(1)きっかけはおみくじ

 十七歳の誕生日、夏祭りの日。人生で初めて恋人が出来た。
 大都市の郊外にある穏やかな街、緑木橋(みどりぎばし)市。その住人たちに愛される初川稲荷神社では、毎年小さな夏祭りが開かれる。近隣市で開催される大規模なサマーフェスティバルとやらには、屋台の数もイベントの豪華さも遠く及ばないが、いつもは静謐な境内が非日常の陽気な空気に包まれるこの日が、利都(りと)は好きだった。
 夏休みに家族でここを訪れるのが、毎年の恒例。夕方から出かけ、一通り親子で回った後。たまには二人きりでデートを楽しみたいだろうと、何年経っても仲のよい両親から離れ、一人で夜店をめぐる。
 あちこちの屋台でちょっとずつ食べ、そろそろお腹がいっぱいになってきたころ。屋台の列から少し離れたところにあるテントが目についた。テントの屋根に初川稲荷の名前が入っているから、神社が出しているもののようだ。
 近寄ってみると、普段は授与所で扱っているお守りや神札を置いているらしい。おみくじも引けるようだ。単なる暇潰し程度の気持ちで、気まぐれに引いてみることにした。
 初穂料を納めてから、直感で一つ取って、邪魔にならなさそうな建物の脇に移動する。開けて中身を見るこの瞬間は、いつもドキドキする。
 初川稲荷のおみくじはシンプルだ。吉凶と一言アドバイスが書かれているだけ。利都の結果は——小吉。
「微妙……」
 喜ぶほどではなく悲しむほどでもなく。重要なのはその次、神様からのアドバイスは。
 ——年末までに恋人あるいは伴侶がいないと、大きな災いが降りかかるだろう。
「……え?」
 思わず三度ほど読み返してしまった。災い? どういうことだ。おみくじでこんな内容は見たことがない。まるで呪いの手紙のようだ。
 利都には現在恋人はいない。これまで出来たことはなく、出来る気配もない。友達と遊ぶのが楽しく、熱心に恋人がほしいと思ったこともない。
「年末まで……? え?」
 あと四ヶ月半しかないではないか。
 こういった類いのものはどうにも信じてしまう質で、文面を見つめたまま固まっていると、背中に声がかかった。
「君、どうかしたの?」
 振り返ると、紺の浴衣姿の男が立っていた。二十代前半で大学生くらいだろうか。浴衣の女性はちらほら見かけるが、男は珍しい。しかし、利都が目を引かれたのは、その服装に、ではなかった。
 気遣わしげに彼は尋ねる。
「気分でも悪い?」
「いえ、あの、大丈夫です」
「本当に? だったらいいんだけど……」
「……はい」
 かろうじてそれだけ答える。どぎまぎしてしまったのは、その容貌に目を奪われたからだ。
 少し目尻がつり上がった双眸は優しげに細められ、薄く赤い唇には微かに笑みが刷かれている。薄茶色の髪は涼やかになびき、髪を耳にかける仕草はどことなく艶っぽい。提灯の明かりに照らされて幻想的でさえある。綺麗で、ひどく惹きつけられる——他人に対してこんな風に思ったのは初めてだ。
「その手に持ってるの、おみくじ? 引いたの?」
 彼の問いかけに、こくりと頷く。
「俺もさっき引いたんだ。でも、なんか変な内容でさ」
「え、どんな……?」
「見てくれる?」
 紙切れを差し出してくる。そこに書かれていたのは、『小吉 年末までに恋人あるいは伴侶がいないと、大きな災いが降りかかるだろう。』
「これ……」
「ね、おみくじっぽくなくて変でしょ? 小吉でも吉は吉なのに、『大きな災い』って」
「俺も、俺もです。これ、見てください」
 自分の分も見せる。彼はそれを覗き込み、目を丸くした。その表情は意外なほど幼げなもので、またじっと見入ってしまった。
「わあ、全く同じだね」
「この神社のおみくじ、何度か引いたことあるけど、前はもっとありきたりな内容でしたよ。誰かが悪戯で紛れ込ませたのかな」
「でも、下に神社の名前が入ってるよ。本物っぽい。うーん、恋人あるいは伴侶か。どうしようかなあ」
「どうしよう、ってことは、お兄さん、恋人はいないんですか?」
