(3)君の行方

 今は何日目だっけ。心配しているよな、絶対。
 ——利都、ごめん……。
 せめて無事だけでも知らせたい。それに、あんな発言を残したままというのも気にかかる。『あんな発言』について、思い出すだけでも顔が赤くなる。もう少し仲良くなってから言うつもりだった。どうか自分の元に、お嫁に来てくださいって。
 稔実が利都の嫁入りを望むようになった経緯を説明するためには、まずその生い立ちから語る必要がある。
 生まれたときは山を駆け回るただの狐だった。毛並みだって今とは違う、いわゆる狐色の狐。
 当時の記憶はおぼろげだが、生きることに苦労をしたのは覚えている。母と兄弟を人間の猟師に殺され、一人で何とか生き延びてきたものの、ある時期から餌となる獲物が山から激減、里に降りても殺気立った人間たちに激しく追い払われ、空腹を紛らわせるために草ばかり食べる日々になった。
 ふらふらになっていたところを、自分もまた猟師に仕留められた。
 その後記憶が途切れ、残っている確かな記憶の始まりは妖狐になった後。人を超える力を得、人を恨む心の命じるまま、悪さばかりを繰り返していた。狐の祟りを恐れた人々は、村に小さな祠を建てて祀ろうとしたが、それでも怒りは治まらず、暴れ続ける日々は続く。あの頃の自分は、理性のある存在ではなかった。
 だが、人間たちもいつまでも虐げられ続けてはいない。妖狐退治のため、京から高名な陰陽師を呼び寄せたのだ。魔を調伏できる力を持った人間と出会ったのは初めてだったから、完全に油断していた。気づけば彼の罠の内。人間に二度も殺されるのか——、そこへ助けに現れたのが、当時何の面識もなかった白狐の藤。
 藤は弱った妖狐を連れ帰ると、回復するまで面倒を見て、「神の眷属としてその力を使いなさい」と言った。二度死にかけても生きながらえたのは、何か意味があるに違いない。藤への恩を返すためにも、彼女の言葉に従うことにした。
 名前も彼女からもらった。
「うちの神様は五穀豊穣に神様だからね。これからは『みのり』多く生きられますように」
 長い修行の末白狐となった後は、己に与えられた業務をただただ真面目にこなし続けた。長く神に仕えることで、人への恨みは洗われ、その心には奪われ殺されかけた恐怖だけが残った。ただの人間に怯える姿に、臆病者だとか軟弱者だとかヘタレだとか、仲間の中にはそう言って揶揄う者もいた。
 ある時、藤が言った。
「そろそろもう一度下界に出てみない?」
 下界。人の世。恐ろしい猟師や陰陽師のいる世界。
「怖いのはわかるけど、克服しないと。大丈夫、人間はそう悪い奴らばかりではないわ。今は夏祭りの時期だから、ちょうどいい、行ってきたら? これも修行のうちだと思って」
 修行と言われれば従わざるを得ない。久しぶりに人に化け、しぶしぶ下界へ出た。
 小さな神社の小さな夏祭り。お囃子の音、たくさんの屋台、提灯の眩しい明かり、美味しそうな匂い、楽しげな人々の笑い声。悪くない。心が浮き立つのを感じ、足取り軽く見て回っていると、とある光景に目が釘付けになった。
 矢をつがえ弓を構えようとする子供。うまくできないのか、大人が手本を見せている。
 後々冷静になれば、あれは縁日の景品か何かで、殺傷能力などないというものだということはわかったが、古い記憶から呼び起こされた恐怖に支配された。あの恐ろしいもので親兄弟は死に、稔実自身も死にかけた。いや、一度は死んだのか? 記憶に欠けがあるから、正確なところは不明だ。
 何とか人の邪魔にならない場所まで移動し、うずくまる。目眩がする。息が上手くできない。
 心配そうにこちらを見ている子供がいたが、構っている余裕などなく無視していた。しかし、うっかり目があってしまったことで、その子供はこちらに近寄ってくる。
「どうしたの? しんどいの?」
 ただ首を振る。あっちに行け、という意味だったのだが、通じなかったようだ。手に持っているカップを差し出してくる。
「かき氷食べる? 冷たくておいしいよ」
 首を振る。
「綿あめがよかったのかな。ごめんね、さっき全部食べちゃった」
「何もいらない」
「お腹減ってない?」
「減ってない」
「大人呼ぶ?」
「呼ぶな」
 拒絶しているにもかかわらず、子供は隣に座り込む。
「しんどくもないし、お腹も減ってないなら、何か悲しいことがあったの?」
「……ああ。遠い昔に」
「昔のこと思い出したってこと?」
「そうだ」
「よしよし」
 子供はそれが当然であるかのように、稔実の頭を撫でる。すっかり面食らって、じっと子供を見返した。
「……何を」
「なぐさめてる」
「なぜ?」
「お兄さんが悲しいから」
 何の見返りも求めない、無垢な愛情。人間からそんなものを向けられたのは初めてだった。彼らは稔実を一人にした。飢えても食べ物を分け与えてはくれず、痛めつけ、挙げ句の果てに親兄弟にしたのと同じ方法で殺そうとした。
 頬を涙が伝う。ああ、こんな風に関われる人間と一人でも出会っていたなら。悪狐となって人の世に害をなすこともなかったはずなのに。その子供の優しい笑顔と清らかな魂に恋をした。
 そのとき、母親らしき女が彼を探しに来て、さっと身を隠した。なんとも別れ難くて、彼の家までこっそりつけた。
 それ以降、折に触れて下界に出て、その子供の成長を見守るようになった。夏祭りで迷子になったのを助けたこともある。ただ、深く関わることはしない。人間と自分たちの関係は本来そういうものだ。
 人間の少年をあまりに熱心に見つめる稔実の様子を揶揄い、仲間の一人が「あいつは人間の童に惚れた」と言い出す。「連れ去ってきて嫁にすればいい」とも。
 無理に攫って怖がらせるような真似をしようとは思わなかったが、年々愛らしさを増す少年を側に置きたい気持ちはあった。身近に置いて、親しく言葉を交わし、またあの温かな手で触れてほしい。あの笑みをまた自分だけに向けてくれたら、どんなに幸せだろう。
 またある仲間は、重症だな、と笑った。
「嫁に取るのか、このまま深い関わりを持たずに過ごすのか、早く決めろよ。人間の命など儚いもんだ。迷っているうちに死ぬぞ」
「……しかし、私が関わることで、彼の人生を歪めてしまうかもしれない」
「お前は真面目だなあ。なら、一度神様にお伺いを立てればいい」
 自分たちのような下っ端にそんな機会があるはずもないが——。
「人間流でいこうじゃないか。神籤(みくじ)というのがあるだろう。あれは簡易的だが、まさしく神様のお告げだ」
 ちょうどその日は夏祭りの日。あの少年は毎年やって来るので、元々下界に行くつもりだった。
 人に紛れて神籤を引いてみる。——小吉、年末までに恋人あるいは伴侶がいないと、大きな災いが降りかかるだろう。おかしな内容だ。人でない自分が引いてもまともな結果は出ないのだろうか。
 その場を離れようとしたとき、件の少年がこちらに向かってくるのが見えた。彼も神籤を? 固唾を呑んで見守った。結果はどうだったのだろう。何やら様子が変だ。そんなに悪い内容だったのか?
