(三)秋——逆鱗

「長様の精を受け神気を注がれるということは、そういうことです」
「……え、どういうこと?」
 「そういうこと」で済まされても理解できない。子供が「精を受ける」などと言うことにまず引っかかったのと、単純に言葉の意味がわからなかったのもある。
 チョロが付け加えて言うことには——。
「神気に触れることで、人の肉体は変化するそうですよ。多く触れれば触れるほど肉体は神に近づく。まあ、大いなる御業を為すような能力は身につかないそうですが」
「そんなの聞いてない……」
「よいことではないですか。人の身で長様と長く連れ添うのは無理な話なんですから」
「……」
 シンキ? 肉体が変化するって? 自分の身体に一体全体何が起こっているというのだ。
 スイはどういうつもりなのだろう。この件といい祝言の件といい、説明がなさすぎる。そもそも、神様って何だ。求婚するなら、先に身の上を明かしてもらわないと。
 衝撃の事実を知ってから一夜明け、何が何だかわからなさすぎて、今になって頭痛がしてきた。
 こんなこと、チョロに愚痴るわけにもいかず、橋に止まった鷺らしき白い鳥を睨んでいると、チョロが唐突にすっくと立ち上がる。
「あー」
「ん?」
「長様が戻られたようです」
「わかるの?」
「はい、気配で。お迎えに……、おや、こちらに向かっていらっしゃるようですね」
 それから程なくして、廊下の曲がり角からスイが現れた。彼は飛ぶようにこちらへ駆けてくる。
「レン!」
「ああ、おかえりなさい」
「見せたいものがあるのだ。おいで」
 手を取られ、ぐいっと引っ張られる。
「なに、どうしたの?」
「いいからいいから」
 レンを立たせると、何処かへ連れて行こうとする。
「いってらっしゃませー!」
 チョロが元気に見送ってくれた。

 池の岸辺と屋敷を繋ぐ橋のうち、屋敷の正面から一番離れているという橋まで来る。今日はこれを使うらしい。
 橋の行き着く先、岸辺の向こうは木立になっているようだ。渡りきって、緑の濃い木々の中へ入っていく。こんなところに何があるというのだろう。
「どこに行くの」
「もうすぐだよ。ほら」
 そう長くは歩かなかった。スイが指し示した先には、木々に囲まれた小さな家があった。山にあるレンの家に似ている。似すぎているほど。
 近くに寄って見てみる。——似ているのではなく、そのものなのではないか?
 事も無げに彼は言う。
「山から持ってきたのだ」
「持ってきたって、これを? どうやって……」
「腕に抱えて運んだのだよ。中もそのままになっている。入ろう」
 彼が開けた戸から、戸惑いつつも中へ。隅から隅まで見て回る。
 本当にそのままだ。布がすり切れた座布団、片付け忘れた筆、水屋の中の欠けた食器、吊した干し柿、漂う匂いまで。置いてきたはずのものがここにある。
 彼は立ち尽くすレンの肩を抱く。
「昨日、そなたが寂しそうだったのでな。私にとっても大事な場所であるから、あちらに置きっぱなして朽ち果てるに任せるのが忍びなくて。多江の墓は動かせないから置いてきたが、荒らされるのを防ぐために厳重に結界を張ってきたぞ。折を見てまた花を手向けに行こう」
「……」
「……もしかして、余計なことをしたか?」
 不安そうな問いかけに、首を振る。余計ではないが、今のレンは、彼のこの厚意を素直に喜ぶことはできなかった。
「どうして僕のためにここまで……」
「そなたが寂しい思いをするのは嫌だからだ」
「あなたの助けを必要としている人は、他にいくらでもいるでしょう」
 すでにたくさんの恩恵を受けているレンに、こんな大がかりなことはしてくれなくていい。今この瞬間も、助けを求めて切なる思いで祈っている人がきっといるはず。
「……こちらへ。座って話さないか」
 背を押され、縁側へ出る。家に入る前に見た林は確かに緑だったはずなのに、そこにある木々は鮮やかに紅葉していた。昨日の朝と、まるきり同じ景色。
 並んで腰掛ける。これまで何度もこうして座って、手土産の果物や菓子を食べながら、二人で話をしたものだ。ここにいると、山ではない、まったく別の地に来てしまったのだということを忘れそうになる。
