2-(3)彼方と此方

「私と今夜帰るか、ここに残るか、決めろ」
「……ここに残るのも有りなの」
「有りか無しかで言えば有りだ。お前がそうしたければそうすればいい。もしもこちらの世界に一人で来ていたとしたら、月の本を使っていたかどうかで考えろ」
「……」
 またややこしいことを。一緒に来てほしいなら来てほしいって言えばいいのに。おそらく、彼にとっては、この状況で航に選ばせることにこそ意味があるのだ。
 こちらの世界に一人で来ていたら——。多分、何日かは滞在して、故郷での生活を楽しんだだろう。しかし、いずれはあの本を開いてしまう気がする。糸も何もなくたって、航はこの男に囚われてしまっているから。
 わかっている。昨日こちらに来る直前、咄嗟に彼の手を取った時点で、答えなんて決まっていたのだ。
 膝に置いた拳を握りしめる。
「……あんたが俺にしたこと、全部は許してない。横暴だし、自分勝手だし、全然反省しないし、腹の立つことばっかりだ。善人か悪人かで言ったら悪人で、絶対に友達にならないどころか、あんなことがなければ近づきさえしないタイプ」
「自分のホームだとやけに手厳しいな」
「ついて行ったら後悔するかもしれない。でも、ついて行かなくてもきっと後悔する。だったら、……俺は離れたくないと思った心の衝動に従いたい」
「つまりどういうことだ。一緒に来るのか、来ないのか」
 手を差し出してくる。
 この手を取るということは、自らの意思で彼を受け入れるということ。大切な人のいる、優しくて快適なこの世界に、自ら別れを告げるということ。本当に航はどうかしている。
「……行く」
 手を取る。
「いい子だ」
 悔しい。こいつの思い通りだ。
 ご満悦のヨマは、またくしゃくしゃと航の頭を撫でる。
「安心しろ。死ぬまで面倒は見てやる」
「当然だ、バカ。あんたが俺を狂わせたんだから」
 捨てられたら化けて出てやる。日本の怨霊の恐ろしさを思い知らせてやるのだ。
 彼は公園のポール時計に目をやる。
「真夜中までまだ時間はあるな。やり残したことがあればやれ」
「うーん……」
「まさか家族に会わないつもりか?」
「会ったら別れがつらいだろ、お互いにさ。元気にしてるのがわかったから、いいよ」
「そうなのか」
「ああ、志尾にお土産を買って行こう。好きな漫画の続刊とかがいいかな。きっと喜ぶ。それから、こっちの食べ物……、レトルト食品とか缶詰とか、日持ちするやつ」
「ならさっさと行くぞ。売っている場所はわかるか」
「しんどいなら、ここで待っててもいいよ」
「今はまだ大丈夫だと言っているだろう」
 変なところで意地を張るんだな。来るなら来てもいいけど。
 また駅前へ移動して、この地域では最大のスーパーマーケットへ入店する。このスーパーには本屋やその他専門店も入っており、大抵の買い物は全て済む。
 志尾へのお土産はもちろん、自分へのお土産、双子や他の配下へのお土産も買い込み、レジ袋五袋分の量になってしまった。持ちきれないので、キャリーケースも買って詰めた。
 ヨマもどうかと思って聞いたが、要らないらしい。あちらにないものがいっぱいあるのに、興味ないのかな。航にはまだまだ欲しいものがある。
「自転車いいなあ。マウンテンバイク。持って帰れる?」
「あの乗り物か? さすがに重量オーバーだろう。基本は身一つで行くということを理解しろ」
「えー。無理かー」
 あれがあれば、城の敷地内の移動が楽になるのだが。でも、修理が出来ないなら、そう長くも使えないから無駄になるか。諦めよう。
 買い出しが終わった後は、時間まであの公園で過ごす。静かにその時を待った。
 そして、公園の時計が、零時を指す頃。
「始めるぞ。荷物をしっかり持って、私に掴まっていろよ」
「うん」
 月の本を広げ、メモの文言を共に詠唱開始。懐かしい。全てはこれから始まったのだ。

