(5)とろける

 バレンタインデー、それは大好きな人に愛を伝える一大イベントの日。他の国ではどうであれ、この国ではそういうことになっている。凛太の愛読書『いちごスイート』にもそう出てくる。
 『いちごスイート』とは、高校一年生の伊智子(いちこ)と三年生の先輩壱太郎(いちたろう)による甘酸っぱいラブストーリーで、新種のいちご栽培がテーマになった少女漫画だ。二人で育てたいちごを使ったチョコレート菓子を、伊智子が試行錯誤して考え、バレンタインデーに壱太郎へプレゼントして想いを伝える、というシーンは、何度読んでも感動する。
 凛太も気合いを入れて手作りチョコレートをプレゼント、したいところだったが、あいにく脩は甘いものが苦手だ。チョコレートはもらっても食べられないらしく、毎年煎餅の方がいいとリクエストされる。そのため、過去三回は煎餅詰め合わせを贈ってきたが、煎餅ではお中元やお歳暮のようで、バレンタインデーのドキドキ感が微塵も味わえない。今回は付き合って初めてのバレンタインデーなので、違った趣向を凝らそうと張り切っていた。
 バレンタインデー当日、この日はアルバイトを早上がりにしていたため、途中買い物に寄って四時頃脩宅に到着する。
 脩が仕事から帰ってくる前に、やることがたくさんある。まずは夕飯の準備だ。凛太は料理スキルがなさ過ぎるので、メニューは鍋一択。これなら具材を切るだけだ。味付けに失敗する心配が無いように、鍋だしは買ってきた。大根、人参、長葱、白菜、しめじ、油揚げ、豆腐、豚肉などの定番の材料を、脩がやっているのを思い出しながら、ピーラーと包丁を駆使して切っていく。大分不揃いだが、食べれば同じである。
 何とか仕上げて冷蔵庫に入れ、洗い物も済ませ、次は掃除。料理に手間取って大分時間が押していたので、簡単にコロコロをかけておいた。洗濯も、と思ったが、やはり時間が無いのでベッドのシーツだけ替えた。後は風呂に入って身体に磨きをかけて、髪を乾かす。これでいつ帰ってきてもいい。
 お出迎えには、通販で購入しておいたフリフリエプロンを着るつもりだ。健気でキュートな若妻がめろめろにしちゃうぞ作戦である。もちろんベッドでもたくさんサービスする。むしろ料理などの家事よりこちらがメインかもしれない。
 我に返った瞬間、フリフリエプロンはやり過ぎなんじゃないか、めろめろなんてさすがに頭が悪すぎるのはないかと思うが、気づかない振りをする。こういうのはノリと勢いだ。幸い、脩はとてもノリがいい。
 メッセージによると、もうそろそろ帰ってくる時間だ。どんな反応をするだろうと想像しながら、ピンクのエプロンを眺めていると、玄関チャイムが鳴った。めずらしい。鍵を忘れたのだろうか。
 あわててお出迎えのための着替えをする。勝負下着以外、身につけているものを全て脱いで、素肌にエプロンを着ける。こういうのがいいのだと、彼氏を喜ばせるコスプレとして『いちごスイート』に出てきた。人気のある漫画だし、多分大丈夫、多分。
 暖房のよく効いたリビングから廊下に出るとさすがに寒いが、若妻めろめろ作戦のために我慢する。
 ここに帰ってくるのは一人しかいないので、ドアスコープで確認することなくドアを開ける。だが、寒風の吹く中、そこに立っていたのは、凛太が想定していた人物ではなかった。何時間か前まで一緒に働いていた相田レオだった。
 お互い硬直し、数秒無言状態が続く。相田は何度もまばたきして、やっとのことで言葉を絞り出す。
「え、凛太……、だよな? ここって早瀬先生のうちじゃ……。え、間違った? え、え……?」
「間違ってはいない。相田こそなんで」
「俺は偵察を頼まれて」
「偵察? 何の?」
「それは……」
 このとんでもない窮地に現れたのは、この部屋の住人である凛太のダーリンだった。
