(三)秋——逆鱗

「あの、お話しさせていただいてもよろしいですか」
「こら、やめなさい。奥方様はお疲れなのだ」
 イチは嗜めたが、構わない、と首を振る。子供に向かって尋ねる。
「なに? ほしいの? 食べる?」
「いや、いや、滅相もない! そちらはどうぞお召し上がりください!」
「う、うん……」
「あの、ぼくのこと覚えておいでですか?」
「え、君のこと? うーん……」
 レンは誰かと接する機会が極端に少ない。子供の知り合いなど全くいない。
 よく見てください、というように、子供は身を乗り出してくる。
「あのとき助けていただいた蛇でございます!」
「蛇……」
「蛇です」
 子供の姿が一瞬で消える。あれ、どこに行った? きょろきょろしていると、スイが畳の上を指したので、視線を落とす。そこには小さな白い蛇がいた。
「蛇だ……」
 蛇を助けたことなんて……あるか。何年も前……まだスイがあの家に通い出す前に。
 山で弱っていた白い蛇を拾ったレンは、家に連れ帰って休ませ、餌を与えた。何日かするとすっかり蛇は元気になって、いつの間にかいなくなっていた。そのときレンが蛇に付けていた名前は——。
「チョロだ! チョロチョロ動き回るからチョロ」
 蛇は何度も頷く。そしてまた蛇は消え、さきほどの子供が現れる。
「思い出してくださいましたか! あの時はまだこちらにご奉公に上がったばかり。人の世ではこの姿を保てない未熟者だったのですが、好奇心の促すまま探検に出てしまったのです。結果、村の子供たちに追いかけ回され、這々の体で山に逃げ込むという情けない事態に」
 じりじりとレンに近づいていく子供の襟首を掴み、イチは自分の隣に引き戻す。
「あのときからチョロは人の世に行くのを禁じられておるのです」
「いつか直接お礼に言いたかったのです。ありがとうございました」
 丁寧にも畳に手をついて頭を下げる。
 あれは真心だけの純粋な行為ではなく、珍しい色の蛇を手元で眺めていたかったというのも大いにあるのだ。お礼を言ってもらうほどのことではない。
「やめてよ。そういうのじゃないから。ほんとに」
「チョロが行けぬから、私が出向いたというわけだよ」
 スイは桃の一切れに楊枝を刺しつつ、口を挟む。
 そういえば思い出した。彼が初めてレンたち母子の家に来たとき、手土産として持ってきた桃を差し出して、こう言ったのだ。「うちの奉公人を助けてくれたお礼がしたい」と。あれはそういうことだったのか。
「てっきり人違いかと……」
「奥方様はぼくの命の恩人でございます! ほんっとーにありがたく」
「いいんだよ、お礼なんて言わなくて。大したことはしていないんだから。それより、オクガタ様って……。君こそ僕の名前を忘れた?」
「もちろん存じ上げておりますとも。しかし、奥方様は奥方様です」
「んー……?」
 首をひねっていると、スイが説明してくれる。
「奥方とは主人の妻のことだよ。彼らは少々気が早いのだ」
 今度はイチが首をひねる。
「しかし、長様、ここに連れてこられたということはそういうことでございましょう」
「祝言がまだだ」
「では、レン様とお呼びさせていただいた方がよろしいのですか?」
「僕に様なんてつけなくていいよ。レンで」
「そういうわけには参りません」
「いや、でも」
「できません」
 なかなか頑なだ。
 奥方様やら長様やら、祝言やら人の世やら、理解の追いつかない発言が色々と出てきて、すべてを追求していられない。
 なにやら話したそうにうずうずしている様子のチョロの襟を、イチは再び掴む。
「長居してしまい申し訳ありません。私どもはこれで。ご用があれば何なりとお申し付けください」
「ぼくはね、話し相手が得意です! お喋りしたいときはどんどん呼んでください」
「やめなさい。うるさいのは連れて行きます。どうぞごゆっくり」
「ごゆっくり!」
 退室する奉公人たち。奉公人……奉公蛇?
 出ていった後も障子が開け放たれたままなので、外廊下の向こうに池が見える。水面の煌めきを眺めながら呟く。
「……蛇は喋るんだな。初めて知った」
「山をうろちょろしているほとんどが喋らんよ。あれらは妖という類いのものだ。龍になるための修行中で、ここで奉公しながら勉強しているのだよ」
「蛇が龍になるの?」
「ああ、皆ではないがな。ここに来た者たちでも、諦めて里に帰る者は多くいる」
「へえ……」
「さあさあ、食べたいだけお食べ。あんなことのあったのだ。食べた後はゆっくり休むといい」
「うん、ありがとう」
 まずは桃、続いて梨も柿も、一切れずつ食べてみる。どれも美味しい。これだけではなく、今までスイがくれた果物は、もれなく美味しかった。
 冬に苺を持ってきてくれたときはびっくりしたな。あのときは、冬に採れる苺もあるのだろうと、そういう風にしか思っていなかったけど。
 冬に苺を入手できたのも、あり得ぬほど釣りが上手いのも、険しいはずの山道を通って頻繁にレンに会いに来ることができたのも、時々へんてこなことを言うのも、洞窟の祠の神様に詳しかったのも、多分根本にあるのは同じ理由。
 日常的に点在していた不思議の数々に、全て合点がいった気がするのだ。
「……ねえ、スイ」
「何だ」
「スイはスイじゃないの? スイは誰なの?」
「私は私だよ。自分を人と偽ってそなたらに近づきはしたが、それ以外に嘘はない。そなたが見てきた私が私だ」
「どこぞの物好きなお坊ちゃんかと思っていたのに」
「多江は気づいていたようだがなあ。いつだったか、そなたが昼寝をしているときに二人で話していてな。床に手をついて言うのだよ。この子の行く末が心配でならない、どうかこの先もこの子にご加護を、と」
「……そうか、だからスイは」
「違うぞ。いくら加護を求められたところで、慈悲心だけで求婚などせんし、ここにも引っ張り込まん」
「……」
「急に全てを受け入れられないのは仕方ないことだろう。ここでは時間を気にする必要はない。徐々に慣れていけばよい」
「……うん」
 慣れることなどできるのだろうか。慣れるしかなかろう。ここに招き入れられたということは、きっとそういうことだ。ここがレンの生きる場所になるのだ。『あちら』に未練があるとすれば——、長く暮らした家と、母の墓。それから、洞窟の祠のこと。
「祠、壊されちゃったね」
「そなたがいつも綺麗にしてくれておったから、あれは気に入っていたのだがなあ。しかし、形あるものはいつか壊れるものだ。どんなに立派な社でもな」
「スイがいいと言っても、僕は悲しかった」
「そうか。優しい子だな、そなたは」
 涙がにじんできたのを隠すため、そっぽを向いたが、やはり気づかれていたようだ。髪を撫でる掌はいつもと同じで温かかった。

