(2)初恋

「とっとと行け」
「はいはい」
 男は後ろで静かに待っていた連れの女を側に呼ぶ。去り際、彼女はこちらに向かって丁寧に会釈していった。
 線が細く、穏やかそうな女性だった。彰彦氏の恋人だろうか。あちらもデート中だったのだろうな。
 再び歩き出し、聡司は苛立ちを露わに拳を握る。
「まったく。何なんだ、あいつは」
「びっくりしてちゃんと喋れなかったや」
「いいんだよ、あんなやつ。人のものに粉をかけようとするなんて」
「ちょっとふざけただけでしょ。冗談だって言ってたし」
 恋人が聞いてるかもしれないのに、ああいうこと言うのはどうなんだろう、とは思うが。それともあの女性は恋人ではなかったのか? 後ろ姿は親密そうに見えたけれど、友達や仕事関係の人、という可能性もないではない。
 兄への鬱憤が収まらない様子の聡司を宥めているうちに駅に到着、そこから地下に下る。地下街の、店舗の入れ替わりが激しい中、隅の方に昔から居座っている飲食店へ。ファミレスの定番メニューは大体揃っていて、値段は安く味はそこそこ、いつも極端に混んでいることがない。ここに行けばとりあえずオッケー、という店だ。
 食事時を過ぎているため、さすがに空いていて、お茶を楽しんでいるグループが二、三組いるくらい。定食を頼んでもすぐに出てきた。
 箸を袋から出したまま食事に手を付けず、何やら考え込んでいた聡司は、数時間前の発言とは正反対のことを言い出した。
「やはり、君と同じ大学に行く方がいいのかもしれない」
「え、なんで?」
「大学は人が多いから、ああやって君にちょっかいをかけてくる輩は確実に増える。別々になると僕が警戒できない」
「ちゃんと断るってば」
「言葉巧みに近づいてくる奴だっているんだ。新歓だとか言って、酒を飲まされて、どこかに数人がかりで連れ込まれてみろ。抵抗しきれるもんじゃない」
「そんなことってそうそう起こるもんじゃ……」
「起こったらどうするんだよ」
 どうやら大真面目に心配しているらしい。馬鹿なことをと笑うのは、対応として相応しくない気がする。
 元々、恵瑠も可能ならそうしたいと思っていたから。
「じゃあ、俺、勉強頑張って、聡司くんと同じとこ行けるようにするね」
「そうしよう、それがいい。どこにするかはまた話し合おう」
「勉強、教えてくれる?」
「いいよ」
 同じ大学か。それなら極端に会う時間が減ることはなさそうだな。これで一緒に住むなんてことが起こったら……、とても素敵だ。同棲の件がどこまで本気なのかはわからないけれど、少しだけ楽しみにしておこう。
 やっとサラダに手を付け始めた聡司は、それだけ黙々と食べて一皿空にしたあと、ガラスコップに手を伸ばす。
「そういえば、あれがステラの飼い主なんだ」
「あのお兄さん? ステラって……、黒ラブの?」
「ああ」
「そっかー。ステラちゃん、元気にしてるかなあ」
 ステラとは、河川敷の公園で、第二性がばれる出来事があったとき、聡司と遊んでいた犬のことだ。あの「おすわり事件」がなければ、今でも互いの第二性について知らないままだっただろうし、こうして仲良く出かけることもなかったに違いない。ステラはまさしく恋のキューピッドなのだ。
「元気は元気みたいだよ。お転婆すぎて、世話をしている奥さんが大変みたいだけどね」
「奥さんって、さっきお兄さんと一緒にいたあの人? 綺麗な人だったね」
「いや、彼女はプレイ相手の一人だったと思う。一番長いくらいの人じゃないかな。兄のお気に入りの部類」
「……?」
 彼の兄も確かDomだと聞いている。その言い方では、奥さんとは別にプレイ相手がいるようだが……。
「兄にとっては、妻とプレイ相手は一致しないんだよ。恋人のち妻はずっと同じ人、プレイ相手は常時複数いて、ころころ入れ替わっている」
