(三)秋——逆鱗

 季節は移ろい、紅葉が徐々に山を彩り始める。
 レンはこの日、朝から一人で野菜の収穫に追われていた。最近はスイが来ていない日の方がめずらしいから、静けさに違和感がある。
 早く嫁に行って、スイのところに住まわせてもらうのがいいかな。そうしたらこの家ともお別れか。
 母と暮らした家。寂しいが、時々母の墓に手を合わせに行ってもいいとスイは言ってくれているし。
 スイの家には同居の家族はおらず、奉公人が何人かいるだけだという。「姑も小姑もおらぬ。気楽に暮らせばよい」と言われた。スイの家族には会ってみたかったのだが、「家族がいたのかどうかという記憶もない」という。小さい頃に亡くなっているのかもしれない。
 ここにずっと通ってきていたのは、レンへの同情心だけではなくて、寂しいのもあったのかな。
 寂しいな。一人でいると寂しい。風が冷たくて、自分の腕をさする。木々の揺れる音に胸が騒ぐのはなぜだろう。
 こういう時は心落ち着く場所に行くといい。あの洞窟の祠だ。今日はまだ掃除に行っていなかった。母に手を合わせてから、掃除道具と甘藷(さつまいも)を持って、滝へ向かった。
 目的地が近づいてくると、滝の音に混じって物音が聞こえてくる。耳を澄ませる。どうやら複数の男の話し声のようだ。こんな場所に人が? なぜ? 麓の村人か? 隠れて接近を試みる。
 樫の影から窺えば、滝壺の側に三人の男がいるのがはっきり見えた。上背があって恰幅のよい男、ひどく日に焼けた男、坊主頭の男。みな大きな槌のようなものを持っている。
 何を喋っているか聞き取れないので、さらに距離を詰め、身を隠す場所があるぎりぎりまで迫る。
 彼らが話していたのは、信じがたい内容だった。
「……本当によかったんだろうか」
「何が?」
「壊してしまっても……。村はあんな日照りなのに、ここはこんなにも水が豊かで。あの祠のお陰だったんじゃ」
「長老様のご命令だぞ。村の日照りは、この祠が残っているせいで暮々是様がお怒りになっているからだと。長老様の仰ることに間違いはない」
「しかし……」
 彼らは何と言った? 壊した? 祠を? さらに近づこうとして、足下の枯れ枝を踏んでしまい、パキッと硬い音が鳴る。
「誰だ!」
 男たちが振り返る。一斉に集まる視線。恐ろしくなり、荷物を放り出して駆け出す。
「こら、待て!」
「こんなところに少年が……? もしやあいつ、長老様がお探しだったふたなりの」
「追いかけろ!」
 後ろから足音がつけてくる。なぜ? なぜ彼らはレンを追ってくる? 焦りと恐怖で足が思うように動かず、つまづいて転ぶ。立ち上がる暇もなく、男たちに取り囲まれてしまった。
 恰幅のよい男が問う。
「お前、天谷(あまや)の娘の子か」
「そうだけど……」
 確かに母の旧姓は天谷だった。それがどうした。彼らと何の関係がある?
「長老様がお探しだ。来てもらおう。これまで丈一郎殿が邪魔をしてお前に手出しさせまいとしていたが、あの方はもうおらぬ。連れて行っても差し支えなかろう」
「丈一郎伯父さんが……どういう」
「五日前に亡くなったよ。あんなにお元気でいらしたのに突然倒れられた。何があったのか……、探らぬ方が利口よ」
「……そんな」
 レンたち母子の生活が成り立っていたのは、伯父の隠れた援助があったからだ。一度もお礼を言ったことさえなかったのに。亡くなった? それは本当のことか?