 気になって気になって声をかけた。その紙に書かれていていたのは、自分のものと全く同じ内容。まさしく神の導きだと思った。
 ——運命だ……。
 嫁に取ることを選んでもいいのだ。嫁はまだ早いか。まずは恋人から。人間流でいこう。
 下界で暮らして、彼の信頼を勝ち取り、その後嫁に来てもらえないか誘おう。決めてからは早かった。その後の二週間程度で、準備を整えた。
 人の世に馴染むのはそう難しくなかった。夏祭りで彼と出会ってから数年、下界で過ごす時間が増えるうち、ルールや慣習、流行を知り、人々の暮らしに溶け込む術を習得していたから。元々狐は順応性が高い生き物なのだ。
 また、人間たちの社会を知ることで、人間への恐怖を克服する、とまではいかなくても、表に出さない方法も身につけていた。
 色々あったが、計画自体は順調に進んでいたはずなのだ。あとはもう少し仲を深めてから、自分の素性を明かしてプロポーズを——、と思っていたのに、結婚の意思を他人に明かしているところを見られてしまった上、突然の失踪というハプニングまで。
「はあ……」
 もう何度目の溜息だろう。ここではないどこかに心を攫われかけていたとき。
「——こら!」
 頭を思い切り叩かれる。背後には仁王立ちした藤がいた。
 稔実を含め、ここにいる他の皆がそうであるように、彼女は半獣姿——基本は人の形だが、獣の要素も混じった姿をしている。白狐の名の通り毛並みは純白で、頭には尖った狐の耳、尻にはふさふさした大きな尾を持つ。人に化けたときの黒髪より、こちらの方がやはり見慣れている。
 彼女は冷たく言い放つ。
「手が止まってるわよ。働きなさい」
「ちょっとぼうっとしていただけじゃないか。ちゃんとやってる」
「ああ、もう、まったく後から後からやることは増える……。毎年のこととはいえ、忙しすぎるわ」
 神無月——旧暦十月十日の夜、全国の神々が出雲に集まり、社に神が不在になる。お帰りは十月十八日。その間、社を支えるのは眷属の役目。
 全国に数多ある稲荷の社と氏子を守り、参拝者の願いに耳を傾ける。神でない狐たちにとって、それは非常に負担が大きい重労働。普段は割とのんびりしているのだが、毎年この時ばかりは目の回る忙しさだ。
 今稔実がやっているのは、別の狐が拝殿の裏で参拝者の願いを聞き取って書いたメモを、丁寧に清書していくこと。これをお帰りになった神様に見ていただく。藤は皆に仕事を割り振り、統括する立場にある。要するに、稔実は下っ端、藤は偉い。
 すぐ前に座っていた、狐にしてはやたらと体格のいい男が振り返る。
「恋煩いというやつだろう。稔実は童に夢中だからな」
「知っているぞ。人の世では『ショタコン』というのだ」
 その隣の、座っている状態では結っても畳に届くくらいに髪を伸ばした男も、ニヤニヤとこちらを見て言う。マッチョ自慢の筋トレマニア雅彦と美髪自慢のファッションマニア久長だ。彼らはいつも稔実を揶揄いたがる。肝試しで絡みに来たのもこの二人だ。
 不名誉なレッテルにはきっちり異を唱えておかないと。
「そんなんじゃない。俺を変態みたいに言うな」
「俺? 前はそんなこと言わなかったのに。すっかり人の世に染まったなあ、俺くん」
「俺くん、俺くん」
「お前ら!」
 雅彦と久長の子供のような揶揄いに、こちらも子供のように反応してしまう。
 藤にまた頭をぺしんとやられた。
「稔実、いちいち挑発に乗るんじゃないわよ。だからおちょくられんのよ」
「だって」
「し、ご、と」
「……頑張るから、少しだけ外に」
「駄目。皆我慢してるの」
「でも、何も言わずに出てきちゃってて」
「それは予定を忘れていたあんたが悪い。さあ、やるわよ」
 休憩はこれで終わり、と言うように、パンパンと手を叩き合わせる。
 これ以上食い下がっても無駄だろう。観念して作業に戻った。

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