2-(3)彼方と此方

 出されたそれを堪能しながら飲み込み、彼は舌舐めずりをする。
「美味い」
「それはよかったですね。……あんたは?」
「私はいい。体力は温存しておく」
 なんだか自分だけだと中途半端に感じてしまうが、時間は掛けすぎない方がいいだろう。こんな場面を両親に見られてしまえば、どうにも言い訳しようがない。
「いったん外に出よう。親と会う前に、色々考えたい」
 なるべく騒ぎが小さくなるように策を練らねば。
 まずはてきぱきと布団を片付けてしまい、ずらしたテーブルを元に戻す。
 次は持っていく物の準備。外に出るとなれば必ず金が必要になる。二階の自分の部屋で財布を確認したが、三千円しかない。そういえば、お年玉貯金があったはず。貯金箱を見ると、十万円ほどあった。とりあえずこれだけあれば充分だろう。極端に物価が上がったりしていなければ。貯金分も財布に突っ込んだ。
 スマホは……、部屋には見当たらない。不便だな。しょうがないけど。時間は腕時計があればわかる。つけていこう。
 愛用していたリュックに入れるのは、財布とハンカチくらいでいいか。あとは月の本も忘れずに。月の本——こちらの世界にある、あちらの世界のもの。
「……持って来れたんだよな、この本。服も着てたし。俺があっちに行ったときは、裸で何も持ってなかったのに」
「異界に渡るときは身一つというのが基本だ。その方が成功確率が高い。だが、今回は本を持って行かせる必要があったから、当人と持ち物が一緒に移動できるよう術式に追加した」
「へえ」
 そんなカスタマイズもできるのか。航を里帰りさせるために、試行錯誤していたのだろう。航のために——。罠に掛かった当初のことを考えれば、彼も大分変わったのかも。
 感慨に浸る余裕はない。あちらから寝間着で来てしまったので、クローゼットの中にあった服に着替える。帽子とマスクを着用すれば、近所で顔がさすことはあるまい。
 ヨマはどうしよう。サイズが全然違うから、航の服は貸せない。シャツとズボンだけのシンプルな家着なので、奇抜な出で立ちには見えないし、このままでもいいか。
 耳は髪で隠す……にしても、街中でこの顔は目立つだろうな。服は普通でもコスプレ感が出る。まあ、あまりに浮くようなら帽子でも被らせることにしよう。
 脱いだ寝間着もリュックに突っ込み、再び一階へ。洗顔と身だしなみチェックをする。
 準備に時間がかかって、彼が苛々し始めたため、最後にトイレだけ済ませ、慌てて出発した。予備の鍵は裏庭のプランターの下、変わっていない。鍵を掛けてまた元に戻しておく。
 一番に行ったのは、最寄りのコンビニ。朝食のパンと水二本を買って、歩いて数分、住宅街の中の人気のない公園で食べる。ヨマにパンを勧めてみたが拒否された。水しか口にしない。
「食べないと力出ないよ」
「小麦や妙な調味料は身体が受け付けないんだ。変な物を食べる方が体調を崩す」
「肉なら大丈夫なんだよな。焼肉食べ放題でも行くか……」
「腹は減っていないから後でいい。ここには里帰りに来たのだろう。家族がどこにいるのか調べられないのか」
「電話すりゃいいんだろうけど、いきなり電話したって信じてもらえなさそうなんだよなあ。まずじいちゃんのとこにでも行こうか」
「お前の好きにすればいいが」
 公園からも実家からも祖父宅は近い。手早く朝食を終わらせて向かう。
 門のチャイムを押すが、出ない。
「留守かなあ」
「この家にも人のいる気配がないぞ」
「そっか。残念」
 散歩か、買い物か、町内会の集まりか、そんなところかも。あるいは、両親の旅行に同行しているとか。
 いないのなら仕方ない。何となく駅の方へ歩く。