 混乱するレンを見下ろし、淡々と男は告げる。
「お前は暮々是様の依り代にされるんだとよ。暮々是様は両性の神だから、ふたなりは適任というわけだ」
「なぜ……。嫌だ。僕は行かない」
「そうは言ってもなあ。依り代がいなければ雨乞いの儀式ができないらしい。依り代を通じて神と繋がる。繋がって願いを聞き届けてもらう。つまり、お前は儀式の参加者全員と文字通り……、わかるだろう。妖の子には似合いの役目か」
 日焼け男が話に割って入ってくる。
「妖の子というから、もっとおどろおどろしいのかと思っておったが、なかなかどうして。これなら……」
「確かにな」
 なぜ彼らはそんなににやついている? レンの頭から足先までじろじろ見て——。ひどく不快で鳥肌が立つ。
「お前たち、盛り上がっておるが、そいつは本物なのか? 確認してから連れて行ったほうがよいのではないか」
「まあ、それもそうだ」
 坊主頭の提案に、恰幅のよい男が頷く。一歩一歩迫ってくる三人。獲物を追い込んでいるのだ。
「ついでに使い物になるのかどうかも確認しておいた方がいいかもしれん」
「そうだな。その通りだ」
「ああ、そうだ」
 何かに取り憑かれたような気味悪い目つき。怖い。怖くて身体が動かない。彼らはレンにこれから残忍な仕打ちをしようとしている。それはわかるのに、逃げられない。
 恰幅のよい男に背後から拘束され、日焼け男に足を押さえられる。
「やっ……!」
「脱がせろ」
 命じたのは誰だったか、坊主頭がレンの着物に手を掛ける。
 嫌だ、嫌だ、触らないで。助けて——。
 そのとき、背中がふっと軽くなった。拘束がなくなる。後ろに傾いだ身体を誰かが支えた。馴染みのある、この清涼な香りは。
 ——やっぱり来てくれた……。
 首を巡らせる。そこにいたのは思ったとおりの人。
「スイ……」
「祠が壊されて、そなたを守る結界が消えてしもうてな。申し訳なかった。怖かったろう」
 ああ、これで大丈夫だ。絶対的な安心感がレンを包み込む。
 残された日焼け男と坊主頭はひどく狼狽えた様子だった。
「お前、どこから湧いて……」
「嘉吉はどうした。消えたのか!?」
「飛ばしただけだ。力任せに投げたから、どこに行ったのかはわからぬが」
 彼はレンを抱いて立ち上がる。
 見えない壁に押されるように、男たちは後ずさる。日焼け男は歪み面でわめく。
「くそ、妖の仲間がおったか!」
「慌てるな、我々には暮々是様の加護がある」
「そ、そうだな、妖など暮々是様が」
「なんと愚かな者どもよ。供物を旨い旨いと食うておるだけのあの子鬼にそんな力などないわ。雨も富も健康も、あやつは何ももたらさぬ」
 冬の川のように冷ややかなその言葉に、坊主頭が目を剥く。
「なに……!? 罰当たりな」
「何を自分たちの神とするか、選ぶのは人。祀る神を変えたとて……、中には怒る者もいようが、私はとやかく言わぬ。その選択が何をもたらそうとも、いちいち干渉はせぬ。だが、これは看過できぬな。我が妻となる者を傷つけようとするなど」
 そう言い終わるや否や、突如空が暗くなった。振り仰いで見えたのは、空の向こうから押し寄せる黒雲の群れ。
 立ち尽くした男たちの呟き。
「おお、雲だ」
「雲を見るのは何月ぶりか……」
「この雲を良きものとするのも悪しきものとするのもお前たち次第。山の静寂を守るのならば、恵みの雨を与えてやろう。守らなければ、雨は暴れ、村を押し流す」
 肌をピリピリさせるような緊張感が、場を支配する。発する言葉の一つ一つが空気に重みを与えるような。彼には本当にそれを成し得るだと、見る者を信じさせる威光に、人はただ圧倒されるしかない。
「あなたは……、もしや」
 男たちは震え出す。自分が、自分たちが彼に何をしてきたのか理解したのだろう。
「即刻山から去れ」
「も、申し訳ございません!」
「どうか……」
「——去れ」
「ひっ……」
 我先にとバタバタと走り去っていく。
 彼らの足音が消え、元の静けさが戻ってきたあと、スイは嘆息する。
