(5)とろける

「もう、恥ずかしい。あの、このことは相田には内緒にしてて……」
「大丈夫。言わないよ。ねえねえ、今彼氏はいる?」
「うん、いるよ。大学に入ってからできた」
 現在進行形で脩の生徒であるミオに、交際の事実を知られるのは避けたいが、相手が誰か伏せておけば、彼氏がいることぐらい明かしても問題ないだろう。ナオのことは本気ではなく、自分には別に相手がいるのだと伝える意図もある。
 ミオはスナック菓子を指先でつまみ、一口かじる。
「いいなー。俺は多分、片思いで終わるだろうけど、気持ちだけは伝えておきたくて」
「それはわかるよ。大好きって思いがパンパンになって吐き出してしまいたいってなるの。でも、学校で噂広げられたりしたらつらいから、慎重にならないと」
 気持ちを伝えた相手に悪意がないとも限らないし、悪意がなくても誰かに喋ればそこから広まる可能性がある。テレビドラマや漫画で見たことのある恐ろしい展開だ。
 だが、ミオにそんな不安はないようだった。目を輝かせてうっとりと語る。
「あの人はきっと俺のこと馬鹿にしたり気持ち悪がったりはしないと思うんだ。何度か相談に乗ってもらったことがあるからわかる。受け入れてくれないかもしれないけど、受け止めてはくれると思うよ」
「すごく好きなんだね」
「うん」
 まるで以前の自分を見ているようで、微笑ましい思いがする。ぎゅっと抱きしめて、大丈夫だよ言ってやりたかったが、驚かれそうなので自重する。
 その後どんなチョコレートを選ぶべきか相談するのは楽しかった。相田は戻ってきても態度は変わっておらず、ああしろこうしろとうるさく口を出してきた。いつも通りの兄弟の様子を見て、凛太は安堵した。