 通勤通学時間から外れているので、人はあまり多くない。すれ違う人の何人かから、ちらちら横目に見られる。注目されているのは航ではなく、もちろんヨマの方。
「ここでは私が異質か」
「だろうね。こっちに魔族はいないから。単純に背が高くて目立つってのもあると思うけど」
 謎のコスプレ感の正体は、こちらの世界には馴染み得ない彼の異質さだろう。
 家族が帰ってくるまでの間、時間を潰さねばなるまい。電車に乗って主要駅へ出ることにする。
 あちらの世界には電車も機関車も走っていないし、街の様子も大分違うが、彼にはあまり驚いた様子がない。
「いちいち騒ぎ立てては余計に目立つだろう」
 確かにそのとおり。
 こちらとあちらは違う。こちらの世界は娯楽が溢れている。繁華街に直結する主要駅に降り立ったたとき、制限の多い生活から一時解放されたのだと実感して心が弾み、悩み事はひとまず置いて遊ぼうと決めた。完全に現実逃避、うん、わかっている。
 駅構内で、映画『スペード・ライオン』シリーズの続編上映中とのポスターを発見する。3で終わりと言われていたのだが、4が作られたらしい。
 航はこのスパイアクションシリーズが大好きで、DVDも持っていた。主演俳優がとにかくクールで格好いいのだ。是非とも見に行きたい。一応聞いてみたら、ヨマもついてくるという。
 今日は平日らしく、映画館は空いていて、すぐ後の回に滑り込むことが出来た。上映中、航は終始ハラハラドキドキで、テンションが上がりっぱなしだったのだが、ヨマの感想は、「耳が痛かった」。人間よりはるかに耳がいいらしいから当然かも。人間だって、特に銃撃シーンなどは音が大きくてびっくりすることもある。途中で退席すればよかったのに。可哀想なことをしたな。
 続いて、飲食店が開き始める時間なので、少し早いが昼食を取ることに。「妙な調味料」で味付けされていない肉をたくさん食べられる場所、焼肉食べ放題店へ。
 やはり腹が減っていたのだろう、提供された皿から生肉を直接食べようするヨマを、慌てて止める。あちらで狩りたての獣を生食しているのはよく見ているが、こちらで何かあれば彼を診てくれる医者はいない。それに、店員に注意を受けても面倒だ。
 焼かないと店を追い出される、と説得して、網の上で火を通した肉を、次々に彼の皿へ盛っていく。タレは使わず、塩だけつけて食べていた。大量に平らげ、他の客や店員から外国人観光客すげえな、というような目で見られていた。
 食後も色々回る。友達とよく行った店だったり、新しくできた店だったり。普段好き勝手されているのだから、たまには航が好き勝手してもいいよね、と途中から開き直り、彼を連れ回すことへの遠慮もなくなった。
 うん、やっぱり楽しい。こちらの世界は。楽しすぎて遊んでばかりいて、両親への説明をどうするのか何の策も練れていない。そろそろ日暮れの時間。現実に向き合わねばならない。
「母さんたち、もしかしたらもう帰ってるかも」
 ひとまず実家に戻ろう。

 最寄り駅から実家への道で、祖父宅の近くに差し掛かったとき、見覚えのある車が側を通り抜けていく。父の車だ。咄嗟に電柱の影に隠れて窺うと、車は祖父宅の門の前で停まった。
 七年前より白髪の増えた祖父が、車を降りてくる。
「ありがとう、久しぶりに楽しかったよ」
 車内からは父の声がする。
「片づけはほどほどにして、今日はもう早く寝た方がいいよ」
「ああ、そうするよ」
 続いて母の声も。
「またご一緒しましょうね」
「是非行こう。香苗さんもよく休んでおくれ」
「はい」
 車は走り去り、祖父は家に入っていく。やはり皆で旅行だったのかな。元気にしているみたいでほっとした。
 家族が現れ、消えていった空間を、ぼんやりと眺める。立ち尽くす航の肩を、ヨマはたたく。
「行かなくていいのか」
