2-(3)彼方と此方

【——航】

 本日の朝食は、主寝室の隣の居間で。ヨマと二人、カウチに並んで腰掛けて摂る。ただ食べるのではなくて、わんこごっこをしながらだ。
 これは時間のある朝の定番のプレイ。航は裸に革の首輪だけを装着し、基本は手を使わないし喋らない。
 ヨマが掌に直接乗せたり摘まんだりしたものが口まで運ばれてくるので、それをもらうのだ。指についたソースは、わんこがぺろぺろ舐め取って綺麗にするのがお約束。
 上手く食べられなくてもいい。口の周りの汚れを拭くのは、飼い主様のお仕事。ナフキンで食べこぼしを取ってくれたお礼に、口元を舐めにいく。
「可愛い犬だ」
 満足げに頭を撫でられると嬉しくて、無い尻尾を振りたくなってしまう。
 よく考えても考えなくても変態趣味ではあるが、元々航に素質があったのか、「躾」の成果か、こういうロールプレイには割と入り込めるようになってしまった。
 そこには確かに喜びがあり、自分の扱いを屈辱的だとは感じない。犬が飼い主に甘えるのは当然だし、飼い主が犬の世話をするのは当然だから。
 強い者に従い、その庇護下に置かれるということには、絶対的な安心感がある。二人で完結するこの小さな世界が心地良いのだ、とても。最初は渋々だったというのに、何かもう色々手遅れな気がする。
 まだまだ楽しんでいたかったが、邪魔者は唐突に現れる。
 勢いよくドアが開き、入ってきたのは双子。
「殿下! ……わお」
「朝からプレイ中?」
 ヨマは舌打ちをし、テーブルに置いてあった航のシャツを取って、押しつけてくる。
「おい、ノック」
「ごめんなさーい」
「気をつけまーす」
「何の用だ」
「これ、昨日バタバタしてて渡せなかったんだけど」
 シャツを羽織りつつ目をやると、双子がテーブルの上に置いたのは、シンプルな茶色の封筒。志尾からのものだろう。前も同じ封筒を使っていた。昨日志尾とその同居人の家に行ってきたのか。
 双子は顔を寄せ合って笑う。
「あの二人、面白いよね。あれで付き合ってないんだよ」
「夫婦みたいな生活してんのにね」
「……」
 わんこモードが抜けず、黙ったままでいるのを、飼い主様はすぐに気づいたようだ。
「喋ってもいいぞ」
「……うん。志尾、元気にしてた?」
「めっちゃ元気。元気すぎ。人参とピーマン、無理矢理食べさせようとするんだよ。怖いったら」
「牛蒡でぶん殴ろうとしたりね」
「お前ら何やったんだよ。喧嘩すんなよ」
 相変わらずのようだ。元気が一番。
 ヨマは封筒を手に取ると、当然のように先に開封し、目を通す。日本語は読めないはずだが、「目がいいから、何を書いているのかはぼやっと見えてくる」のだそうだ。
 内容は、おそらくいつもみたいな面白エッセイだろう。頑張って取り組んでいる農業のことや、市場での商売のこと、料理のこと、同居人とのやり取りなど、ユーモアを交えて伝えてくれる。
 ヨマはいつもそれに大した反応を示すことはなく、淡々とチェックするだけだが、今日は読み出した途端表情が曇る。二枚目に行かずテーブルへ投げ出してしまった。
「どうしたの」
「くだらんな」
「チェックは?」
「もういい」
「読んでもいいの?」
「勝手にしろ」
 お許しは出たので、便箋を拾い上げる。一枚目、日本語ではなく、この世界の言葉で書かれている。内容は——。
『力でしか繋ぎ止められないのは哀れ。扉を開け放ち、枷を外せ。お前が真に必要とされているなら逃げ出さないよ。』
 二行分ほどスペースを空けて、こう続く。
『僕は逃げない。何がなくても。何があっても。』
 これは明らかに志尾からヨマへのメッセージだ。二枚目からは日本語で、いつものようなエッセイのよう。それは後からじっくり目を通すとして、一枚目に戻して読み返す。
 覗き込んできた双子はどちらも目をぱちくりとさせる。いくら双子でも仕草まで似すぎではないかと思う。
「うわあ、めっちゃ挑発してきてる……」
「殿下相手に怖いもの知らずというか」
「……確かに」
 ヨマは元々志尾のことを良く思っていない。はっとして彼を窺う。
「まさか殺す……」
 つもりでは?
「こんなくだらないことで手は下さない」
 苦々しげに言って立ち上がり、すたすたドアの方へ。そのまま部屋を出て行ってしまう。
「……あれはかなり怒ってるなあ」
「しばらく機嫌悪いかもね」
 それには航も同意する。
 嫌だなあ。ヨマのご機嫌取りは航の仕事だと城内では認識されているが、お世話はなかなか大変なのだ。楽なことばかりじゃない。彼といるのは。
 ——真に必要とされているなら逃げ出さない……か。
 扉か開かれ、枷がなくなったって、体液依存があるからどうせ逃げ出せない。雁字搦めで動けないのだ、航は。
 動けない理由があることに、少しの安堵を感じているのは、いったいどういうことだろう。