「なにそれ。奥さん嫌がんないの?」
「さあ。付き合っているときからそうだから、別にいいってことじゃないの。どうしても受け入れられないなら、結婚していないだろうし。上の兄も父も同じシステムをとっているよ」
「えー……」
 そんなの不誠実だと思う。そのシステムとやらを受け入れている妻もプレイ相手も理解できない。
 恋人であれプレイ相手であれ、好きな人に自分以外の相手ができるなんて我慢できないし、想像するだけで苦痛を感じる。
 スプーンを握ったまま止まってしまった恵瑠の手の上に、彼は軽く掌を載せる。
「ああいうのに捕まんなくてよかったね。割といるんだよ。いっぱい囲いたがる人」
「……聡司くんはそういう願望あるの?」
「僕は常々考えているんだ。たくさん囲わなきゃ満足できないってことは、満足させてくれる一人がいないってことじゃないかって。可哀想な人たちなんだよ。君もそう思うだろう」
「可哀想なのかはわかんないけど、俺は満足させられる一人になりたいと思ってるよ」
「良い回答だね。賢くて健気だ」
 もっと褒めて、ずっとその目で見つめて。いい子でいるから。
 
 
 ランチの後、学校で使うノート類などの細かな買い物をしたのち、次はどうするかという話になる。
「他にどこか行きたいところは?」
「えっと……」
 まずい。考えていなかった。どこか言わなきゃ、これでお開きになっちゃうのかな。カラオケ……は聡司が嫌いだし。他には思い浮かばないけれど、まだ一緒にいたい。
 帰らずにすむ理由は彼がくれた。
「特にないなら、ちょっと早いがうちに来る?」
「今日も行っていいの?」
「ああ」
「行く。行きたい」
 これでいつものようにお泊まりコースに持ち込めば、明日の日曜日も共に過ごせる。なんて素晴らしい週末。その場で飛び跳ねて喜びを表現したいところだ。
 三分後にあった電車に滑り込み、最寄り駅で下車。幸い知り合いには会わなかった。
「少しだけ寄り道しよう」
 駅舎を出たところで、彼がそう言うのでついていく。到着したのは駅からほど近い河川敷の公園。いつぞや聡司がステラと遊んでいた、あの。
 連れられるまま川の側まで下りてみると、夕日が静かな水面を金色に輝かせていた。
 ——きれい……。
 風が揺らした草がサラサラと触れ合う音まで美しく聞こえる。いかにもデートのクライマックスという感じだ。
 肉眼で確認できる範囲に人はいなかったから、一歩彼との距離を詰めてみる。ここで手を繋ぐ勇気はさすがにない。
 眩しそうに目を細めながら川面を見つめ、彼は言う。
「あのとき、君がSubだってわかって、とても嬉しかった」
「そうなの? そんな風には……」
 Subなのかどうか問うときも、その後も、一貫して落ち着いていて淡々としていた気がする。
 あの時はそれに助けられた。好奇心が剥き出しというわけではなく、突き放すわけでもない彼の態度は、第二性持ちであることは特別なわけではなくて、案外何でもないことのように思わせてくれたから。
「好みのタイプだったんだ。僕の前に跪かせたらとても気持ちいいだろうな、と以前から思っていた」
「初耳」
「そりゃそうだ。言ったことがないんだから」
「好みって見た目のこと?」
「見た目とか雰囲気とか。その時はね」
「俺はさ、学校の廊下で、聡司くんが喧嘩の仲裁みたいなことしてるのを見たことがあって、そのときすごくドキドキしたのを覚えてる」
「なぜ?」
「俺もあんな風に叱られてみたくて、羨ましかった」
「叱られたいの?」
「んー、たまには?」
 意地悪されたいのも、叱られたいのも、本能的に身体が欲することだから。
「こっち来て」
 手を取られ、驚いて彼を見る。恵瑠は繋ごうか迷った末しなかったのに。
「どうしたの?」