 翌日、朝ご飯の後、スイはどこかへ出かけていった。
 好きにしていいと言われていたので、屋敷の中を探索してみることにする。同じような部屋がいっぱいで、迷子になりそう……と思っていたら、迷子になっていた。まあ、そのうちスイが戻ってきて見つけてくれるだろう。
 外廊下に座り込んで膝を抱え、ぼんやり池を眺める。池の真ん中に家を作って、夏にはよく川遊びをして、スイはきっと水が好きなのだな。
 自分はいったい彼をどこまで知っているのだろう、と思いを巡らせていると、背後に気配を感じた。目をやると、柱の陰に子供の姿があった。
「チョロ、どうかした?」
「何をなさっておいでなのかなと思って……」
「別に何も。暇なんだ。話し相手になってくれる?」
「喜んで!」
 いそいそとやって来て、少し後ろにちんまりと座る。
 誘った側から話題を振ろう。
「チョロは何という名前なの?」
「チョロです」
「いや、それは僕が勝手に付けた名前だろう」
「レン様からいただいた名前がとても気に入ったので、チョロに変えました。だから、今はチョロです」
「いいの? そんな簡単に変えて」
「人は自分の好きな名前を好きに名乗ることは出来ぬのですか」
「そうだなあ。親からもらった名前をずっと使う人がほとんどだね」
「なるほどなるほど。人の世の知識が増えるのは嬉しいです」
 チョロは無邪気に笑う。
 スイは妖の類いだと言っていたけれど、チョロは明るくて愛嬌があり、人の子と変わらなく見える。村人たちに「妖の子」と言われ続けてきたレンだが、大した悪口ではないように思えてきた。
 彼は大きく右手を挙げる。
「はいはーい」
「どうしたの」
「お伺いしたことがありまして」
「なに?」
「祝言はいつなのですか」
「祝言って……、僕たちのってことだよね?」
「左様です」
「さあ。スイが祝言を挙げる気なのも昨日聞いた。祝言って何をするんだろう。君は知ってる?」
「祝言など見たことがありませんので、ぼくも知らぬのです。だからもう楽しみで楽しみで」
 楽しみにするようなものなのかさえわからない。どんなものであれ、レンはスイがすると言ったことをやるだけだ。
 それも気になりはするのだが、レンはその先のことにも悩みがある。
「オクガタ様になったら、僕は何をすればいいのだろうか。うちに来てご飯を作らないかとスイは言っていたから、炊事係をやればいいのかな」
「ここには炊事係の蛇がおりますよ」
「だよね。昨日の夕ご飯、ものすごく豪華で美味しかったし……」
「お好きに過ごされたらいいと思いますけど。お暇でしたら、一緒にカルタしませんか、カルタ。楽しいですよ」
「いいけど、毎日カルタというわけはいかないだろう。野菜でも育てようか」
「供物がたくさんあって」
「だよねえ」
 これまで毎日朝から晩まで何かしらやることがあったのに、それがなくなったらどうすればいいのやら。
 ああ、スイの手伝いはできないかな。そもそも彼はレンの家に来ていないとき、どんな仕事をしていたのだろう。荷物持ちくらいならできると思うが、レンの出番はあるだろうか。
 ここに住み込んでいるチョロならきっと詳しいはず。
「スイは神様なんだよね」
「左様です」
「何をする神様なの?」
「ご存じないのですか?」
「知らない。だって、昨日までどこぞの物好き坊ちゃんだって思っていたんだから」
「はあ。長様はすごい方なのですよ。あちこちのお社で祀られていて、多くの方に頼りにされておいでです。人の世に無頓着な神も多いですが、長様は人々に施しを与えるのがお好きなのです。主に雨をもたらす水神として信仰されていていますが、それ以外にもお願いすれば叶えてくださることもあるようですよ。各地に長様の足跡が様々な伝説として残っています」
「へえ、そんな人が……、いや、人じゃないのか。しょっちゅううちに来ていたけれど、大丈夫だったのかな」
「問題ないんじゃないですかね。たとえ我々と普通にお話しされていても、長様は同時にいくつも他のことをしていらっしゃいますから。神とはそういうものらしいです」
「ふうん」
 本来、手が届くはずなどないのだ。遙か遠い場所から人を見ていて、祀られ与える立場。人は彼を信じて祈り、得られるかどうかもわからない慈悲に縋る。
 レンに手伝えることなどあろうはずもない。
「なぜ僕だったんだろう。ただの人間なんかを妻に、なんて」
「理由は長様にしかわかりませんが、レン様はもうただの人間というわけではないと思いますよ」
「なんで?」

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