覗き込んでくる。
「ゼノにはいないの? そういう人。今はジュリちゃんだっけ?」
「いやいや、ジュリとは付き合ってもなかったよ。少しだけいい感じになっただけ。よく覚えてるな、そんなこと」
「人の恋愛関係って気になっちゃって」
「そういうとこ、ミッシュに似てる。誰と誰が付き合ってるとか、別れたとか、二股してるとか、あいつめっちゃ詳しいもん」
「だよねえ。そうだったそうだった。……元気にしてる? 他の皆も」
「元気だよ。俺もしばらく会ってないけど、向こうを出発してきたときは」
 故郷で待っている仲間たちもリタに会いたがるだろう。ゲオルトに残るというリタの意思が硬い以上、実現は極めて難しいだろうが。
 小さな頃によくしていたように、リタはゼノの腕を掴んでもたれかかる。思い出した。あの頃もよくこうして、彼のつむじやふわふわの耳を見つめながら話をしていたっけ。
「ゼノももうすぐ帰っちゃうんだね……」
「また来るよ、絶対。何年かかったとしても」
「……ありがとう。ねえ、思い出作りにさ、二人でどこかに遊びに行かない?」
「どこかって?」
「どこでもいい。どこか行きたいとこある?」
 行きたいところ、か。この国にはリタ探しや仕事のために来ていたから、遊びに行く場所なんて考えたこともなかった。
 ヒントを求めて視線を巡らせると、手元の本の青い表紙が目に入る。
「そうだなあ……。海、とか? 確かゲオルトは海が見られるんだよな。行商ではこれまで海の見える街に行ったことがないんだ。『勇者マルケスタの冒険』でさ、主人公がドラゴンの子供に乗って海の上を滑空するシーン、すごく好きだった」
「海か。ここからは大分遠いかな……」
「ああ、無理ならいいんだ。店を休めたとしても一日くらいだし。リタとならどこに行っても楽しいと思うよ」
「うーん……。アルに頼んだらどうにかなるかも」
「……僕が何?」
 声がしたのは廊下の方。居間と廊下の境にリタの恋人アルの姿があった。全く気配がなく、びくっとしたが、リタは驚いていない様子だ。彼はアルを側に呼ぶ。
「こっちこっち。ちょうどよかった。お願いがあるんだ」
「君たちの話、ちょっと聞こえてたから、だいたいわかるけど……」
「ゼノと海に行きたいんだ。この間みたいに移動させてくれない?」
「ほら来た。そんなに気軽に使うような術じゃないんだよ」
「気軽じゃないもん。ゼノ、もうすぐ帰っちゃうんだよ。最後に何か特別なことしたい。アルの力があれば日帰りできるでしょ? ねえ、お願い」
 リタはアルの手を取って首を傾げ、上目遣いで見上げる。アルは明らかに困っている様子だ。自分のことで彼らに迷惑はかけられない。
「リタ、いいよ、別に。そこまで行きたかったわけじゃないし。ほんとにどこでも」
「僕だって海見たことないから行きたいの!」
「僕が君のお願いを断れないの、わかってて言ってるだろう。移動先でも準備がいるから、すぐにとはいかないよ」
「わーい、いいの? ありがとう!」
「いいけど……。彼、秘密は守れる?」
 アルの言う「彼」とはゼノのことだろうが、リタは勝手に答えてしまう。
「もちろん」
「え、何の話?」
「それは当日になったらわかるよ。僕のアルはすごいんだから」
 リタは自信満々に胸を張った。

 さて、海行きが決まったのはいいが、それを実行するためには大きな壁がある。雇い主に仕事を休む許可をもらわねばならない。
 ベッドでいつもより頑張ってみた後、寝る前の機嫌の良さそうな時を狙って、隣で横になったナジに切り出す。
「あの、いつとはまだ決まってないんですけど、リタと遊びに行ってきてもいいですか? ちょっと遠出したいなって」
「どこへ?」
「海、らしいです」
「海? ここからは随分遠いぞ」
「みたいですね。でも、アルさんがどうにかしてくれるみたいで、日帰りできるようです。近道でも知ってるのかな」
「近道って言ったって直線距離以上に短くはならんだろ。地図を見てみろよ。絶対に一日で往復できる距離じゃない。怪しいな。あの男、前に会ったとき、どこか得体の知れない感じがしたんだ」
「いい人みたいですよ。リタ、べた惚れみたいだし」
「それが信用できないんだ。惚れた相手に対する評価はどうしたって甘くなる。リタが下す評価は正当な評価じゃない」
「……やっぱり行かないほうがいいってことですか? 店を抜けるのが難しければ、諦めます」
「行きたいのか?」
「まあ、はい。海なんか見たことないから」

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