「いいから」
 そのまま手を引かれ、土手沿いを行き、橋の影になったところまで来る。上の道路に通行人がいても死角となる場所で、彼はさっと恵瑠の唇にキスをした。突然のことで目を閉じるのも忘れていた。
「……なにそれ。ドラマみたい」
「好きだろう、こういうの」
「うん、大好き」
 今日はえらくサービスがいいな。恐竜展のチケットのお礼かな。
 彼のシャツの裾を握る。
「もう……」
「帰ろうか」
「うん」
 人目を気にせず、早く抱きあいたかった。
 
 
 いつもは徒歩十五分、今日は急ぎ足で十分。聡司宅へ。すぐに色っぽい雰囲気になるのかと思いきや、二階の自室に入った彼がしてきたのは、意外な提案だった。
「一緒に見たいものがあるんだ。どう?」
「なに? 映画?」
「さて何でしょう。最後まで見られたら、おねだり聞いてあげてもいいよ」
「え、怖い。ホラーとか? 俺、そっち系はほんとに駄目で……」
「ホラーではないから」
 聡司はさっさとパソコンを起動し、テレビと接続しにかかる。見ないという選択肢は与えてもらえないらしい。提案のようで、実は決定事項だったようだ。
 動画配信サービスでも見るのかと思ったが、画面に表示されたのは写真フォルダ。わざわざテレビに繋いで見るってどんな——。あ、もしかして。
「本気……?」
「当然。二人で見るために撮ったんだから。まずは直近のやつにしよう」
 初めて裸を撮られてからというもの、反応の良さを気に入った聡司は、何度か行為の最中の様子を撮影していた。だんだん撮られるのが気持ちよくなって抵抗が無くなってきていたのだが、撮ったものを改めて見るというのはまた別の話。
 あれには、色事スイッチオフの理性のある状態では直視したくない様々な痴態が、はっきりくっきり記録されているはず。できれば永遠に封印しておいてほしいけれど、彼は見せたがっていて……。一緒に見れば、きっと喜んでくれる……、見れば……、しかし、はたしてあんなもの見られるのか? どこかに縛り付けられないと、絶対に逃げ出してしまいそう。
「おいで、恵瑠。こっち」
 ベッドに座った彼は自分の膝をぽんぽんと叩く。
 呼ばれた嬉しさは、内なる葛藤を一瞬で撥ねのけてしまう。反射的に身体が動き、側まで寄っていく。
「クッション使いなね」
 床にクッションを敷いて座り、彼の膝に顎を載せた。この場合、膝を叩いてこっちにおいでというのは、膝に乗れということではなくて、こういう意味だ。
 見上げると、頭を撫でてくれる。
「ふふ、いい子」
「ねえ、聡司くん」
「なに」
「ほんとに見るの……?」
「見るよ」
「俺、逃走するかもしれないから、部屋の鍵掛けといた方がいいかも」
「内鍵だから出ようと思えば出られるだろう。じゃあ、首輪着ける? これもプレイってことなら頑張れない?」
「……そだね、お願い」
「わかった」
 ベッド下のプレイ道具入れから首輪を出してきて、着けてくれる。肌に馴染む感触、恵瑠との特別な時間のために彼が用意してくれたもの。……うん、多分頑張れる、はず。
「えっと、聡司くん。服は……? 脱ぐ?」
「しばらくそのままで。可愛いからもったいない」
 今日のために気合いを入れて選んだ勝負服はお気に召してもらえたようだ。
 聡司の膝に両手を置いてじっと見つめ、「いつものあれ」を待つ。プレイ開始の準備運動として行う簡単なやり取り。彼は持ってきたパソコンを操作しようとしていたのだが、待機状態の恵瑠に気づいて止める。
「一応やっておく?」
「うん」
「じゃあ、はい、お手」
 差し出された彼の右手に左手を置く。
「おかわり」
 次は左手に右手。

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