(番外編)思い出の海

 高い波が迫ってきて、胸元まで海水を被ってしまう。一瞬にして二人ともびしょ濡れだ。
「あーあ……」
「ははは。こうなったらとことんびしょびしょになろ。それー」
 両手で水をすくい、リタは無邪気に浴びせてくる。顔にかかり、口にも入ってしまう。
「うわ、しょっぱい! もうっ」
「わー」
 仕返しでゼノも顔を狙う。子供の頃湖で遊んだように、水の掛けあいをしてはしゃいだ。
 すっかり濡れ鼠になると、開き直って浅瀬で寝転んだり、ばた足したりを始める。なんとも気持ちがいい。
 地面が近くなると白砂がよく見え、リタはその中から何かを拾い上げる。薄桃色の貝殻だ。
「これ、綺麗」
「ほんとだ。いいの見つけたじゃん」
「ちょっとアルに見せてくる」
「うん」
 彼は浜辺の恋人の元へ走っていく。自分がいいと思ったものは何でも共有したいし、相手もそれを喜んで聞いてくれる。いいな。それが自然に行われている関係。
「無い物ねだりはよそう……」
 ふと寂しさにおそわれ、首を振ってそれを遠ざける。人の持ち物をうらやんでも仕方がない。足るを知る、というのは大切なことだ。誰かが当たり前のように持っているものでも、同じように自分も手に入れられるとは限らない。
 せっかく海に来たのだ。こんな機会はもうないかもしれないから、何か別のことにも挑戦しよう、と気持ちを切り替える。行き先に海を選んだ切っ掛けは、『勇者マルケスタの冒険』。その中で主人公が海でしていたこと——、ドラゴンの子供に乗って海の上を滑空する、というのは無理だから、できるのはあれぐらいか。砂で城を作るシーン、楽しそうだった。
 まずは山を築いて、そこから城の形を作ればいいかな。砂浜に上がり、しゃがみ込んで砂を集める。余計なことを考えないように作業に熱中していると、岩場の近くにいたはずのナジから声がかかる。
「おい、そんなとこでやってたら……」
「え?」
 彼の方を仰ぎ見たときには、もう遅かった。さきほどより大きな波が来て、せっかく作った砂山をごっそり持って行ってしまう。
「あ……」
「残念だったな。場所を考えろ」
「そうですね。うっかりだった……」
 波際から離れ、再チャレンジだ。ひたすら砂を盛って固めるのを繰り返す。ナジは傍らでそれをじっと観察していた。
「マルケスタの再現か?」
「知ってるんですか」
「孤児院にあった本は全部読んだからな。マルケスタと仲間たちが築いた砂城を、魔法使いが本物の城に変えてしまうんだ」
「アルさんに頼んだらやってくれますかね」
「実際にやるかどうかはともかくとして、出来る力はあるかもな。さっき言った、王都で軍人をやっていたって奴に聞いた。ゲオルト軍の魔術師は、何もない砂漠に幻の都市を造り出したり、一つの街を一瞬にして湖の底に沈めたりしたとね。それに比べれば簡単そうだ。まあ、彼は軍の人間というわけではないようだが」
「移動の魔術、すごかったですもんね。お城くらい朝飯前かも」
「でも、俺たちをここからユリスに移動させるのは無理みたいだな。お前らが遊んでいる間に彼と話をしたんだが、安全性を考えると、移動先に魔術師がいた方がいいらしい。もし仮に魔術師を待機させることが出来たとしても、魔術で国境を越えることは国際問題になりかねないから危険なんだと。馬車で帰るしかなさそうだな」
「いろいろあるんですね。別の世界の出来事みたい。リタはそんなすごい人と一緒に暮らしてるんだ」
「リタのことも少し聞いた。可愛くて仕方ないって感じだったな。リタも帰りたがらないはずだ」
 そんな風に愛されるなんて、いいな。——ほら、また無いものねだり。
 曇ったゼノの表情を、ナジは別の意味で解釈したらしい。
「別れはつらいだろうが、リタのためだぞ」
「わかっています」
 それはもう自分の中で折り合いをつけたつもりだ。別れの日は泣いてしまうかもしれないけれど。
 自分が話題に上っているとは知らず、リタは元気よく飛び跳ねながら戻ってくる。
「ゼノ、何してるの?」
「お城を作ろうかと思って」
「マルケスタ?」
「うん。一緒にどう?」
「やる。ナジさんも参加してます?」
「いや、お前らでやれ。手に纏わりついてくる砂は嫌いだ」
 ナジは素っ気なく言って、岩場の側の影がある場所に引き上げていく。
 その後ろ姿を見ながら首をひねる。
「海水も嫌いで砂も嫌いか。なんで今日来たんだろう」
「そりゃあゼノが心配だったからじゃないの? 今だって、ゼノが一人ぼっちになっちゃったから、話相手をしに来てたんだろうし」
「そうなのかなあ」
「そうだよ、絶対そう」
 リタは力説するが、豊かすぎる想像力から生み出された的外れな推測であるように思う。
 好奇心できらきらした瞳がこちらを見ていた。どうすれば諦めてくれるのだろう。
「……リタが期待しているような話は出来ないからね」
「アプローチはされてるでしょ?」
「ナジさんがそういうタイプだと思うか? 黙ってても向こうから寄ってくるのに。それも俺なんかにさあ。ありえない」
「何かはあったでしょ」
「何もないよ」
「それ、僕の目を見て言える?」
「……リタに話せるような綺麗な関係じゃないんだ」
「意味深だね。余計に気になるな」
「次会うときまでに、ちゃんとした恋人、作っておくよ」
「これ以上聞いても無駄かな。……うん、その日が来るのを楽しみにしてる」
 いつか来るその日のために、自分も成長していたいから。

