(番外編)思い出の海

「どうしようかな。なあ、許可を出していいって俺に思わせてみろよ」
「え……、あ、もう一回頑張ります?」
「そうじゃないだろ」
「そんなのどうすれば……」
 休みの許可をもらう——。そういえば、リタがやっていたな。自分の要求を飲ませるために、彼が取っていた方法。
 ナジの裸の肩に手を置き、上目遣いで見上げる。
「ねえ、お願い? ……なんちゃって」
 まずい。調子に乗った。あれは可愛いリタだから使える技だ。ゼノがやったところで滑稽でしかない。叱られるか小馬鹿にされるか、どちらかに決まっている。
 ナジはこちらを凝視した後に憮然として言う。
「……まあいいが、俺も行く」
「いいんですか? じゃあ店は?」
「一日くらい閉めればいい」
「ほんとに? やったー!」
「嬉しいか」
「もちろん」
 まさかあれで通るとは。
 ナジはゼノの毛並みをくしゃくしゃと撫でると、鼻の頭にキスをする。
「もう遅い。早く寝るぞ」
「はい」
 実はナジも海に行ってみたかったのだろうか。そうならそうと素直に言えばいいのに。

 計画実行当日。正午の鐘が鳴る前に来てほしいと言われていたので、間に合うようにナジと二人、リタの家を訪れる。てっきり一緒に行くと思っていたアルは不在のようで、リタの案内で二階の書斎に通された。
 壁一面の本棚、机、椅子だけの狭い部屋。変わっているところと言えば、床に白の絵の具で大きな円が描かれていること。何なのだろう、これは。子供の落書きにしては綺麗な真円だ。
 ナジは不信感丸出しで部屋を見渡す。
「どうしてここに? 海に行くんじゃないのか? 日帰りなんてやっぱり無理なんだろう。あの男もいないし」
「無理じゃないですよ。この丸の中に入って鐘が鳴るのを待つんです。そしたら、鐘の音を合図に、現地にいるアルが僕たちをあっちまで引っ張ってくれる」
 意味不明に思えるリタの説明は、せっかちなナジの気に障ったようだ。
「なんだそれは。ゲオルトで暮らしてたった二年なのに、ユリス語が不自由になったのか」
「それ以上の説明なんてありませんよ。アルを信じてください。あの人には不思議な力があるんです。さあ、早く入って。きっとすごくびっくりしますよ。僕も最初は驚いた。あ、帽子は取らないで、耳と尻尾は隠したままでお願いします。これから外に出るから」
「あの、ナジさん。リタ、こう言ってるし、ちょっとだけでも付き合ってあげましょうよ」
「……しょうがないな。まあ、せっかく来たしな」
 皆で白い円の中に入る。三人だとスペースに余裕がなく、手と手が触れあいそうだ。
「次は? 皆で手を繋いで躍るか」
「いいですね、それ。楽しそう」
 ナジの皮肉っぽい揶揄いに、おそらくその発言の意図に気づいていないのだろう、リタはにこにこと返す。ナジの言動にいちいちびくついてしまうゼノにとっては、こうして笑顔で流すのというのはなかなか出来ない芸当だ。
 ナジのこぼした溜息とともに、鐘の音が鳴る。
「ナジさんもゼノも身体を全部丸の中に収めてくださいね。ちょっとでも出てたら上手くいかないらしいです。ほら……」
 三つ目の鐘が鳴ったとき、突然、円のラインに沿って足下から風が吹き上がってくる。
「始まった」
「リタ、これって……」
「大丈夫だから。じっとして動かないで」
 初めはそよ風ぐらいだったのだが、瞬く間に強風になっていく。服の裾をはためかせ、毛並みを乱す。巻き上げられないよう、慌てて帽子を押さえねばならなかった。
「いったい……なに……」
 風のせいで声が掻き消される。ナジの手がゼノを気遣うように腰へ回った。リタの手前、しがみつきたいのを我慢し、たまらず目をつむった。——そうやって耐えていたのは、そう長い時間ではなかった。
 しばらくして、風がやむ。恐る恐る目を開けると、ひどく眩しい。目の前には切り立った岩場。その上に青空。視線を落とすと、足下は白くて不安定な砂地。ここは屋外か? いつの間に?
「ほら、ゼノ、ついたよ。後ろを見てみて」
 リタに促され、振り返ると、そこに広がっていたもの。ただただ青い世界。波の打ち寄せる音と独特の潮の香り、湿っぽい風、強い陽射し。
「これって……」
 夢でも見ているのだろうか。
「言ったでしょ。僕のアルはすごいんだって」
 誇らしげなリタに、ナジはあくまでも冷静に問う。
「どういうことだ、これは。あの男の仕業か?」
「ああ、僕がやった」
 またしても気配なくアルが現れる。砂を踏む音もしなかった。少々不気味でさえある。