 スイは普段と同じく穏やかに語り出す。
「まず伝えておきたいのは、そなたを一つ助けたからと言って、他の一つが減るわけではないということだ。それは十でも百でも同じだ」
「そうなの?」
「ああ。しかし、他の何者よりもそなたを幸せにしたいと思っているのも事実」
「どうして……」
「楽しかったからな。そなたといたのは」
「……」
「不可解という顔をしておる。それだけのことでと思うかもしれないが、私には大きなことだったのだ」
 俯くレンの頬を、手の甲で撫でる。
「私は随分長いこと生きているが、こんなふうに人と関わったのはそなたら母子が初めてなのだ。もちろん、人のことはずっと見てはいたし、関わってはいた。しかし、こっそり施しをして小さな足跡だけを残して帰るのがほとんど。稀に姿を現しても、すぐに正体を明かしていて、地に伏せ畏まる者たちに一言二言声をかける程度だった。それが私にとっての当たり前だった」
「……うん」
「チョロを助けたという子供に会いに行こうと思ったのは、ただの気まぐれ。褒美だけ与えて帰るつもりだったのだ。しかし、そなたらは何も望まず、せっかく来てくれたのだから、と私を夕餉に誘った。貢ぎ物ではない、素朴でありふれた、人々の『いつも通り』の食事。それが何より美味しく感じたし、仲睦まじい母子が食事を取る『いつも通り』の空間に身を置いていることが、なぜかとても心地よかった」
 それが通い出すようになった切っ掛けだという。
 『いつも通り』でいてもらうために正体を隠して母子と関わるうち、次第に情ともいえるものが芽生える。清らかで信心深い母子と過ごす時間は、とても大切なものになっていった。
 悲しみや怒りで心を乱されることもなければ、歓喜で涙することもない。心はいつも凪で、ただ静かに人の世を見つめていた。特別に大切な何かも誰かも持たない。そんな彼に訪れた小さな変化。それは次第に大きなものになっていく。
「この家に通うようになってしばらくしてから——そなたが十かそこらの頃だったか、異国の神に傾倒した人々が、麓の村の社を壊したことを知った。それ自体は前にも言ったとおり、大したことではないのだ。どうでもいいと言えば語弊はあるが、好きにすればいいと思った。そこに怒りも悲しみもない。しかし、異国の神の依り代として、そなたを攫い出そうという企みを聞いたときには、心底不快な気分になった。あれが怒りの感情なのだと、少ししてから気づいた。守らねばならぬと強く思い、洞窟の祠を核として結界を張った」
「そんなに前から……?」
「ああ。奴らは随分山を探し回っておったが、見つけられなかったようだな。それから何年か経ち、あの悲しい出来事が起こった。多江のことだ。あの雪の多かった冬……、急な病で多江が倒れ、そなたの看病虚しく息を引き取った。そなたは一人になった寒い家で、伯父による葬儀から帰ってきた骨壺と共に、震えながら私を待っていた」
 彼とレンでは時間の感覚がまるで違う。たった一月(ひとつき)——彼にとっては二、三日、あるいはもっと短い期間不在にしたくらいのつもりだったという。前の年もその前の年もそうしていたように、冬は苦手だからもう少し暖かくなってから行こう、そう考えていた。
 村人が母子に何かしようとしても、結界が守ってくれる。結界に異常が起これば即座にわかるから、その時は助けに向かえばいい。
 しかし、母子の生活を脅かすのは村人だけではなかったのだ。一月前には確かに健康だったはずの母を襲った病。
「後悔している。あの時のことは、本当に。そなたの母親を救えなかったこと、そなたを一人にしたこと」
「だから、それは仕方なかったんだと今はわかっているって……」
「守ってやれるのは私だけだったのだから、何とかしてやらねばならなかったのだ。なぜ来てくれなかったのだと泣いて怒るそなたを見て、激しく胸を締めつけられるような感覚になったよ。感じたことのない強い痛みだった。母を失ったそなたの悲しみに共感し、人の儚さが急に現実のものとして迫ってきて……、目の前の子供の命が切実に惜しくなった」
