2-(3)彼方と此方

「……なに、これ」
「月の本だ。覚えているか。お前がこの世界に来る切っ掛けとなった本を。あれとは別物だが、ほぼ同じものだ」
 祖父の家の蔵で見つけた古い本、祖父の弟の形見。こちらとあちらを繋ぐ罠。忘れるはずがない。航の人生を一瞬にして狂わせたもののことを。
 掌がずしりと重い。まさかまた見ることになるなんて。
「月齢関係なく使えるように改造しておいた。夜更けにメモの文言を詠唱するだけで、簡単にこちらへ帰ってこられる。本来、異界に本を直接出現させて罠を張る方法をとるが、あちらで出現場所を探すのも面倒だろうから、現物を持っていけ」
「……」
「里帰りということだ。しばらくゆっくりして、気が済んだらいつでも本を使って戻ってこい」
「……いや、でも……でも、体液依存があるし、どうせそんなに長くは」
「あれは大気中の魔力濃度が高い土地で起こるものだ。あちらでは恐らく、そうひどい症状にはならない。一定期間の禁断症状を乗り越えれば、依存状態は脱出できる」
「そんなこと言って……、体液依存の影響が少ないのなら、俺、こっちには戻ってこないかも」
「帰ってくる、お前は。私のところに」
 どうしてそう自信満々に言えるんだ、この男は。どうして……。また故郷の土を踏める。嬉しいことのはずなのに、戸惑っているのはなぜ。
 どうしよう。どうしたらいい。この状況は何だ?
 ヨマは混乱している航に、山積する情報を処理する時間を与えてくれない。
「今日が満月の日なのは都合がいい。魔力が増幅される日だ。実行の日として素晴らしい」
「うそ、え、今日……? 今から?」
「そうだ」
「そんな急に、困る」
「何が困るんだ。行くならいつ行っても同じだろう。今日を逃せば、次がいつになるかわからないぞ」
 首に巻きついた紫の糸が外される。外れたんだ。こんなに簡単に。
「さあ、あれに入れ」
 部屋の中央に、微かに光る真円のラインが出現する。両手を広げた二倍くらいの長さの直径。魔法陣のようなものだと思われるが、仰々しい文字や記号で飾り立てられてはおらず、ただのシンプルな円だ。
 背を押され、真ん中に立たされる。ヨマはその外へ。
 行くとも行かぬとも言っていないというのに、彼は術式を記した紙を見ながら、意味不明な言葉をぶつぶつと唱え始める。
 ものの数秒も経たぬうち、足元から風が起こり、浮力を感じる。術が発動し始めたのだ。ぎゅっと本を胸に抱く。
「ヨマ……」
 裏切られたような気持ちだった。本当は航が戻ってこなくてもいいのでは? いらなくなって、あちらに捨てたいだけでは? だって、絶対に側に置いておきたいのなら、こんな危険を冒す必要なんてない。志尾の挑発なんて気にしなければ済む話だ。
 あんなに執着していたくせに。ずっと飼っていたいって、消えるのは許せないって、そう言っていたのに。
 怒りで身体が勝手に動いた。円の外ぎりぎりにいるヨマの元へ駆け、手を掴む。
「お前、何を——」
 その瞬間、一際大きな、竜巻のような風が吹き、視界が黒くなった。

