「なるほどなあ。沼か」
「それ! どうしたらええん、俺は」
「どうしたらて。付き合いたいんやったら、玉砕覚悟で告白して砕け散るしかないんちゃうん。それで次や」
「結局次かー」
「しゃあないやん。あかんかったら次行くしか」
「せやなあ」
成瀬のアドバイスは単純明快だ。そう、確かにそれしかない。
砕け散る……。砕け散って、彼との関係が終わって、夜中に誰も訪ねてこなくなって、普通のご近所付き合いさえなくなったら、それはそれで少し、いや、かなり寂しいかも。
四限目終了後、大学を出る。成瀬とは駅までで、それぞれ別の電車に乗った。
十五分ほどで住まいの最寄り駅に到着。改札を抜けた後、スマホを確認する。返信はない。
今日は悠宇の部屋で晩ご飯を食べることになっていて、メニューの希望を尋ねるメッセージを送っていた。週に何度か一緒に食べるのが、いつの間にか恒例になっている。
それが定着するまでには、もちろん経緯というものがあり。そもそも悠宇との関係の始まりというのは、半年前、マンションのエレベーターに偶然乗り合わせたときのこと。いつも美人を伴っている彼は、その日はめずらしく一人でいて、お連れ様がいなかった。
決してじろじろ見ていたわけではないのだが、突然振り返った彼は、これまでまったく交流がないはずの朝陽に、親しげに話しかけてきた。
「君、大学生?」
「え? あ、はい」
「いくつなん。二十歳超えてる?」
「なりたてで……」
「お酒好き? 飲める?」
「多少は飲めます、けど」
それが何だというのだ。彼は缶がたくさん詰まったレジ袋を掲げて見せる。
「付き合うてや。宅飲みドタキャンされてん。かわいそうやろ、俺」
「はあ……」
あまりに自然に誘うので、ついつい付いて行ってしまった。
その時に連絡先を交換。以後、朝陽の何を気に入ったのかは知らないが、彼から時々お誘いが来るようになり、週に何度か夕飯を共にするご近所付き合いが始まった。
実際に話をするまでは、これまであまり接したことのない人種の彼に、どこか近寄りがたい印象を持っていたのだが、案外よく喋るし、気さくで愉快な人だった。
少々、いや、かなりだらしなくはあったが……。一緒に彼の部屋の掃除をすることや、ごみの分別を手伝うこと、公共料金の請求書を見つけて支払いを促すことはしょっちゅう。それでも、彼といるのは楽しかったから、呼ばれれば側にいた。
そんな悠宇には、これもだらしないうちに入るのだろうが、困った癖があった。酔うとスキンシップが激しくなるのだ。最初は抱き寄せてくるくらいだったのが、日を追うごとにエスカレートして、そのうち頬にキスすることや首を舐めることくらいは当たり前になった。
大して抵抗しなかったのは、単純に嫌だと感じなかったのと、年相応に性的なことへの興味があったから。
そんなこと、彼はとっくにお見通しのようで。
「あーちゃんさあ、男の人好きなんやろ」
「……え」
「俺もよ、俺も。バイやねん。あーちゃん、どんどん可愛いなってくから、もう触るだけじゃ我慢できんくなってきた。ええやろ、なあ」
手に指が絡み、握り込まれる。何を求められているのか——、おそらくこれで合っている。
「俺、その、そういうのしたことなくて……」
「せやろなあ。おぼこいもん。そこが可愛い。ええからお兄さんに任せとき。全部教えたげる」
ここで身を任せる選択肢を選んだのが明確な分岐点。それ以来、時間が合うときに一緒に夕飯を取る、健全なご近所付き合いと、会うたびセックスする不健全な関係とが、ごちゃまぜになって続いていくことになった。
後悔はしていない。ただ、このままでいいのかと考えることはある。
取り留めなく思考を巡らせるうち、駅に隣接するスーパーへ辿り着いていた。まだ悠宇からの返信はなし。晩ご飯のメニューは勝手に決めよう。そうしよう。
——忙しいんかなあ……。
そういえば、今日のバイトは何時に終わると言っていたっけ。いつも通りなら……、いや、もう新しい職場に変わっているのだったかな。
フリーターの悠宇は気分で仕事をころころ変えているようだ。全く仕事をしていないと思われる期間もあるが、不思議なことに、それでも生活は成り立っているらしい。彼が金に困っているのを見たことがない。
資金援助をしてくれる人——パトロンのお姉さんでもいるんじゃないかと密かに疑っている。
またしても余計なことを考えていて、メニュー決めは難航したが、豚バラが安いのを見つけて焼きそばに最終決定した。朝陽、悠宇とも料理スキルは高くないものの、焼きそばくらいならなんとかなる。
適当に食材を買ってスーパーを出る。
「あーちゃーん!」
名を呼ぶ声の方に顔を向ければ、自転車で走ってくる悠宇がいた。目の前で自転車が止まる。
「今連絡しよと思てたんや」
「そうなん。入れ違いにならんでよかった」