 現在恋人がいるなら、どうしようなんて悩む必要はない。
「いないよ? 君は?」
「いませんよ。いるわけないじゃないですか。俺は無理そう……、ですけど、お兄さんならすぐにできそうですね」
「そう簡単にできるもんじゃないよ。付き合うなら、そうだな、運命の人がいい」
 運命の人、か。随分ロマンチストのようだ。それとも冗談かな。初対面の相手にプライベートを話したくないから、利都の興味をこの言葉で躱そうとした、とか。——どうやら前者だったようだ。
 まっすぐにこちらを向いた彼の瞳が、強く煌めく。
「ねえ、これって運命じゃないかな?」
「……なにがです?」
「同じ日のほぼ同じ時間、君と俺はそっくり同じ内容のおみくじを引いた。それも、年末までに何が何でも恋人を作れ、と言わんばかりの内容」
「はあ……」
「『大きな災い』を回避するためのとてもいい方法がある。俺と付き合おうよ」
 両手を取られ、大きな掌で包み込まれる。熱が伝わり汗を生む。
「うん、そうだ、それがいい! これはそうしろっていう神様のお告げなんだ」
「え……、え?」
「君もそう思わない?」
「いや、あの、あまりにも突然すぎて……」
「恋の訪れはいつも突然、らしいよ。君、名前を教えてくれないか?」
仲原(なかはら)……、仲原利都です」
「利都か。俺は稔実(としざね)。ねえ、利都。どうかな。俺の提案に対する返事」
 手を握ったまま、ぐいっと距離を詰めてくる。
 やめて、顔が近い。近すぎる。ああ、それにしても綺麗な顔……。声までいい。すごくいい。高すぎず低すぎず、よく耳に馴染む。
 気づけば、よく考えもせずに答えていた。
「……はい」
「はいってどういう? オッケーってこと? 恋人になる?」
「はい」
「やったー。ありがとー」
 ぎゅっと抱きしめられ、彼の肩口に顔が埋まる。ああ、匂いまでいい。爽やかで清らかな香り。何なの、この人。

 それが、夏休みの一番の思い出。二番目が、友人たちとプールで遊んだ帰りに花火大会に行ったこと。
 楽しい長期休暇はあっという間に終了し、二学期の登校日一日目。この日は始業式だけだ。
 放課後、この後の予定を立てながら教室を出て行くクラスメイトたちを見送り、友人を待つため教室に残る。やっと時間が出来た。スマホを取り出して、いそいそとチェックを始める。
「返信来てる……」
 夏祭りの日に出会った稔実とは、あれから毎日メッセージのやり取りをしている。どうやら彼には、あの場のノリということにして利都との付き合いを終わらせるつもりはないらしい。コミュニケーションを取ろうと積極的に送ってくる。
 メッセージの内容は日常の他愛ない話がメイン。何度か写真を送ってくれたが、実際会ったのがまだあの時の一回きりなので、付き合っているという実感は正直全くない。やり取りは楽しいものの、ただのメル友という感じだ。
 メル友、友達ではなく、彼は恋人という言葉を使った。男の利都に交際を申し込んできたということは、彼の性的指向は男性に向いているのか。立ち入りすぎかと思い、直接確認は取っていない。
 自分の指向について、利都はまだはっきりとはわからないが、同性同士の交際に抵抗は無い。そういう家庭環境だったから。仲睦まじい母親二人に育てられ、彼女たちの仲間にも小さい頃から大勢接してきた。
 稔実はこれからどうするつもりなんだろう。利都と『恋人』を続けるつもりなのか。運命がどうとか言っていたが、あんなかっこいい人、利都のような冴えない高校生じゃなくて、他にいくらでも相手が見つかりそうだ。もう一度会ってちゃんと話をする必要があるだろう。
 真面目な話し合いを抜きにしたって、彼と会いたい気持ちはある。メッセージのやり取りだけではなく、顔を突き合わせて言葉を交わしたい。認めよう。性的指向の問題は置いておくとして、彼の容姿も雰囲気も極めて利都の好みだった。あんなに惹きつけられたのだ。「好み」と言って間違いはないだろう。華があって上品で、物腰柔らかで、でも強引なところもあり。
 ——会いませんかって誘ってみてもいいかなあ……。
