1-(1)魔物の罠にかかったら

 小さい頃、(こう)は祖父母の家にある蔵で遊ぶのが好きだった。
 骨董品好きだったという曾祖父が集めた珍しい物がたくさんあって、時間を忘れ、宝探しの気分で探検したものだ。
 今はもう小さい子供というわけではないが、それでも久しぶりに入ったそこは、とてもわくわくする空間だった。あの時には届かなかった高さに置かれた物も、今ならじっくり見られる。
 その中で発見した、一際興味をそそられた品。
「じいちゃん、この本なに?」
 一冊の本を手にし、母屋の縁側にいる祖父のところへ行く。革張りの重厚な装丁の、とても古い本だ。アルファベットとは違う外国の文字で書かれているようで、大小の円が重ねて描かれた、表紙の装飾が美しい。
 曾祖父のコレクションは昔の日本の美術品が多い。こういう舶来物は初めて見た。
 祖父は老眼鏡を掛け、渡された本にしげしげと見入る。
「これはまた……。弟の持っていた本だな」
「ひいじいちゃんのじゃないんだ。てか、じいちゃんって弟いるんだね」
「ああ、いるというか、いたというか、航が産まれる前に行方不明になってな。ある日突然いなくなって、今の今まで帰ってきておらん。本人は何か悩んでいる素振りも見せていなかったし、目撃者もおらんかったし、あの時は神隠しだと騒がれたもんだ。新聞にも載ったよ」
「……初耳。そんなことがあったんだ」
「行方不明になった日、弟の部屋の机に置かれていたのがその本だ。じいちゃんは外国語がわからんから、持っといても仕方ない。欲しかったらやるぞ」
「うん……。じゃあ、とりあえずちょっとだけ貸して」
「ああ」
 ゆっくり見てみたいから借りていくけれど、この家にとって特別な思い出を背負った本らしいから、ここに返しに来た方がいいかもしれない、とは思う。
 今日は母から言いつけられて届け物に来ただけだ。蔵で随分時間を使ってしまった。これ以上の長居は母を怒らせそう。借りた本を大切に鞄へと仕舞って立ち上がる。
 帰り際、祖父はいつもの笑顔で見送ってくれた。
「航や、また遊びに来てくれよ」
「うん」
 近いうちに、必ずまた。どうせ母の用事で来ることになるだろう。

 航の自宅は、祖父宅から歩いて数分。
 母にただいまを言ってから、二階の自分の部屋に上がり、さっそく借りてきた本を取り出した。勉強机に座って、細かい埃を丁寧にティッシュで拭い、そっと開いてみる。
 どのページも小さな文字がびっしりだ。
「何語なんだろう……」
 アルファベットではなく、英語ではない、ということしかわからない。挿絵がないから、内容の見当を付けようがないのは困った。ちょっとでもヒントがあれば、そのキーワードを入れて検索するのに。
 どうやって調べればいいのかな。図書館に持っていけば教えてくれるだろうか。この古書の中に閉じ込められた未知の世界を知りたい。
 航は元からそう本好きではなく、活字の詰まった本など滅多に読まない。それなのになぜこの本にはこうも興味を引かれるのか、自分でもわからなかった。とにかく知りたいのだ。知らなければならない、という気もする。
「……ん?」
 ページの真ん中辺りに何か挟まっている。十センチ四方のこれまた古いメモ。摘まみ上げてデスクライトで照らす。そこには日本語でこうあった。
「満月の夜更け。合言葉は……」
 その後に片仮名で、意味があるようなないような文字の羅列が続く。まるで呪文のようだ。
 もしかして、これは持ち主であった祖父の弟が残した、この本の謎を解くためのヒントなのかも。
 満月の夜更けにこの呪文を唱えたら、本が輝きだして何かが起こる……とか? オカルト好きの友達に影響されすぎかな。でも、実際に起こったらおもしろい。何も起こらなくても話のネタにはなる。
 スマホで検索してみると、今日はちょうど満月。メモの文言では何も検索結果が出なかったから、実際に試した方が早いだろう。よし、深夜になるのを待って決行してみよう。少年らしい無垢な——そして無謀で愚かな好奇心が航を突き動かす。
 夕飯や風呂などを済ませ、そわそわしながら待つ。そして、深夜、零時ちょうど。深呼吸をしてから、三十字ほどのその「合言葉」を唱えると、「何か」は全く予想していなかった形で起こった。
 突然部屋の電気が消え、周囲が真っ暗になる。満月の光さえ遮断された暗闇。
「え……?」
 直後、どろりとした沼に落ちていくような、吸い込まれていくような感覚が、身体を包む。
「なに、何が……」
 為す術はない。導かれるまま流されていくだけ。