 無意識でゼノが後ろに下がろうとしたのと同時に、ナジが一歩踏み出る。
「……さすがはゲオルトと言うところか。魔術師が市井に潜んで暮らしているとは」
「え、魔術師?」
「強国の条件は充分な数の魔術師を揃えること」
「なんですか、それ」
「ゲオルトがここまで領土を拡大できたのは、軍に大勢の魔術師が所属しているからだと言われている。対してユリスには魔術師が少ない。魔術の素質があるとわかれば、強制的に国に召し抱えられて、普通の暮らしなど送れないだろうな。あんな風に彼らが平和にのんびり暮らしていられるのは、ゲオルトに魔術師の人材が豊富な証拠だ」
「ナジさん、詳しいんですね」
「王都で軍人をしていたやつがレレシーにはいるからな」
「へえ、知らなかった」
 仲間同士で固まっているとなかなかわからないが、レレシーには様々な経歴の者がいる。元軍人なら、今は自警団の人だろうか。
 慎重な性格らしいアルは口止めも忘れない。
「他国より数が多いとはいえ、素性を知られれば好奇の目に晒されることに変わりはないよ。近所の人には伏せているから、どうか内密に」
「もちろん」
「俺も言いません」
 元より言い触らすような相手もいない。それにしても魔術師か。聞いたことぐらいはあるけれど、実在するとは。
 初めての海に興奮しているらしいリタは、目を輝かせてゼノの腕を引っ張る。
「ねえ、ゼノ。さっそく入ってみようよ。気持ちよさそうだよ」
「波打ち際の近くにいなさいね。リタは溺れたってすぐ引き戻せるけど、お友達はそうじゃない」
「わかったー。わーい!」
 恋人の忠告に軽く頷くと、リタは海に向かって駆け出す。
「あー、もう危ないよ! えっと、ナジさんは……」
「海は何度か来てる。海水のベタベタした感じが嫌いだから、その辺で休んでるよ」
「そうですか」
 ナジが自分たちの遊びに混ざるとは思えなかったが、念のため尋ねただけだ。
 リタを追って波際まで走る。そのまま入っていこうとした彼を止め、靴を脱いでズボンをまくり上げるよう言った。着替えがないのだから、帰りに困るだろう。
 見渡せる限りでは、他に誰かいる様子はない。貸し切りの海に素足を浸す。
「おお、冷たい」
 足裏に直接伝わる、慣れない砂の感触。ときどき石のような硬いものに当たることもある。
「歩きづらいなあ」
「そう? 僕は平気。ねえねえ、もうちょっと向こうまで行ってみない?」
「えー、アルさんたちに見ててもらえる場所にいなきゃ駄目だって」
「少しなら大丈夫」
 水しぶきを散らしながら、リタはまた走り出す。転んで濡れたらどうするのだ。家の中に直接帰れるからいいということなのか。
 浜辺にいるアルやナジの目が届くであろうぎりぎりの地点まで離れ、リタはくるりと振り向く。そして、思いもかけぬことを言い出した。
「あのさ、ゼノとナジさんって、『いい仲』なの?」
「……へ?」
「移動の魔術が発動しているとき、ナジさん、ゼノを守るみたいに抱き寄せてたでしょ? ゼノもそれを自然に受け止めてて。あれは何かあるって直感が働いたね」
 こういうことには疎いとばかり思っていたのに、意外と鋭い指摘をする。
 何かある、といえばある。ほぼ毎晩同じベッドで眠っている関係だから。しかし、『いい仲』が恋人関係を指すのなら、それには当てはまらない。
 大袈裟なくらい両手を振る。
「いや、なに言ってんの。そんなことあるわけないじゃん。俺が何かと危なっかしいから、気にかけるのが習慣化しちゃってるだけだよ」
「危なっかしいのは僕の方だと思うけどなあ。咄嗟にゼノの方を守ろうとしたってことは、ナジさんにとってそれだけゼノが大事だってことじゃないの?」
「あれは癖みたいなもんで、別に守ろうとしたわけじゃないと思う」
「癖? 普段からああいうことをしてるってこと?」
「し、してないよ! するわけない」
「ふーん? ゼノとは何でも話せる間柄だと思ってたんだけどなー」
「……ほんとに何でもないってば。あ、ほら、それ、なんだろう」
 リタがしぶとく引き下がらないので、強引に話題転換を試みる。足下の砂に埋まった黒っぽいもの指差すと、リタの視線がそれを追う。
「どれ?」
「それだよ、その黒いの……」
 彼につられ、ゼノも背をかがめる。
 波はその時々によって大きく高さを変えることを知らなかったから、このとき全くの無防備だった。
「……わっ!」

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