1-(3)思いがけない再会

【——航】

 行為に耽っている最中も、その後も、男は航の全身をくまなく舐める。精液だけではなく、汗や唾液、涙も美味しいらしい。魔族は皆そういう味覚を持っているそうだ。だから人間を求める。
 嗜好品なのだと言っていた。酒や煙草と同列の物。そんなものに成り下がりたくないのに、ろくな抵抗もできずにただ搾り取られるだけ。彼の部屋で、こうして毎日。
「水を摂っておけ。干からびて死ぬぞ」
「……」
 素肌に部屋着を羽織った彼は、顔前に水の入ったボトルを突きつけてくる。せめてもの意思表示として、返事をせず、視線もやらない。
「仕方がないな」
 男はボトルから水を口に含み、航の頭を押さえつけて、唇を合わせる。ぐっと歯を噛み締めて堪えていると、唇の端に親指を突っ込んできて無理矢理開かせられた。流れ込んでくる生温かい水。飲み込むしかなくて、男の唾液と混ざり合ったそれは喉を伝って落ちていく。これを三回繰り返す。
 遅効性の毒のように、体内から徐々に蝕まれていく気がした。
「風呂は」
 短い問いに首を振る。本音を言えば、寝る前に入って汚れを落としたいが、無理に決まっている。ろくに動けやしないのだから。あの双子の世話になるのも嫌だし。
「では朝でいいな」
 彼もベッドに横になる。魔物とはいえ睡眠は必要らしい。
 何もできない自分が情けなくて、どうにもならない状況が苦しくて、彼に背を向け声を殺して泣く。
 元より求めてはいないが、いくら涙を流したところで、もちろん同情などしてもらえない。
「もういい加減諦めろ」
「……」
「どうせ帰れないなら、現状を受け入れて、楽に生きる方が賢明だと思わないのか」
 誰のせいだと思っているのだ、この野郎。
 思い切り殴ってやれたらいいのだが、そんなことできやしないし、したって事態は好転しないだろう。それくらいはわかる。どうにか解放に向けた交渉ができれば——。
 寝返りを打って彼に向き直る。
「……帰りたい。俺にだって、あっちに家族も友達もいるんだ」
「どうにもならん。彼らも罠に引っかかって、こちらにやって来るのを待つしかないな」
「せめて一ヶ月とか二ヶ月とか期限を決めて……。それなら我慢できないことも」
「無理だ」
「なんで!」
 精いっぱい譲歩しているつもりなのに。
 彼は淡々と告げる。
「帰れない、どうにもならない、そう言っている。あちらからこちらに来ることはできても、こちらからあちらに行くことはできない。川の流れのようなものだ。あちらが上流、こちらが下流。下流から上流に川は流れない」
「嘘だ。出鱈目を言って丸め込もうと」
「諦めろ。帰れない」
「嫌だ、嫌、そんなわけない」
「いい子でいたら可愛がってやるよ。せいぜい私に媚びろ。いい思いをさせてやる」
 子供をあやすように、髪に口づけられる。
 何だ、それは。吐き気がする。
「……そんなことするくらいなら死んだ方がマシ」
「そう言うやつほど死なないものだ」
「ムカつく。嫌い」
「えらく我が儘だな。今でも充分甘やかしていると思うが」
「どこが?」
「鎖に繋いでいないし、個室を与えているし、三食人間用の食事を用意しているし、何より私の相手しかさせていない」
「あの双子は……」
「初回より後は、少しの間舐めに来るだけだろう。あれくらいは許してやれ。たまにおこぼれをやらんと、あいつらは煩くてかなわん」
「嫌なものは嫌だ。そんなの、ちょっと扱いがいいだけの奴隷じゃないか」
 航の意思も尊厳もまるきり無視されている。
「もっと扱いをよくしてもらいたいなら、努力をしろと言っている」
「……」
 そういうことではない。まったく話が通じない。別の世界に来てしまったとはいえ、不思議と言葉は通じているのに。いくら会話してもわかりあえる気がしない。
「今日はもう寝ろ」
 眦の涙を舐め取って、毛布を掛け、寝かしつけようとする。
 殺してやりたい。そう言ったら、できるものならやってみろと笑うのだろう。