 目を開ければそこは、航の実家の航の部屋。埃っぽいカーペットから身体を起こす。
「成功した……?」
「そのようだな。空気がまるで違う」
 お冠のヨマの声。魔術であろう、小さな丸い明かりを宙に浮かべてくれているので、床に座り込んでいる彼の姿を確認できた。
 明かりが照らした室内は、七年前に出てきたときとほぼ変わらなく見える。帰ってきたのか。帰ってきた……。二度と戻れないと思っていたここに。
 わざとがましい大きな溜息が聞こえてくる。
「お前のせいだぞ。手なんぞ掴むから、巻き込まれた」
「……だって、急すぎたし、訳わかんなくて……。俺のこと手放したいのかって腹が立って」
 いつか捨てられると覚悟していたはずなのに、いざそうなるかもしれない状況になると、抑えきれない怒りが湧いてきた。
 懐かせるだけ懐かせておいて飼い主の責任を放棄するとは、何たる卑劣かと、絶対に放すものか、逃げるなんて許すものかと。土壇場で引きずり出された本音。
 彼はいつもより少し乱暴に頭を撫でて、航の髪をぐしゃぐしゃにする。
「逆だ。言っただろう。全て残さず欲しい。危険を冒さねば、きっとお前の全ては手に入らない。以前から考えていたことだ。自分の望みを叶えるためには、まず相手の望みを聞き入れろ、とラドトもうるさかったし……」
 膝に手をつき、すっくと立つ。
「まあ、それも中途半端になったわけだが」
「二人で来て大丈夫だった……?」
「初めて使う術だからよくわからん。一応成功したってことは、大丈夫だったってことだろう」
「そう」
 壁の時計を見ると、時刻は午前零時過ぎ。
「あ、父さんも母さんも寝てる時間だから、静かにしなきゃ」
「帰ってきたんだから、起こさなくていいのか?」
「いいよ。明日でいい。俺がいきなり現れたら、多分ご近所中親戚中大騒ぎになる」
「……いや、物音を気にすることはないようだ。恐らく留守だな。近くに人の気配はない」
「やっぱりわかるの」
「ここに来たからって身体能力が落ちることはないぞ」
「留守か。旅行かな」
 両親は旅行が趣味で、長期休みのたびによく家族旅行をしていた。近場でも遠方でも、楽しい場所に出かけるのが好きな人たちだった。
 本当に留守なのか、一応確かめておいた方がいいだろう。靴を脱ぎ、ヨマのも脱がせる。月の本は小脇に抱え、二人分の靴を持って廊下に出る。
 そっと両親の寝室を覗く。——いない。階段を降りて、一階の居間へ。——暗くて物音なし。いない。
「やっぱ留守みたい」
 玄関に二人分の靴を置きにいってから、居間の照明をつける。
 カレンダーやクッションカバー、スティック掃除機の機種は変わっているが、ここもほぼ七年前のまま。だが、見慣れないものも。
 テレビ台の並びに祭壇がある。蝋燭立てに線香立て、おりん、花と果物、航の好きだったお菓子、過去の自分が笑うたくさんの写真たち。行方不明から七年。これはそういうことだ。
「……」
「どうした」
「俺、死んだことになってる。これだけ時間が経てば当然だけど」
「供え物か、これは」
「そうだよ」
 多分たくさん泣かせてしまったんだろうな、この前で。ごめんなさい、悲しませて。たくさん愛してもらったのに。
 早く会いたい。でも、会うのは少し怖い。航は随分変わってしまったから。
 滲みかけた涙を誤魔化すように、写真にうつる自分から視線を逸らす。
「……えっと、なんか飲む? コーヒー、紅茶の類いは駄目だよな。水だったらいい?」
「もてなさなくてもいい。とにかく今は寝たいな。久々に大きな術を使って疲れた。こちらは魔力濃度が低いから、回復が遅いのもある」
「そうか。そうだよな。けど、どこで……。俺の部屋の布団は埃っぽいかもしれないし、客用布団……どこだっけ」
「別に何でもいいぞ」
「探してくるから待ってて」
 階段を駆け上り、二階の物置部屋から、布団セットを取ってくる。居間のローテーブルをどかし、敷いてみたが、黴臭さなどはない。大丈夫そうだ。
「さあ、どうぞ」
「ああ」
 彼は大人しく布団に入った。足が大分はみ出しているが、狭いという文句は出ない。
「お前も来い」
「さすがにスペースが……」
 城で与えられている航の部屋のベッドより小さい。
 彼は掛け布団をめくり、重ねて航を呼ぶ。
「いいから来い」
「……うん」
 照明を消してから、布団の中へ。月の本は枕元に置いておく。ぎゅっと抱き込まれれば、そこがいつものベッドの中と錯覚してしまいそうになる。
「航、飲みたい」
「ん……」
 キスをして、彼が唾液を味わっている間も、しかし、うっとりと酔うことは出来ない。心配事が次々に浮かぶ。
「ねえ、明日からどうしよう……。父さん母さん、いつ帰ってくるのかな。朝ご飯は……多分あんたが食べられるのない。何か買ってこなきゃ。てか、あんたの仕事は? 休んでも」
「明日はそう重要な用はない。私がいなくても何とかなる。とにかく今日はもう寝ろ。疲れた頭では、どうせろくな考えは浮かばん」
「でも、寝られるかな。頭が冴えて……」
「寝ろ」
 彼の掌が目を覆う。じんわりとした温かさが、瞼から全身に行き渡るよう。次第に眠気に包まれ、うとうととしてくる。また魔術を使わせてしまったのかな。
「……おやすみなさい」
「ああ」
 寄り添うことで得られる安心感はある。これを愛と言ってもいいのかもしれない。だが、彼に対する感情は航の知る他のどれとも違って、名前をつけようがないもののようにも思う。過去に彼から受けた、愛とは正反対の仕打ちも忘れたわけではない。
 馴れと依存、この七年で重く膨れ上がった情、強さへの憧憬、それらが複雑に入り交じった何か。もう取り除きようがないほど心に深く根を張ってしまっているから、この先も抱えて生きていくしかないのだろう。
 どうしてくれるの、ねえ。

 翌日、目覚めは朝八時過ぎ。未だ眠るヨマの腕の中、ぼんやりと昨日の出来事を思い出す。そうだ。せっかちで強引なこの男によって、突然元いた世界に送り込まれたせいで、問題だらけなのだ。
 両親にはなんて説明しよう。攫われて、囚われていて、でも帰って来られて。いや、馬鹿正直に言ったら警察沙汰になる。ベタに記憶喪失は……、これは病院送りの上、警察の事情聴取も付いてくるだろうなあ。
 どうしよう、どうしよう。せめて数日の猶予があれば、事前に対応を考えておけたのに。
 狼狽えながら唸っていると、ヨマの瞼が上がっていく。朝からまた不機嫌そう。
「……ぶつぶつうるさい」
「ごめん……。具合はどう」
「問題ない」
 航の唇に吸い寄せられる習性でもあるのか、まだ眠そうにしながらも、キスをしてくる。舌でそんなに口内をべろべろ舐めたって、水分を摂取していないから、あまり唾液も出ないのだが。
 足りなかったのだろう、股ぐらをまさぐってきて、やんわりと握り込む。
「朝食はこれでいい」
「ここでやんの? それはさすがに……」
「飲むだけだ」
 ヨマは掛け布団をどかし、航の足を開かせると、両足の間に割って入る。ズボンを下ろして露出させ、柔らかな性器をぱくりと根元まで咥えた。あったかくてぬるぬるして、包まれているだけで気持ちいい。
 よくやるように焦らしていじめたりはせず、弱い先っぽや裏筋ばかりを責め、最短で射精させるためのやり方を取る。恥ずかしながら五分ももたなかった。

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