 瞼を上げる。時間の感覚が曖昧だ。メモの合言葉を唱えたのはほんの数分前だった気もするし、数時間経っている気もする。
 濃密な夜の静寂の中、仄かな蝋燭の明かりが航を照らしている。じっとりとした生温かい空気が肌に纏わりつくようで、少しの黴臭さが鼻につく。
 大人五人くらいが一度に寝転べそうな大きさの、丸いベッドの上に、なぜか裸で横たわっている航。ベッドの縁に沿って鉄柵で囲われていて、上部で折れ曲がった柵は天辺で一箇所にまとまり半球型になっている。巨大な鳥籠のようなものに入れられているようだ。
 鳥籠の外には石造りの空間が広がっている。隅まで光が行き届いていないので、どれくらいの広さの部屋なのかはわからない。天井は高く、天窓から微かに月明かりが差している。
 初めての場所、知らない場所。しかも航は素っ裸。座って膝を抱え、呟く。
「どこ……? 夢……?」
 あまりにも現実離れしていて、焦りも不安も生まれず、周囲を冷静に観察する余裕すらある。
 ギイギイと物音がして、そちらに顔を向ける。石造りの部屋の扉が開く。
 やって来たのは、航より三、四歳ほど年下であろう子供二人。彼らは軽やかに鳥籠まで駆けてきて、柵の間からこちらを覗き込む。
 コピーして並べたように同じ顔が二つ。左が青、右が赤のリボンタイをしていて、違いはそれくらいしか見当たらない。双子だろうか。大きな目がくりくりして可愛らしい印象だが、尖った耳だけが異質な印象だった。
 彼らは角度まで合わせたように両手を挙げる。
「わーい! 久しぶりに人間が罠にかかってる!」
「やったね、ミヤ」
「やったね、メヤ」
 ハイタッチする音が響く。
「殿下を呼びに行かなくちゃ!」
「行こう行こう」
「あの、ちょっと……、ここ、どこ? 君たち、誰? なんで……」
 慌てて呼び止めると、彼らはにっこり笑う。
「やあ、ようこそ!」
「ようこそ!」
 湿気の多い空気の重苦しさを撥ねのけるかのような、とても元気な挨拶だ。
「……どうも」
「ここは殿下のお城だよ。君は殿下の罠にかかってここに来たんだよ」
「殿下……? 罠……?」
「殿下はとっても偉くて強くて格好いいんだ。僕たちすっごく尊敬してる」
「すぐ連れてくるね!」
「え、え……?」
 結局ろくな説明もしてくれず、双子は出てってしまう。
 また一人になり、鉄柵を掴んで揺すってみる。びくともしない。あり得ないおかしな状況。やっぱり夢なんだ、これ。
 しばらくして、また扉が開く。さっきの双子を引き連れて入って来たのは、三十前後の上背のある男だ。夜会服のような重々しい恰好をしていて、双子と同じ尖り耳が特徴的だ。
 男が指を鳴らすと、一瞬のうちに鳥籠が消える。ほら、やっぱり夢。
 つかつかとこちらに歩み寄ってきた彼は、品定めのようにまじまじと見つめてくる。その彫像のように温度がない表情——存在自体に奇妙な違和感がある。これまで出会ってこなかったもの、異様なもの、外の世界のもの、そんな直感。
 男は一つ頷く。
「これはなかなか良いのがかかったな。しなやかで健康的だ」
 やる気満々の生徒のごとく、双子は同時に挙手をする。
「僕もいいよね!」
「僕も!」
「参加させてはやる。今日の私は機嫌がいいからな」
「やったー! 久しぶりの人間だ」
「人間の汁は美味しい。好き!」
「僕もー!」
 無邪気にキャッキャと双子は騒ぐ。人間の汁……? 煮込まれるのか? すごい夢だな。
「……えらく落ち着いているな、人間よ」
 闇とよく馴染む、低く滑らかな男の声。混じり気のない黒い瞳が見下ろしている。
「え、俺……?」
「お前だ。この城の人間はお前だけだぞ」
「へえ……。じゃあ、あんたたちは何?」
「森の向こうの人間どもは我らを魔物と呼んでいる」
「魔物……」
 最近、RPGのゲームなんてやってないのにな。なんでこんな夢を見るんだろう。
「前に来た人間は家に帰せと泣き喚いていたがな。まあ、肝の据わったやつは好きだぞ」
「はあ、そうですか」
 こんな悪役っぽい奴に好かれてもな。後々仲間になる……タイプではないか。落ち着いた大物の風格があり、ラスボス感が漂っている。
 男は淡々と告げる。
「さて、さっそく始めるとするか」
 彼が片方の掌を上に向けると、宙に淡く紫に光る糸の束が現れる。魔法かな。これもRPGっぽいな。
 四本の糸がうねうねとひとりでに動くのを、航はぼんやり眺めているだけだったのだが、しかし、これはただのマジックショーではなかった。こちらに向かってきた糸は、航の両手首両足首に絡みつき、引っ張って大の字に開かせ、あっという間にベッドに縫い止めてしまった。
「……!?」
「はいはい、失礼しまーす」
「見やすくしまーす」
 双子は手際よく航の腰とベッドの間にクッションを挟む。ここに来て意識させられる。自分が裸であったことを。腰を突き出して、まるで局部を見せつけているかのような格好になっている。
「え、なに、なんで……」
「欲望は溜めに溜めて一気に放出した方が旨い」
 さらに男が出現させたもう一本の糸。一直線に向かった先は、あろうことか剥き出しのペニスで。根元に絡みついて縛ってしまう。
「何だよ、これ……」
 RPGじゃない。敵に捕まってピンチのキャラクターだって、こういう扱いをされているのは見たことがない。夢とはいえ、荒唐無稽すぎやしないか。
 逃げの体勢を取ろうとするが、糸のせいで手足はいささかも動かない。
 にわかに焦り始めた航の股間を男が凝視する。
「えらく小さいな。そこの双子と変わらんではないか」
「な……、は?」
「はてさて、どこまで大きくなるものか」
 ベッドに乗り上がってきた彼の体重で、マットレスが沈む。真ん前に膝を突いた彼の、革手袋をつけた手が、縮こまるそれをぐっと握り込む。
「痛っ……」
「これでか? 人間はか弱いな」
 力を緩めて擦る。

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