前かごに買ったものを入れてもらう。長い影を引き連れながら、自転車を押した悠宇と、家までの短い道のりを歩く。
基本はママチャリ移動の悠宇。以前、「ジムとか行かんとチャリで腹筋割った! チャリ最強!」と自慢気に語っていた。
彼はしげしげと買い物袋を覗き込む。
「今日は何にするん」
「焼きそば」
「ええやん。後でいくらしたか言うてな。払うから」
「ありがと。豚バラ安かったから多めに買ってん」
「あはは。焼きそばのカリカリの豚バラ最高やもんな。よし、久しぶりにホットプレート出そ」
「ホットプレートとかあったんや」
「前にうちに来た子が持ち込んでそのままになってんねん」
ああ、元カノかな。前はよく違う人を連れていたから、あの中の誰かかな。なんだかなあ、今日は複雑な気分になることが多い日だ。
マンションに帰り着き、自分の部屋に戻ることなく、そのまま悠宇宅へお邪魔する。休憩を挟むと調理が面倒になりそうなので、座りたがる悠宇の尻を叩いて、すぐに夕飯作りを開始した。
野菜の切り方や肉の大きさを巡って議論を交わしつつ、わいわいと下準備。食卓にホットプレートを設置し、切り終わった材料と中華麺を焼いた。味付けは濃い目で。
缶チューハイを片手に出来上がりを食す。少し焦げたがそれも美味しい。
テレビのバラエティ番組をBGMに、料理の感想やそれぞれの今日の出来事を言い合う、和やかな食卓。ふと大学で交わした成瀬との会話が頭をよぎる。手放したくないなあ、やっぱりこの時間。
食後の片付けが終了したあとは、動画配信サービスの映画をテレビで流し見しながら、ソファでだらだらする。悠宇はゼロ距離で引っついて、朝陽の首元の匂いを嗅いだり、肩に額をこすりつけたりしてじゃれついてきていた。
先にシャワーに行かせればよかったな。これだけ近いと気づいてしまう。悠宇が愛用している香水のかおりに混じって、微かだが、またあのにおいがした。昨日彼から感じた女物の香水。昨日と比べれば本当に微か、だが、存在を主張する『誰か』がそこにはいる。
今は彼がマンションに他の人を連れ込んでいるのを見ることはない(というか、意識して見かけないようにしている)のだが、他所で済ませている可能性は充分にあるわけで。
楽しいままでいたいのにな。こんなこと考えたくないのに。
気分が下降したとき、持ち直す方法はすでに見つけてある。スマホを取ってゲームアプリを起動する。人気の男性アイドル育成ゲームだ。いつもと変わらぬ爽やかな笑顔で、推しが出迎えてくれる。
引っつき虫にも当然この画面は見えているだろうが、隠すと悪いことをしているようなので、見たければ見ればいいという姿勢でいく。
彼は不満をあらわにする。
「なに、ゲームするん。俺といるのに?」
「ミシロくんに癒やされたい気分やねん」
「ゆーくんが癒やしたげるやん。この胸においで!」
「やあやもーん」
「そんなんのどこがええの。ハグできんし、ちゅーできんし、エッチできんし」
「当たり前やろ。でも、ミシロくんは皆のミシロくんでいてくれるからええねん」
自分のものにならない代わりに、他の誰のものにもならない。特定の恋人も、もちろんセフレも、彼には無縁のもの。嫉妬の心配がないから、好きでいるのが怖くない。
「誰が何と言おうと、俺はミシロくんが好き」
「は? 皆のもんの何がええの。自分だけのもんになる方がええに決まってるやん」
「世の中、手に入らんもんの方が多いねんで」
「そりゃそうやろうけど……。あーちゃんの言いたいことようわからん」
「わからんでええよ」
「なんか怒ってんの? それとも、嫌なことでもあった?」
「いける、大丈夫や。ミシロくんパワーですぐに回復するから」
重苦しい気持ちに支配されてしまう前に、いらないものは思考の外に追いやってしまおう。
アイドルパワーを借りるため、じっと推しと見つめ合っていると、その姿が眼前から突然消えた。悠宇がスマホを取り上げてテーブルの上に置いたのだ。
「あーちゃん」
顔を覗き込んできた彼と、間近で目が合う。彼の濃い茶の瞳の中に、戸惑いもがく自分がいた。
囚われる、世界が静止するような感覚。ここにはどうしようもない現実がある。この男はいつだってそれを突きつけてくる。
「俺のこと見てや、あーちゃん」
「……」
見てる、ずっと見てるよ。だって、もう随分前から好きで好きで、抜け出せなくなってしまっているから。欲しくてたまらないけれど、どうにも手に入りそうになくて、この息苦しさから気を逸らす方法ばかり考えている。
「あーちゃん……」
耳の後ろの方に手を添え、ちゅ、と軽く唇をついばむ。ちゅ、ちゅ、と何度も、大好きなキスをくれる。なんだかぐちゃぐちゃに抱き潰されたい気分だ。
「急にエッチな顔するやん」
「……しゃあないやろ」
「俺が癒やしたげるから。余計なこと考えんと、あーちゃんは感じとき」
ねえ、ゆーくん、大好きだよ。
創作BL小説置き場