「おーい、何やってんだ?」
 脩が姿を現す。彼はぎょっとしたように凛太を凝視した後、相田に視線を移す。
「どうした? 俺んちに用?」
「はい。ちょっと頼まれて……」
「何を? いやまずこっちか」
 ドアを閉めた脩はコートを脱ぎ、凛太に押しつけてくる。
「掛けてきます……」
 この場を離れる理由をくれたのかと思い、背を向けて歩きかけるが、止められる。
「待て。そうじゃなくて、着ろってことだよ。風邪引くか腹壊すかするぞ」
「あ、うん」
 何て優しいんだと感動に浸りたいところだったが、相田の一言が邪魔をした。
「Tバック……」
「うわ、見ないでよ!」
「俺だって見たくねえよ! 男の裸エプロンとか」
「裸じゃないもん。パンツ穿いてるもん!」
 もたつきながら脩のコートを羽織り、前をかき合わせて相田の視線と寒さから逃れる。自分が変質者かのような凛太の反応に、相田は舌打ちをする。
「ほぼケツ出てるのに穿いてるって言わねえよ! お前、なんで先生んちで限りなく全裸に近い半裸なんだよ」
 相田の疑問はもっともだったが、勝負下着もフリフリエプロンも、バレンタインチョコレートのかわりの特別サービスです、なんて馬鹿正直に答えるわけにはいかない。
 答えに窮した凛太のため、脩が割って入ってきてくれる。
「それは後でいいだろ。何しに来たんだ、お前。まあ、とりあえず上がれよ。玄関寒いだろ」
「人を待たせてて……。前の喫茶店にいます」
「誰?」
「弟です。ミオ。先生にチョコレート渡したいって言ってて、家で一人かどうか見てきてくれって。恋人といたりしたら見たくないから、そのときは会わずに帰るって」
「学校で渡せば……、まあ、うちはトラブルがあって学校で渡すの禁止になったからな」
「え、前にミオくんが言ってたのって脩ちゃんのことだったの?」
 相田三兄弟の末っ子、ミオ。彼の兄たちや凛太も卒業した高校の二年生で、以前から面識があり、つい最近も顔を合わせたばかりだ。そのとき彼の初々しい恋愛相談に乗ったのだが、相手が誰なのかまでは聞いていなかった。まさか——。
「ああ、もうどうしよう……」
 大好きな人に愛を伝える一大イベントに、わざわざ自宅まで来てチョコレートを渡したいというのだから、そうに決まっている。
 心の中で頭を抱えた。

 話は一週間前に遡る。その日はアルバイトが終わってから、相田の家に行った。相田の弟のミオが凛太と会いたがっているというので、脩のところ行く予定のない日だったし、ありがたく招待を受けることにした。しばらく相田の家を訪れておらず、ミオに会うのは久しぶりだ。
 相田がずっと追っかけをしているアイドルのライブDVDを流しながら、居間のカーペットの上でごろごろする。兄のナオはデートで出かけており、父は仕事、母はキッチンで夕飯の調理中だ。末っ子のミオが帰ってきたのは、凛太が来た三十分後くらいだった。制服姿で居間に顔を出す。
「あ、凛太くん、来てくれたんだ。ずいぶん会ってなかったねえ」
「半年ぶりぐらい? でも、この家、毎日来てるみたいに落ち着く」
「あはは。前はよく来てたからね」
 屈託無く笑う少年は、長男ナオをさらに柔和にした印象で、人目を惹きつける華やかさを持っていた。
 ナオとミオは美人の母に似て、相田は父似なのだと言う。相田に対する女性の評価は「不器量ではないが普通」というものが多く、決して悪く言われることはないものの、いかんせん兄弟二人の容姿が整いすぎているだけに、よく比較されるのが哀れだった。中学校でも高校でも大学でも、兄か弟のどちらかが同時期に在学しており、「こっちの相田よりあっちの相田よね」となってしまう。
 そんな兄の苦労を知らないであろう無邪気なミオは、着替えてくると言って、いったん二階へ上がった。
 相田はDVDをお気に入りのシーンまで早戻ししながら、僻みっぽく言う。