 あれから数ヶ月。あの時海を訪れた日のことは、とてもいい思い出になっている。眩しいくらいの砂の白さも海の青さもリタの笑顔も、きっと一生心に残り続けるのだと思う。連れて行ってくれたアルと彼を説得してくれたリタに感謝だ。
 清々しい心持ちで一日の農作業が終え、片付けをしているとき、ユマが呼びに来る。
「ゼノ、帰る前に母屋の方へ寄ってくれる?」
「なに?」
「お迎えが来てるわよ。仲がいいのね。うらやましい」
 彼女はにこにこしながら自分の作業へ戻っていく。
 はて、お迎えとは何のことだろう。言葉そのままの意味だとすれば、家からゼノを迎えに来るのは一人しかいないが、彼はそんなに暇ではない。
 ミッシュとバロは片付けの後そのまま帰ったので、一人母屋へ顔を出す。誰かいないか探して歩いていると、居間で現在の同居人の姿を発見した。農園主夫妻はその場にいないが、テーブルの上にお菓子が山盛りになっているところからして、もてなされていたらしい。
「ナジさん、どうしたんですか?」
「近くを通りかかったら、農園主に呼び止められてな。市場で売る菓子の試食を勧められた」
「ああ、そうだったんですね。お迎えが来てる、なんてユマが言うから……」
「そういうわけじゃない。お前、今日はこれで仕舞いか?」
「はい」
「帰るぞ」
「試食はもういいんですか?」
「これ以上は食えん」
 帰る前に、台所にいた夫妻に挨拶すると、残った菓子を包んで持たせてくれた。
 ナジの方も仕事はもういいらしい。ともに帰路につく。長くなった影を引き連れながら、畑の脇を歩く。
「今日も暑かったですね」
「そうだな。思い切り水浴びでもしたいところだ」
「湖に寄ります?」
「家でいい」
「海だけじゃなくて湖も嫌い?」
「嫌いじゃないが、行くのが面倒なだけだ」
 こうして隣に並んでいられる今なら、こんなことも聞ける気がするのだ。
「ゲオルトから帰ってくる前……、皆で海に行ったじゃないですか」
「ああ」
「あのとき、海が嫌いなのに一緒に来てくれたのって、俺が心配だったからですか?」
「……あ?」
「リタがそんなことを言ってたの、思い出して」
「お前、ちょっとは考えてからものを言えよ。もしもお前の推測通りだったとして、俺が正直にそれを肯定すると思うか?」
「うーん……。しないかなあ」
「なら、聞くだけ無駄だろ」
「まあ、そうですね」
 では、否定しなかったということを、都合よく捉えておいていいだろうか。
 彼の腕に肩を当て、じゃれつくように尻尾の先で尻尾にタッチする。
「あの日リタと約束したんです。次会うときまでに、ちゃんとした恋人を作っておくって」
「そうか」
「守れそうでよかったです」
「ああ」
 今度は堂々とリタに説明したい。驚くだろうな。いや、やっと認めたかと呆れられるかも。
 もうきっと彼らを見たって、うらやましいと思うことはないだろう。無いものねだりではないから。
「俺、今夕日に向かって叫びたい気分です」
「やめとけ。そこの山羊が暴れ出すぞ」
「じゃあ、うるさくしないんで聞いてください。あのね——」
 彼だけに聞こえる強さで、音になる時を待つ想いを口にした。

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