 瞼に仄かな明かりを感じ、冷たく固い床の上で目覚める。キャリーケースを抱えた航は、城の離れの塔にある、例のあの部屋の真ん中にいた。
 上体を起こす。ヨマはまだ傍らで横になっており、眠っているようだ。起こそうと身体を揺すっている最中、バタバタ足音が響いてきて、吹き飛んでいきそうな勢いでドアが開く。やって来たのは双子だ。
「あれ? 殿下とコウだ。朝から姿を見ないと思ったら、こんなとこにいたの?」
「罠にかかった獲物が来た音がしたはずなんだけど……。どこ?」
「何年かぶりの獲物!」
 彼らは鼻息荒く部屋を探し回っていたが、お生憎様である。
「それ、俺らだよ。わざと罠にかかって戻ってきたの。あっちからこっちへ」
「どういうこと?」
「わざとってなに? あっち?」
「話すと長くなる……、明日でもいいか。さすがに疲れた」
「えー、気になるー」
「その荷物も気になるー」
「明日、明日。なあ、ここじゃなくて、寝るんなら部屋に行こう」
 再びヨマを揺するが、反応がない。
「え、ヨマ……」
 揺すっても揺すっても起きない。
 双子はしゃがみ込んで彼をつつく。
「おーい、殿下ー」
「殿下、どうしちゃったの?」
「わかんない。おかしい。向こうで調子が悪いっていうようなことは言っていたけど、でも、まだ大丈夫だって」
「殿下、殿下」
 双子も揺すったり、頬をぺちぺち叩いたりしたが、依然反応なし。彼らは冷静で、判断は早かった。
「とりあえず、寝室に運ぼうか」
「そうしようそうしよう」
「やばいの? 大丈夫なの?」
「殿下のことだから、大丈夫じゃない? コウが心配するほどのものじゃないよ、きっと」
「メヤは足の方持って。いくよ」
「よいしょー」
 子供に見えて魔族は力持ちで、双子は協力してヨマを持ち上げ、運んでいく。
 時間はかかったが、えっちらおっちら本館の主寝室に到着し、ベッドに寝かせることに成功した。
 額に手を当てたり、顔色を見たりしたあと、彼らは航を振り向く。
「ちゃんと息してるし、寝てるだけっぽい」
「オーラは多少弱々しいけど、死ぬほどじゃないと思う」
「そう、そうか」
 よかった。こんなこと初めてだったからびっくりした。
「明日になってもおかしかったら、お医者さん呼ぼうね」
「ああ、ありがとう、二人とも」
 その日はヨマの足下で丸まって眠った。
 彼をこうも疲れさせるほど、あれは危険な術だったようだ。そこまでして航のためになることをしようとしてくれたんだって、思っていいんだよね。これが精いっぱいの真心だったんだって。
 ——絆されてる、絆されてる……。
 甘いなあ、ほんと。

 翌日。いつもの起床時間になっても、まだヨマは眠っていたので、先に起き出す。諸々の支度や朝食が済んだ後、双子と他の配下へ土産物を配って回った。
 双子には剣玉と水鉄砲、その他配下には日本製縄跳び縄。縄跳びのために作られた縄はやはり格段に飛びやすい。全員分はさすがに買えなかったから、皆で使い回してもらおう。子供会の催しの景品のようだが、異界のものが珍しいのか、皆喜んでいた。
 こちらにはなさそうなボードゲームも買ってきた。これはプレゼントするつもりはないが、皆でやれば盛り上がりそうだ。
 ヨマは昼過ぎに起きてきた。こちらの空気を吸って、すっかり回復したらしい。人騒がせだな、まったく。
 彼は今日一日はゆっくり過ごすらしい。主寝室の隣の居間にて、窓から差し込む暖かい日差しの中、カウチに座り、航の頭を膝に乗せて横にならせる。何の気紛れか、そこで航のブラッシングを始めた。
 首輪はなく服も着ているけれど、わんこごっこの続きなのだろうか。飼い主様はたいそう機嫌がよろしいようだ。平和だな、平和。彼が不機嫌だと、城全体がびくびくして過ごす羽目になる。
 平和すぎてあくびが漏れる。突如始まったお世話タイムに付き合うのも段々暇になってきて、テーブルの上の本を見つめる。あちらの書店で買った本。読みながらじゃ駄目かな。
 彼も航の視線の先にあるものに目を向ける。
「あれはお前の分か」
「うん。星と星座の図鑑。あっちの星座がこっちでも見えるか探してみたくて」
「ほう」
 ブラシを置いた彼は、図鑑を手に取り、ページをめくる。異界の本は彼の目にはどんな風に映るのだろう。
「なかなか興味深いな」
「だろ。別に好きなときに見ていいよ」
「ああ」
「こっちには天体望遠鏡はあるの? 遠くの星を見るやつ」
「ある。あちらと同じかどうかはわからないが。天体観測は魔術と関わりが深くて、昔から行われてきたんだ」
「へえ」
「欲しいのか」
「いいよ。高そうだし、絶対使いこなせないから。……それ、ちょうだい」
 彼が閉じた本を受け取り、ぺらぺらめくって拾い読みする。
 そうだ、穏やかな空気の流れるこの機会に、しておきたかった話をしておこう。
「なあ、あっちの世界を見て、どう思った?」
「ごちゃごちゃしていて、やかましい」
「こっちに比べればそうだよな。他には?」
「大勢の人間がいて、呑気に何の警戒心もなく街を歩いていて、魔族が大挙してあちらに乗り込めば、すぐ絶滅しそうだなと思った」
「おい」
「実際に乗り込むつもりはない。あの術で大量に送り込むことなど不可能だからな。様々な条件が揃わなければ、発動することさえ難しい。それに、魔族が空気の薄いあちらにいられるのは数日が限界だろうから」
「罠に掛かってこっちに来た人間もさ、皆ああやって普通に暮らしてたんだよ。皆にそれぞれ生活があって、大事なものがあって、それを守って生きてんの。だから……、もうやめない?」
「罠を、ということか」
「そう。いいじゃん。俺がいるんだから」
「今はほぼやっていない。普段はゲートを閉じているから、罠にかかったとしても、空間が繋がらずにこちらには来ない」
「え、そうなの?」
 新しい人間がここ何年も来ていないのは、ただ単に掛かる獲物がいないだけだと思っていた。
 彼は首肯する。
「面倒だからな。獲物を巡って配下どもが争いを始めることがあって、城の治安が悪くなるんだ。何年か前にお前を殺そうといた女もいたし」
「……そうなんだ」
「安心したか」
「うん」
 案外大丈夫かもしれない。多分、きっと。
 今日は航も休日ということにして、おやつの時間までだらりと過ごした。

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