「はてさて、どうなることかな」
「……」
 彼はもういつもの優しいスイだった。温かな胸に頬を寄せ、着物を握りしめる。
「可哀想に。怖かったなあ」
 うん、怖かった、とても。声に出さずともいいのだ。わかってくれるから。
 愛おしげに髪に口づけたあと、彼はレンをしっかり抱え直す。
「あれだけ脅しても、恐らく事実を確かめに他の村人がまた来るであろう。移動した方がいい。共に来てくれるか」
「うん」
「少しの間目をつぶっていなさい。すぐに済むから」
 スイの手が両目を覆う。温かかったはずの掌がひんやりと冷たくなり、ふわりと身体が浮き上がる。
 どこに行くのかはわからない。だが、不思議と迷いはなかった。この男が何者であろうとも、すでにレンは魅せられ、囚われていて、離れることなど叶わないのだ。ついていくしか道はない。

 浮遊感に包まれたまま、どれくらい時間が経ったか。目蓋の上にあった掌がどかされ、地面——緑の草地にそっと下ろされる。
 目に飛び込んできたのは、柔らかな陽射しが降り注ぐ水面。ずっと先まで続いていて、湖と言っていいくらい広大なその池の真ん中には、大きな屋敷が浮かんでいる。
 屋敷と岸辺は朱塗りの橋が繋いでいて、池の周辺何か所か設置されているようだ。レンたちがいるのはその橋の一つ、おそらく屋敷の正面へと続く橋の前。
「さあ、行こう」
 促されて橋を渡る。
 近づいていくと、屋敷の裏の方から誰かが出てきた。レンより少し年嵩の青年で、純白の着物を身に纏っている。彼は深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、(おさ)様」
「ああ、ただいま、イチ」
「奥方様も。さぞお疲れでございましょう」
 オクガタ様……? そんな名前ではないが。こちらを見て喋っているから、多分レンのことなのだろうけど。何も答えられず、軽く会釈だけしておく。
 スイはこちらを振り向いて、背に腕を回す。
「レン、お腹は空いているか」
「今は別に……」
「甘いものは?」
「少しなら」
「果物をいくつか適当に持ってきてもらえるか。私の部屋に」
「かしこまりました」
 主人の命を受けた青年は、また深く一礼し、裏へと引っ込んでいく。
「こちらだ。案内しよう」
 一気に十人以上並んで通れそうな幅広の階段を上がって、履き物を脱ぎ、内部へ。左手に池を見ながら外廊下を歩く。
 浮世離れしているというか、あの世というのはこんな感じなんだろうなと思う。暖かく美しく、鳥の声が聞こえてくる以外に音のない静かな場所で、死せる人の魂を癒すのだ。
「ここがスイの家なの?」
「ああ。私の住処というか巣というか。これからそなたの家にもなる。気になるところがあれば言うといい。如何様にでも変えよう」
「いや、いいよ。別にそこまでしなくても」
「遠慮せんでもよいのだぞ。まあ、いきなり言われても困るか。それはまた追々な」
 変えるという以前の問題で、こんなところを自分の家にする生活が想像できない。必要なものが常に手の届くところにある暮らしとは真逆だ。
 しきりに辺りを見回しつつ、道順を覚えていられないほど歩く。どこまで行くのかと不安になりかけていたから、スイが立ち止まったときはほっとした。障子が開き、真新しい畳敷きの部屋に招き入れられる。屋敷の規模にしてはこじんまりした空間だ。
 勧められて座ったのとほぼ同時くらいだろうか。先ほどの青年イチが現れる。後ろに齢十歳くらいの子供もいる。揃いの着物だから、おそらくこの子も奉公人だろう。
 彼らの持った二人分の膳の上には、剥いて切り分けられた桃と梨と柿が盛り付けられていた。なんと仕事が早い。
 感心していると、レンの前に膳を置いてくれた子供が、ちらちらとこちらを見ているのに気づいた。果物がほしいのか? お腹が空いている? こちらから声をかける前に、子供は口を開く。

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