 しかし、いったいどうやって? 本気にするなと笑われて、断られたらどうしよう。いや、それならそれで、そんな男と縁が切れるきっかけになるし、いいことでは。
 あれこれ考えながら、今朝のメッセージを見返す。
『おはよう。今日から学校だよね? がんばってねー。』
『はい。稔実さんはいつからですか?』
『俺も今日からだよ。』
 大学生の休みは長いと聞いたが、夏休みが終わるのは同じ時期らしい。
 家を出る前「ファイト」のスタンプを送った後、スマホをチェックできていなかったが、それに対する彼の返信は……。利都がスタンプを送った直後に「いってらっしゃい」のスタンプ。そして、次のメッセージが来たのは今からたった数分前。
『利都って二年生だったよね? 何組?』
 どうしてそんなことを聞くんだろう。知られて困ることでもないので答えておく。
『A組ですよ。なんでそんなこと気にするんです?』
 送信直後、いつの間にかトイレから戻ってきていた友人の羽島(はしま)が、手元を覗いてくる。
「なんだか楽しそうだな。誰とメール?」
「わあ、見るなよ、はっしー!」
 慌ててスマホを胸に抱く。完全に油断していた。
 羽島は空いている前の席に座る。
「メッセージは見てねえよ。なあ、トシミさんって誰? まさか……夏休みの間に彼女が出来たとか? 違うよな? お前は俺より先に彼女作るなんてひどいことするやつじゃないよな?」
「トシミじゃなくてトシザネさん。男の人だよ」
「なーんだ。友達?」
「まあ、うん、そんな感じ」
 恋人だ、なんて言い切れるような関係ではないだろう。まだ一回しか会っていないし、お互いのことをあまり知らないし。
 メールの相手が彼女でないと興味はないようで、羽島の関心は他に移る。
「あー、腹減った。千ちゃんが戻ってきたら、昼飯食いに行かね?」
 千ちゃんこと千田(せんだ)は、学級委員の仕事で担任に呼ばれていた。
 羽島、千田とは中学時代から仲がいい。同じ高校に進み、二年生で三人とも同じクラスになってからは、さらに行動を共にすることが多くなった。
「いいね。行こ行こ。どこがいいかなあ」
 あっちのファミレスかこっちのファミレスか、あるいはハンバーガーチェーン店か。田舎ではないものの堂々と都会と言える街でもないので、選択肢は限られてくる。
 駅前のファミレスで希望がほぼまとまりかけたとき、千田が教室に戻ってくる。
「お待たせー」
「お疲れ。もう終わった?」
「ああ。簡単な雑用を頼まれただけだから。それより利都にお客さんみたいだよ」
 千田が指し示したドアの方には、見覚えのある人物がいた。人目を惹きつけずにはいられない立ち姿。視線が合うと、彼はひらひらと手を振ってきた。
「やあ、利都。来ちゃった」
「稔実さん!?」
 ガタッと立ち上がる。会おうと誘うかどうか迷っていた相手が、すぐそこにいた。机が揺れた拍子にフックから鞄が落ちたのにも気づかず、彼に駆け寄る。
「なんで……」
「会いたかったからに決まってる。制服姿も可愛いね」
 明るいところで見る微笑みは、学園ドラマのワンシーンを切り取ったみたい。やっぱりかっこいい……、じゃなかった。見ると彼もこの学校の制服である紺のブレザー姿だ。
 エスコートでもするように背に手を添えられ、何事かと思えば、どうやら出入りの妨げになっていたようだ。ドアの脇によける。
「……すみません。稔実さんもここの生徒だったんですか? 大学生じゃなくて?」
「大学生なんて、俺言ったっけ?」
 そう言えば直接そう聞いたわけではないような。大学生くらいだろうという最初の印象を引きずってしまっていたのだ。
「同級生だよ。今日からここの二年に転入した。びっくりさせたいから黙ってたんだ」
「え、転校生……、てか、同い年……? 同い年だったんですか?」
 確かに学年ごとに色が分かれているスリッパは、同じ青だが。

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