 まさかミオの意中の相手が脩だなんて、どうして想像できただろう。ミオが自分の恋人に愛の告白をしようとしているライバルだとは知らず、わいわいと恋バナで盛り上がっていたなんて。悪いことをしてしまったようで、胸が重い。
 呆然としてしまっていたが、寒いからと脩に引っ張られ、とりあえず玄関からリビングへ場所を変える。
 凛太は何よりもまず着替えがしたく、寝室に飛び込んで、コートとエプロンを脱ぎ、それまで来ていた部屋着を身につける。焦っているせいでボタンを掛け違え、苛々してしまう。
 急がなければ。二人にしておくと脩が相田に何か余計なことを喋るかもしれない。一切合切ばれてしまったような気がしないではないが、相田は兄や弟と違って、こういうことにはものすごく鈍い。言わなくてすむことまで知られたくないので、有耶無耶に出来るならそうしたい。
 男を好きだと言った弟に相田の態度は変わらなかったが、ただ好きだというだけなのと、実際に付き合っているのとでは、また違うだろうと思う。セックスを直接的に連想させるような、露出の多すぎる凛太の仮装を見た後では、生々しくて気持ち悪いと思うかもしれない。しかも凛太の相手は弟の片思い相手で、兄としてはさらに複雑だろう。
 だが、遅かった。ドアを開けると、相田が身を乗り出して、脩に問い返していた。
「え、うそ。マジですか?」
「マジで」
「いつから? まさかずっと……?」
「卒業してからに決まってるだろ。知り合ったのはまだ俺が前の学校にいた頃だけどな」
「え、そんなの聞いてない」
 親しげに話し込む二人に、凛太はバタバタと駆け寄る。
「ちょっと、脩ちゃん! 喋っちゃったの!?」
「ああ」
「なんで? 脩ちゃん口が達者なんだから、なんかこう上手いこと誤魔化しとけばいいのに!」
「裸エプロンに上手い誤魔化しなんて存在するか?」
「パンツ穿いてたもん! ……じゃなくて」
 動揺と苛立ちを露わにする凛太とは対照的に、脩は特に焦った風でもなく、リラックスしている様子だった。ときどき、彼のことがよくわからなくなる。
「相田、喋んないよな?」
「喋りません」
 確認され、相田は首肯する。脩は満足げに凛太を見る。
「ほらな? なら大丈夫だ。もっと友達を信用しろよ。まあ、やっちゃならんことは何もやってないから、公になってもいいっちゃいいよ。ただちょっと面倒なだけだ」
「そんな暢気なこと……。脩ちゃんは教師なんだよ」
「うちに元生徒と結婚したって先生いるぞ。あの人が大丈夫なんだから、ばれても平気」
「誰?」
「数学の鈴木先生。わりと有名な話だぞ」
「聞いたことあるかも!」
 ついついいつも通りに会話してしまったが、スマホを握った相田が遠慮がちに口を挟む。
「あの、いいですか?」
「なんだ?」
「弟からメールが来て、まだかって言ってるんですが」
「とりあえず呼んでやれよ」
「恋人といるの見たくないって言ってたんで、帰ります」
「なあ、確認だけど、本気なのか? お前の弟は」
「俺にはそう見えました。だから、協力してやろうと思って」
「わかった。こういう話はなかなか外じゃできないし、いい機会だから連れてきて」
 自分を抜きに話が進んでいくことに、凛太は恐怖を覚えた。
「え、なんで……。僕は?」
「凛はそっちの部屋で待機」
「……」
 愕然とした。相田に話だけ聞いて、すぐに帰すものだと思っていた。
 ここで脩がミオからチョコレートをもらう? 脩のために凛太が掃除したこの場所で? 凛太を隠してまで? 凛太と過ごすはずだった時間を使って? 今日のために準備を頑張った凛太はどうなる。大したことなど出来なかったかもしれないが、それでも自分なりに精一杯やったのだ。
 脩はこちらの内心を知ってか知らずか、軽い調子で言った。
「心配すんな。できるだけ傷が残らないようにお断りするだけだから」
「振られて傷が残らないわけないでしょ」
「だから、できるだけ、だよ。一日でも早い方がそれだけ傷も浅いしな」
 彼からは迷いや躊躇いを感じない。こういった状況に慣れているのか。もしかして、生徒に好意を寄せられることがよくあるのだろうか。
 確かに、彼の授業はおもしろくてわかりやすかったし、彼自身とてもフレンドリーな人なので、生徒には人気があった。凛太の在学中は、目の届く範囲では、凛太の他にそういったことはなかったはずだが、その後のことは不明だ。ライバルが後から後から湧いて出てくることは考えられないことではない。ショックを受けた心は容易く不安に付けいられる。
「あの、こっち来いって言いますよ?」
「いいよ」
 凛太の意見など聞く気のない彼らに背を向け、とぼとぼ歩いて寝室に引き上げていった。
 ドアの向こうで声がしている。
「そういえば、なんでここの住所わかったんだ?」
「職員室で名簿見ちゃったとか言ってましたよ。ナントカって先生に資料整理頼まれたとき、つい出来心でって」
「管理体制考えないとなあ」
 二人の会話が聞こえてくるのが、除け者にされているようでつらい。聞きたくない。脩が誰かに言い寄られるのなんて、もっと聞きたくない。寝室の隅に置かれた脩のデスクからイヤホンを取り出して、スマホに接続し、音楽をかける。
 脩の立場も理解できる。教師と生徒の距離を保つために、早いうちにしっかりと一線を引いておくことは大切なのだろう。でも、凛太はミオをこの部屋に呼んでほしくなかった。凛太が来ているからと言って断って欲しかった。
 音に埋もれながらベッドの上で丸まっていると、涙がにじんでくる。ミオは凛太のように凡庸ではなく、見た目も性格も可愛らしい。きっと彼なら、あんな破廉恥な格好をして必死にならなくたって、恋人を繋ぎ留めておけるはず。自分がひどく惨めに思えた。
 もしも、先に脩と出会ったのがミオだったら——、いや、あり得ない仮定の話を考えるのはよそう、と自分に言い聞かせる。脩はいったい自分のどこがそんなに良くて付き合ってくれているのだろうとか、そんなことまでうじうじと考え込んでしまうから。
 まったく、バレンタインデーの計画が台無しだ。お出迎えに失敗した。これがまず大きい。夕飯は遅れるし、誰かを振った後だから、きっとこの後は暗い雰囲気で甘い空気にはならない。何より凛太のメンタルのダメージが大きく、若妻めろめろ作戦を続行する気力がない。現実の作戦は漫画のように上手く運ばなかった。
 泣くだけ泣くと、慣れない家事をこなした疲れもあって寝入ってしまった。
 イヤホンを外され、脩に起こされる。
「おーい、晩飯できたぞ」
「ん……?」
 習慣でスマホを明るくして時刻を確認すると、相田が来てから二時間以上経過していた。ついでに音楽を止めておく。
「ミオくんは?」
「とっくに帰ったよ」
「うまくいった?」
「何をもってうまくいったとするかは難しいけど、きっちり話はしたつもり。チョコレートはそのままお返ししたよ」
「……そう。僕がお鍋の準備してあったやつはどうなった?」
「ちゃんと使った。助かった」
「そう」
 なるべく平静を装い、寝室を出て食卓に着く。
 口数少なく鍋を食べ進めていくと、ふと違和感を覚えた。バラバラで不揃いであったはずの具材は、ほとんどが同じような大きさになっていた。凛太が用意したものを捨てたりはしないだろうから、切り直したようである。頑張りにケチを付けられたような気分で、凛太はさらに寡黙になった。
 脩はため息をつくが、それもいちいち腹立たしい。
「どうする? また風呂で腹割って話す?」
「いい。もう入った」
「けど、怒ってるだろ? 怒ってるよな。その顔は」
「怒ってない」
「あのな」
「食べてるときに聞きたくない」
 終始この調子で話を聞いてやらず、早々と食事を終了させた。
 食後の片づけの最中も必要最小限のことしか喋らず、歯磨きなどの日課を終わらせた後、風呂上りの脩を放ったらかしにして、さっさとベッドに潜り込む。まだ寝るには早い時間だし、晩ご飯の前にぐっすり寝たから、ちっとも眠くない。今日はいたす気になれないので先に寝た振りをしてやろうと思った。
 布団を頭から引きかぶって、中でスマホをいじっていると、ドアの開く音がする。
「おい、どうせ起きてんだろ」
「……」
「布団の中からスマホの明かりが漏れてるぞ、タヌキ」
「誰がタヌキだ」
 あまりの言われ様に、思わずツッコミを入れてしまう。タヌキなんて全然かわいくない。
「狸寝入りしてるから」
「タヌキよりハムスターの方がマシだよ」
「じゃあ、顔出せ。ハムスター」
「やだ。今日はやんない」
「セックスはしなくていいから話はさせろ」
 凛太ももう意地になってしまって、今日はもう改まってお話し合いなど出来る気がしない。布団から出ずに膝を抱え、もごもごと喋る。
「何の話? ミオくんのことならもういいもん。ちゃんと断ったんなら別に……」

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