「……」
 いったん言葉を切った彼に、無言で頷いて、先を促す。
「……人は高々五十年ほどしか生きぬ儚きもの。人の死とは当たり前のもので、消えゆく命にいちいち心を痛めたことはない。でも、そなたが死ぬのは怖かった。どうしても長く側に置いておきたくて、嫁にならぬかと誘ったのだ」
「結婚は僕を死なせないため?」
「そのときはな。それが長く共にいる唯一の道だと考えた。あれから、以前より頻繁にそなたの元を訪れるようになって、たくさんの楽しいことをして、他にも多くの感情を知ったよ。心地よくても苦しくても、その全部が大切なものだ」
 ぎゅっときつく抱き寄せられる。
「……スイ」
「抱きしめたいと、愛おしいと思うたのだ。理屈ではない」
「それは親心みたいな」
「親心も無いでは無いかもしれんが、それだけで目合いたいとは思わんだろう。村を追い出した者どもを恨むこともなく、母を失った悲しみに心を殺されることもなく、健気にも凜と立って生きるそなたが私は愛おしい」
 こちらを覗き込む真っ直ぐな眼差し。レンには考えも及ばぬほど多くのことを見てきた瞳。それが今レンだけを映している。
 諸々の説明不足にもやもやしていたはずなのだが、彼の話を聞くうちにそんなことは些細なことに思えてきた。
「……僕だって好きだよ。ずっと好きだ。スイがいたから、母さんがいなくなった後も、孤独に押しつぶされずに僕は僕のままで生きていられた」
「結婚に不安はあるだろう。だが、お願いだ、断ると言わないでくれ。身体が変化するなどと言われれば、驚くのはわかるが、私に時の流れを合わせるだけで、まるきり何もかも変わってしまうわけではないのだ。ここで何をして過ごしてもいいし……、勉学を極めてみるのもいいだろう。書物はたくさんある。時間の許す限り教えてあげよう。野菜も好きに育てていいぞ。新しい種を開発してみるのも……」
 どうやらチョロとの話を聞かれていたらしい。
「屋敷を離れていても、屋敷での会話は聞こえる。ここは私の作った領域だから。内緒話をしたいときは筆談してもらうしか……、いや、見ようと思えば見られるから、完全に内緒にするのは不可能だ。すまぬな」
「内緒話じゃなかったから、いいんだけどね、別に」
「祝言のことはまだ全く決まってはいないのだ。盛大にやるとなると、参列者が多すぎてそなたが怖がるかもしれないから、今この屋敷にいる者だけで内々で済ますのもいいかと思っている」
「そう」
「花嫁衣装を仕立てねばなあ。きっと綺麗だ」
「服ぐらい何でも……」
「駄目だ。仕立てる。これだけは譲れない」
「うん、まあ、じゃあお願いします」
 レンは詳しくないので、彼がそう言うのならそうしてもらった方がいいのだろう。
 しばらく彼の腕の中に収まったまま、規則的な鼓動を聞く。彼がここにいて、レンが側にいることを望んでいる。もうそれでいいのだと思った。
 長い指が髪を梳き、額と生え際の境に口づけられる。
「可愛い私の蓮華(れんげ)や」
「……蓮華」
「蓮華だろう」
「知っていたの、名前」
「以前多江から聞いたのだが、レンに慣れてしまってなあ」
「慣れているなら別にそれでいいよ。隠すつもりはなかったんだけどね。母さんがいつも僕のことをレンちゃんと呼んでいたから、スイは僕の名をレンなのだと思ってそう呼び始めただろう。蓮華はすごく可愛い花だ。僕には不似合いだと思っていたから、もうレンでいいかって訂正しなかったんだ」
 なんだ、あったな。レンにも言っていなかったことが。スイがやらかしたことの方が重大だとは思うけれど、仕方がないからお互い様ということにしてあげようかな。
「そなたは可愛いよ。花より何より。なあ、蓮華や」
「はいはい」
「ほら、こちらを向いて。愛でさせておくれ、蓮華や」
「もう」
 照れでぶすっとするレンの顔など見て何が楽しいのやら。
 あまりにうるさく名を呼ぶものだから、蓮華と言っていいのは一日五回まで、というおかしな約束事ができた。

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