 その後はいつも通りの一日を過ごし、日は暮れ、夜は更け。
 不機嫌だと先に寝ていても起こされるから、待っているのに、ヨマはいつまで経っても寝室に来ない。双子によると仕事からは帰ってきてはいるはず。趣味の研究でもやっているのだろうか。
 することもなく手持ち無沙汰なので、星でも見ようとバルコニーに出る。首を上げ、ぐるりと空を見渡すと、城の尖塔の屋根に誰かいるのに気づいた。なんであんなところに。
「ヨマ!」
 返答はない。だが、多分聞こえている。
「引っ張り上げてよ!」
 しばらくして、光る紫の糸が宙を泳いでやってくる。その端を握ると、腰に巻きつき、航をふわりと持ち上げて上昇していく。危なげなく空中遊泳をして、屋根の上、尖塔の縁のわずかなスペースまで運び、糸は消えた。
 ヨマは月を見上げ、石像か何かようにじっと佇んでいる。今夜は綺麗な金色の満月だ。
 風が強くて、さすがに落下が恐ろしく、傍らの腕を掴む。
「こんなとこで何してたの?」
「別に何も」
「寝ないの」
「今はな」
「先に寝てていい?」
「好きにすれば……、いや」
 彼は航を一瞥したあと、また宙を睨む。
「決めた」
「……?」
「売られた喧嘩は買う」
「物騒だな……。仕事絡み?」
「いや、お前絡み」
「喧嘩売った覚えはないけど」
「とりあえず来い」
 航を抱きかかえ、大きな翼を広げて飛び立つ。
 向かったのは、寝室のバルコニーではなく、逆方向。ペンキを塗り直した物置小屋のまだ先、城壁の正門から最も遠い、敷地の隅っこ。部外者から隠すように木々で囲われた、離れの塔の前に着地した。
 航がこの世界に召喚されたとき、最初に辿り着いた場所だ。怖い思いをした場所なので、心理的な抵抗が大きく、今でも近づきがたい。夜だといっそう不気味に聳え立っている。
「……嫌だよ、ここ」
「大丈夫だ。今は誰もいない」
 そういう問題ではないのだが。航を地面に下ろしても、しっかり肩を抱いていて、放してはもらえなさそうだ。
 彼は重々しい木戸を開ける。すると、頭上に明かりがひとりでに灯る。一本道の短い廊下を進んでいけば、壁に等間隔に設置された燭台の火が次々とつき、主を照らす。
 突き当たりのドアは触れずとも開き、部屋中の灯をともして二人を迎え入れた。天井が高くてだだっ広く、少し黴臭い、あの時の部屋だ。今日は丸いベッドも巨大な鳥籠もない。その代わりに床に散らばる無数の紙。
 震えを紛らわすためにしがみついているのが、あの時さんざっぱら航を甚振った男の腕だなんて、皮肉というかなんというか。
「研究していたんだ。ここで」
 ヨマは唐突に語り出す。
「二年前のことだ。ある論文が発表され、魔術師界隈でちょっとした話題になった」
「はあ……」
 なぜ今、航にそんな話を?
「まあ聞け。その論文というのは、こちらの世界から異界への移動方法を考察したものだった。異界からこちらへ呼び寄せる方法はすでにある。だが、こちらから異界へ、というのは、以前も言ったように不可能とされていた。それは、魔力の流れが異界からこちらの世界へ一方通行になっていて、その流れに逆らうことは難しいと考えられていたから。しかし、詳しくは省くが、溜めた魔力を破裂させて爆発を起こすと、一時的な逆流を起こすことができるという」
 だが、そのためには極めて複雑な術式——魔術のやり方を記したもの——を組まねばならない。その術式を使いこなせる術者がいないくらいに難解な。現実的ではない、とその論文は界隈からすぐに忘れられてしまった。
 立て板に水の説明で、航にはとても理解が追いつかないが、聞けと言われたので聞く。
 彼は淡々と話し続ける。
「ならば私がやってやろうと思ってね。仕事の合間を縫って、ここで少しずつ研究を進めていた。それで、つい一ヶ月前に完成したんだ。件の術式がね。複雑だが実現可能な程度に簡略化にも成功した」
 部屋の奥には、以前にはなかった簡易的なデスクがぽつんと置かれている。彼はそこまで行って、前の壁に貼りついている一枚の紙を剥がす。その紙には文字と数式のようなものがびっしり書き込まれていた。
「これがどういうことかわかるか」
「……え、わかんないよ。俺、魔術とか全然」
「ここに書かれているのは、こちらの世界から異界へ移動できる術式だ。ということは」
「……」
 嘘。本当はわかっている。それが何を意味するのか。
「よかったな。帰れるぞ」
「帰る、帰る? 俺が……」
「ああ、帰してやる」
「なんで突然」
「扉を開け放ち、枷を外せ、だったか。真に自由にするためにはこのくらいやらねばなるまい。出ていったお前が帰ってくることはないと、あのガキは踏んでいるのだろうが、証明してやる、その考えは間違っているとな。あいつにもう二度と生意気な口を叩けないようにしてやろう」
 彼はデスクの上に置かれた、重厚な装丁の本を取って、航に渡す。
「ほら」

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