 このまま飼い殺しにされるのは絶対に嫌だ。解放交渉ができない以上、航が取れる道は一つ、ここから逃げ出すことだけ。
 森の向こうには人間たちの村があるという。そこまで行けば、こんな扱いを受けることはないはずだ。同じ人間なのだから、きっと助けてくれる。
 森は深く、大きく、窓から見る限りでは果ては見えないが、運動部で毎日走り込んでいたため、体力には自信がある。まっすぐ歩いていればきっと着くだろう。
 これまで何度となく見張りの双子に捕まって連れ戻されたけれど、諦めるものか。ドアから外に出ようとするから駄目なのだ。今日は宛がわれている部屋の窓から脱出を試みる。
 この部屋は何階なのか、正確なところは不明だ。確実に五階以上ではあると思われるが、二階でも五階でも十階でも、方法は同じ。映画や漫画で見たことのある方法。シーツを裂いて結んでロープを作り、それを窓から垂らして下に降りるのだ。
 準備が整って実行予定のその日、双子が部屋に持ってきた朝ご飯をしっかり食べて腹拵えをする。航の飼い主を自称するあの男は、日中は大抵留守にしていていない。今日も出ていったというのは双子に確認済みだ。午前中は皆何かと忙しそうなので、やるならなるべく早い方がいい。さっそく決行だ。
 昨日までに隠れてせっせと作り上げたロープを、出窓の柵にくくりつけ、外に垂らす。うん、長さはばっちりだ。地面に誰も歩いていないのを確認してから、ロープを掴んで出窓から身を乗り出す。なるべく下を見ないようにしながら、柵を乗り越え、身体を反転させて壁に足をつき……、そう、いい感じ。風は強いが——。
「びびるもんか……」
 ここで飼い殺しになる方がよっぽど怖い。焦らず、しかし、なるべく素早く。
 やっと一階分降下に成功。
「よし」
 この調子でいけばいい、そう自分を奮い立たせる。だが、運も天も航に味方してはくれなかった。体重を支えきれなかったのか、ロープが解ける。
「……え」
 落ちていく。この高さからなら、おそらく無事ではいられまい。かたく目を閉じる。
 失敗はしたが、多分航のこの行動は間違っていなかった。自分の意思と勇気でもって自分の現状を変えようとしたのだから。例えここで死んだって何も恥じることは——。
 落下が止まる。しかし、覚悟していたほどの衝撃はなく。目を開けてみると、まだ空中だった。
「……?」
「まったく、どこまで馬鹿なんだ」
 頭上から声が降ってくる。そちらへ頭を回らすと、この城の主に抱きとめられたのだというのは理解できた。
 彼の背には、普段は見当たらない巨大な蝙蝠の羽のようなものがある。これを動かして飛んでいるらしい。
「なんで……」
「飼った以上、ちゃんと面倒を見るのが飼い主の義務だからな」
「……」
 最悪だ。地面に叩きつけられるより望まない結果。よりにもよってこいつに助けられるなんて。
 ——これまでよりもっとひどいことをされるかも……。
 叱責を恐れ、身を竦ませていると、彼はゆるりと方向転換する。
「今から知り合いのところに行く。お前も来るんだ」
「……どこ?」
「すぐ近くだ。罠に新しいのがかかったから、見に来てほしいらしい」
 何の罠だ。もしかして、あの罠か?

 城の建つ崖の下へ、そっと降り立つ。着地と同時に翼は消えた。
 航を地面へと下ろし、彼はすたすたと歩き出す。ついてくるのが当然だと思っているらしい。座り込んでじっと背中を見ていると、振り返りもせずに彼は言う。
「この森には魔獣がいる。熊より狼よりよっぽど凶暴だぞ」
「……わかったよ」
 航だって積極的に死にたいわけではない。しぶしぶ後を追う。
 緑の木々の中、彼はこんもりと丘のようになったところで立ち止まり、丘の正面に埋め込まれた板のようなものを押す。取っ手が付いている。ということは、扉か?
 促され、戸惑いながら中へ入る。そこは散らかってはいたが、扉の大きさにしては広い空間だった。机に椅子、書架にチェスト、ハンガーポール。脱ぎ捨てられた服の山、中身の残ったティーカップ、バラバラの紙切れ、積み上がった本、蓋のないインク壺。生活感が丸出しで、一見して民家だとわかる。それも掃除が苦手なタイプの住人の家。
 他人の家で、傍若無人を絵に描いたようなこの男は声を張り上げる。
「おい、ラドト、来てやったぞ。五秒以内に出てこないと帰る」
 カウントダウン開始。すぐさま階段を駆け上がる音がして、薄汚れた白衣の男が現れた。耳の形が人間とは違うから、おそらく彼も魔族。
 息を切らしながら、訪問者に噛みつく。
「もう、ヨマ、ひどいじゃないか!」
「何が?」
「すぐに来てくれと言ったのは三日も前だぞ」
「来てやっただろう」
「近いんだから、『すぐ』と言われたらその日のうちに来てくれればいいだろう」
「私にだって都合がある。文句を言うな」
「君は昔っからなんでそう偉そうなんだ。この世で自分が一番立派だとでも思っているのか?」
「そうは思わないが、お前よりは偉いと思っている」
「ほら、そういうところだよ!」
「うるさいな。用がなければ帰るぞ」
「待て待て。用はある。ところで、その子が例の子か」
 突然注目され、航はびくりと身体を強張らせる。
「ああそうだ。人間の仲間を恋しがるものだから連れてきた」
「この前、同じ罠に三回もかかったという話をしていただろう。同一手法の罠が他にいくつもあるのにそれだけに複数回かかった、ということは、もしかして場所が重要なんじゃないかと思ってね。近い場所に僕も罠を仕掛けたんだ。そうしたら、ほんの数日でかかった。すごく近いから、もしかしたらその子の知っている子かもね」

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