「あいつもなあ、バレンタインは不自由しない側の人間だからな。俺達と違って。世の中不公平すぎる」
 先日の兄ナオ幹事の飲み会では、残念な結果に終わったらしく、最近特にすさんでいて扱いづらい。
 凛太もバレンタインデーに女子からもらったことがあるのは義理チョコだけだが、全く欲しくないので不自由しているというわけではない。だが、あえて訂正はしない。
「ミオくんは学園のアイドルだからね」
「男も結局顔かよ。コミュ力磨いたって何にもなりゃしない」
「ミオくん、いい子じゃん。顔だけじゃないよ」
「お前は俺の味方じゃなかったのか?」
「そうだけど、ミオくんも好きだもん」
 相田はふて腐れて返事をせず、推しの円莉(まるり)がソロパートを歌うのを何回もリピートしていた。
 部屋着のミオが戻ってくる。
「何の話してたの?」
 カーペットに腰を下ろしたミオに、凛太はスナック菓子の袋を押しやる。
「バレンタインの話。相田、ミオくんのこと妬んで見苦しいったら」
「俺もモテたいんだよ! 兄貴と弟ばっかり……。俺のことわかってくれるのは円莉ちゃんだけなんだ。円莉ちゃん……」
 テレビ画面の向こうに現実逃避し始めた兄を呆れたように見つつ、ミオは切り出す。
「あの、バレンタインデーのことだけどさ。今年は俺も贈ってみたいと思ってて」
「ああ、男が贈るっていう逆パターン? なに、お前好きな子いるの?」
 画面から目を離さず、相田は尋ねる。ミオはわずかに頬を染め、膝の上で自分の指をいじる。
「……うん。でも、どんなチョコにすればいいかわかんなくて」
「誰? どんな子? クラスのやつ?」
「じゃなくて、年上の人」
「先輩か。そうだよなー。年上のお姉さんに憧れる時期ってあるよな」
「お姉さんじゃないよ。お兄さん」
「……ん? 友チョコ的な? 男が男に友チョコって寒くね?」
「ううん。本命」
「お兄さんが本命……」
 まさか、ナオだけではなくミオもなのか? 凛太も驚いたが、彼の兄はそれ以上だろう。
 相田はここで初めて、テレビの中のアイドルから弟へ目線を動かした。明らかに困惑している。
「お前、女より男が好き的なアレなの?」
「わからない。そうかもしれない。その人のことはすごく好き」
「そっか。うーん……」
 ミオも緊張していたと思うが、凛太もそうだ。ミオに対する相田のリアクションは、凛太の隠し事を知ることになったときと同じだろうから。嫌悪して突き放す? やめておけと諭す?
 しかし、かけるべき言葉を探していた相田の作業は中断された。
「レオー! ちょっと手伝って」
 キッチンから相田の母の声がする。相田は苛立たしげに返す。
「なんだよ。今大事な話してんの。後じゃ駄目?」
「駄目! 至急!」
「うるさいなあ」
 リモコンを放り出して立ち上がり、頭をかきながら相田は居間を出ていく。
 凛太はミオに尊敬の眼差しを向ける。
「すごいね。ああいうこと家族に言えるって」
「レオ兄はああ見えて口堅いし、相談に乗ってもらうのもいいなって思ったんだけど、なんかすごくびっくりしてたね」
「そりゃびっくりするでしょ。こんな大事なこと、僕まで聞いちゃってよかったの?」
「うん。むしろ凛太くんの方に聞いてほしかったんだ。だって、凛太くんもそうなんでしょ」
「え、なんでそう思うの?」
 このひやりとする感じ、ついこの間も同じようなことがあった。三兄弟の長男と末っ子は、顔だけではなく勘の良さまで似ているらしい。
「うーん。結構前だけど、凛太くんねえ、ナオ兄のこと、うっとり見つめてたときあるから」
「うわあ、それナオ兄にも言われた。そんなにバレバレだったかなあ」
「すごくわかりやすかったよ」

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