「うん、行く。行くけど」
「なら早く行け。私は適当に暇を潰している。再会を楽しんだら、また夜中にでもあの公園に来い。後悔の無いようにしろよ。あちらからこちらへ渡る術は、そう何度も頻繁に使えるものではないんだから」
「公園って、朝行った公園?」
「そうだ」
「あんた、一人で大丈夫なの」
「大丈夫に決まっているだろう。何もできない子供じゃあるまいし」
「……しれっと一人であっちに帰ったり」
「しない」
「そう。じゃあ」
「じゃあな」
 航を見送ることはせず、彼は踵を返して駅の方角へ歩いていく。取り残されるのが、たまらなく不安に感じた。
 決めなければならないのは、両親への説明内容だけではない。自分の身の振り方もだ。あの男と共にあちらの世界に戻る、選択肢はそれだけじゃない。生まれ育った家に帰って、また両親と共に暮らすことだって……。
 何とか理由をつけて、彼を先にあちらへ帰らせ、航はずっとこちらにいればいい話。しかし、なかなか帰ってこない航に痺れを切らし、彼がこちらに連れ戻しに来たら……、大騒ぎになるかも。駄目だな。やっぱり航はあちらに戻らないと。
 ……どうしてあちらに戻る理由を探しているのだろう。
 明かりのついた祖父の家を見上げる。疲れているだろうし、今からの訪問はお年寄りには負担が大きいかな。行くなら両親の家の方。
 行って……、行ってどうする。こちらとあちらの行き来は頻繁にできるものではないという。あちらの世界に戻れば、再びこちらに来られるかどうかは不明。家族と会ってしまえば、すぐに別れが訪れ、以後永遠に顔を合わせることがないまま、彼らは二度も息子や孫を失うことになるかもしれない。今は平穏の中で生きる彼らを、また悲しみの沼に沈めることになるくらいなら、いっそ会わない方がよいのでは。
「やっぱりあっちに戻る前提で考えてる……、俺」
 どうしても家に足は向かず、付近をうろうろしたあと、公園に辿り着く。時刻は午後六時過ぎ。放課後の子供たちも帰宅した時間帯。夕日差すベンチに座った。
 ぼんやりと思い出す。ここで友達と鬼ごっこをして遊んだこと、共働きだった両親の代わりに、祖父と逆上がりや自転車の練習をしたこと、桜の季節に家族とお弁当を食べたこと。幸せで温かい記憶。それらはどこにいたって消えることなく航の胸の中にある。
 思い出の海を揺蕩い、じっとしたまま、一時間ほど経っただろうか。
「航」
 呼び掛けに顔を上げると、眼前にヨマが立っていた。
「何をしている。行くんじゃないのか」
「行こうと思った、けど、行けなくて」
「なぜ。訳がわからん」
「……俺も」
「時間がない。私は今夜あちらに帰るぞ」
「今夜……?」
 またしても急だ。
「こちらは空気が薄いから、身体が合わないんだ。息がしづらくなってきた」
「え、それって大丈夫なの?」
「大丈夫だ。今はな。大丈夫なうちに帰る」
「……そう」
 多分、嘘じゃない。長く共に暮らしていても、彼が航に嘘をついたことは一度もないから。魔力を糧とする魔族にとって、魔力の供給の少ないらしいこちらは、過ごしづらい世界なのだろう。
「帰るときは月の本を使う」
「うん」
「対象者と持ち物が一緒に移動するように、この本も書き換えてあるから、私が使えばこの本も向こうに行く。こちらの世界からは消える。手元にある本はこの一冊だけだ。処分されたのか何なのか、以前お前が使った月の本はあの家にはなかった。他の罠がどこにあるか、私もピンポイントでは場所を把握していない。つまり、この本を使って帰らなければ、お前は向こうに戻れるかどうかわからない」
「うん……」

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